第11話
ライゼンがギルドの引き戸へ向かって歩き出したとき、背後から鋭い呼び声がした。
「おい、ライゼンさん。ちょっと待ちな」
振り返ると、黒い前掛けをした受付の男が、帳場のカウンターの仕切りを押し上げて土間へ出てくるところだった。
男は丸めた羊皮紙を一本、指に挟んでいる。ライゼンの前に来ると、それを広げて突き出してきた。炭の粉で雑に描かれた地図だった。
「これを持ってけ。うちの支部で実地をやるときにいつも使ってる場所だ」
ライゼンは羊皮紙の端をつまみ、描かれた線を目で追った。
南門から街道をしばらく進み、山裾の手前で西へ折れる細い線が引かれている。その先、起伏を示すように幾重にも重ねられた黒い輪の底に、一本の曲がりくねった沢が走っていた。沢の屈曲点に丸印がつけられ、『水場・岩清水』『幕営地』と小さく書き込まれている。
「沢の北側は岩盤が硬い。南側の斜面は赤土で脆いから、天幕を張るなら北の段丘だ。水は沢の水を直接飲むなよ。上流の岩肌から湧いてる筋があるから、そこから汲め」
受付の男はそう言うと、帳場の足元から、紐で縛った灰色の毛布を一つ抱え上げて差し出してきた。洗われてはいるが、あちこちに繕い跡のある、目の詰まった粗い羊毛だった。
「小僧の分だ。あの様子じゃ天幕も毛布も持ってねえんだろ。講習生用の備品だ。汚してもいいが、破いたら弁償だからな」
ライゼンは毛布を受け取り、背負い袋の天蓋の革紐を緩めて挟み込んだ。金具を締め直すと、肩に食い込む重みがわずかに増した。
「分かった」
「三日後の夕方には戻ってこいよ。報告書はその時に書けばいい」
男はそう言い残し、帳場の奥へと戻っていった。
◇
南の門へ向かうと、木柵の脇でエントが所在なげに立っていた。
薄い上着の懐に両手を突っ込み、寒さを紛らわせるように爪先で地面の赤土を小刻みに蹴っている。門の影からライゼンの姿が見えると、弾かれたように顔を上げ、小走りで駆け寄ってきた。
「ライゼンさん! 門番の人に話したら、通してくれるって言われました!」
エントの息は白く、鼻の頭が寒さで赤くなっていた。腰の細身の片手剣が、動くたびに鞘の中でかすかにカタカタと音を立てている。
土塁の切れ目に立っていた門番が、槍の柄を石畳に突いて二人を見下ろした。
革の胸当ての留め具に泥がこびりついている。門番はライゼンの真鍮札と、エントが懐から出した白木の木札を一瞥し、帳面に短い印をつけた。
「講習か。……南の山裾へ入るなら、少し気をつけろよ」
門番が槍の先で、遠く霞む山並みの端を指した。
「最近、大角鹿の群れがいつもより下まで降りてきてるらしい。採石場の連中が、街道の手前の沢筋で見かけたって言ってたぞ」
「大角鹿ですか?」
エントが身を乗り出した。
「それって、掲示板に出てた討伐のやつですよね。やっぱり大きいんですか? 凶暴なんですか?」
「馬より一回りデカい。角を振り回されたら、お前みたいな小僧の腹なんざ一突きで穴が開くぞ」
門番は鼻を鳴らし、木柵の丸太を片手で押し開けた。
「無駄口叩いてねえで、さっさと行きな」
ライゼンは短く頷き、門をくぐった。エントが慌ててその背中を追い、二人の靴音が盆地を渡る朝風の中に吸い込まれていった。
◇
南へ延びる街道は、町を出るとすぐに緩やかな上り勾配になった。
両脇に広がっていた荒れ地は徐々に灌木混じりの雑木林へと変わり、小石の混じる赤土の道が靴底を押し返してくる。空は一面の薄雲に覆われ、山裾から吹き下ろしてくる風には、湿った腐葉土と冷たい岩肌の匂いが混じっていた。
砂時計二つ分ほど歩いたところで、ライゼンは街道を外れ、右手の獣道へ踏み入った。
雑木林を抜けると、前方の視界が開け、大人が四、五人並べるほどの幅の涸れ沢の跡が深く切れ込んでいた。底には丸く削られた白い転石が転がり、その中央をごく細い水流がさらさらと音を立てて流れている。受付の地図にあった沢だった。
ライゼンは沢の北側、水面から腰の高さほど高くなった平らな段丘で立ち止まり、背負い袋を下ろした。
荷を置くとすぐに、腰の短剣の柄に右手を掛け、歩き出した。
「あ、ライゼンさん? どこ行くんですか?」
エントが息を切らせながら、慌てて後ろをついてくる。ライゼンは答えず、段丘の縁をなぞるように歩いた。
足元の土は砂利が混じって固く締まっており、水かさが増してもここまで水が這い上がってくる気配はない。背後の斜面を見上げる。頭上には突き出た岩盤があるが、根元はしっかりしており、落石の心配は薄かった。
そのまま沢の上流へ向かってしばらく進む。
岩肌の割れ目から、親指ほどの太さの清水が筋になって滴り落ちていた。ライゼンは指先を差し出し、水に触れる。冷たく、濁りはない。
エントが横から首を伸ばした。
「これ、飲める水ですか?」
「飲める」
「沢の水はダメなんですか?」
「上流に獣の死骸があれば腹を下す」
ライゼンはそれだけ告げると、踵を返して下流側へ歩いた。
沢の南側の斜面へ目をやる。赤土が剥き出しになっており、ところどころ雨水で崩れている。足を掛ければ崩れて滑落する斜面だ。登る道ではない。
視線を北側の斜面の切れ目へ移す。
低木の茂みが薄くなり、人の背丈ほどの傾斜の緩い土手が、先ほど歩いてきた街道の方向へ抜けていた。足場となる木の根が露出しており、駆け上がるならそこだった。
エントがライゼンの視線を追い、同じように土手を見上げた。
「ライゼンさん、あそこ、何かいるんですか?」
「逃げ道だ」
「え?」
「何かあったら、沢を走るな。足を取られる。あの根を掴んで土手へ上がれ」
エントは目を瞬かせ、土手に突き出た黒い木の根をじっと見つめた。
「……はい」
◇
段丘の中央、風の当たらない平地に二人で戻った。
ライゼンは背負い袋の脇に立てかけた長剣には触れず、エントに向き直った。
「剣を抜け」
「えっ、今から戦うんですか!?」
「抜け」
エントは慌てて腰の帯に手をやり、細身の片手剣を鞘から引き抜いた。
刃渡りは腕の長さほど。刃金は薄く、刃先まで型どおりに研ぎ出されただけの、ギルドの武器屋に並ぶ最も安価な量産品だった。
ライゼンはエントの右手を見た。
革手袋をはめた指先が、柄の全体を力任せに握りしめている。人差し指が鍔に強く押し付けられ、手首の筋が白く張っていた。
「構えてみろ」
エントが剣先を正面に向け、腰を落とそうとした。その拍子に、剣身の根元からカチリと微かな金属音が鳴った。
ライゼンは一歩踏み込み、エントの右手を上から掴んだ。
「握り込むな」
ライゼンの指が、エントの親指と人差し指を柄から浮かせた。
「親指と人差し指は添えるだけだ。小指と薬指で持て」
「こ、小指と薬指……」
エントが指の力を抜き、ぎこちなく握り直した。
ライゼンはエントの剣の切先を二本の指でつまみ、軽く左右に揺すった。
カチ、カチと、柄と鍔の合わせ目から鈍い隙間音が鳴る。
「根元が緩い。目釘の留めが甘いな」
「あ、やっぱり分かりますか? 振るとちょっとグラグラするんですよね。安かったから仕方ないんですけど」
「叩きつけるな」
ライゼンは切先を離した。
「骨や角を叩けば、根元から折れるか、柄が抜ける。当てるなら刃の半ばから先だ。引いて切れ」
「引いて、切る……」
「振ってみろ」
エントは言われた通りに手首の力を抜き、腕を斜めに振り下ろした。
ヒュッ、と風を切る音が短く鳴る。根元のガタつく音はしなかった。エントは自分の手元と剣先を見比べ、驚いたように目を丸くした。
「あ……音がしない」
「鞘に収めろ」
「はい!」
◇
ライゼンは背負い袋から小刀を抜き、近くの雑木林の縁へ歩いた。
倒木や立ち枯れの低木から、腕の太さほどある枯れ枝を三本、小刀で切り落として拾い集める。段丘へ戻ると、二本の枝を地面に斜めに突き刺し、もう一本を横木として渡した。簡単な骨組みができる。
その骨組みの風上側へ、手元にあった太いシダの葉と枯れ枝を、下から上へと順に重ねて立てかけていった。
手早く、人の膝ほどの高さがある、風を遮る片流れの壁が組み上がった。
ライゼンは小刀を鞘に収め、エントを見た。
「作れ」
「えっ、俺もですか!?」
「天幕がないだろう」
「あ、そっか……はい! 作ります!」
エントは腰の剣を外して地面に置き、雑木林へと走っていった。
しばらくして、エントは両腕いっぱいに枝を抱えて戻ってきた。だが、拾ってきた枝はどれも指の太さほどしかなく、地面に突き刺そうとすると、しなって折れ曲がった。
エントが困ったようにライゼンを見る。ライゼンは自分の足元にある太い骨組みの枝を、靴底の爪先で軽く小突いた。
「……太いやつですね!」
エントは再び林へ走った。
二度目に太い枝を持ち帰り、地面に突き立てて骨組みを作った。今度はその上に、拾ってきた枯れ草をごっそりと山盛りに乗せた。だが、上から無造作に被せたため、隙間から風が吹き抜け、枯れ草の端がバラバラと地面に落ちた。
ライゼンは手を出さず、腕を組んだまま一言だけ言った。
「下から重ねろ。屋根の板と同じだ」
「下から……あ、そうか! 重なりを作らないと落ちるんだ!」
エントは草を取り払い、下からシダの葉を敷き詰め、その上に枝を噛ませながら少しずつ上へ積み上げていった。
四苦八苦しながら、しばらくかけて出来上がった風よけは、ライゼンのものより歪で背が低かったが、北からの冷たい風を手で遮ると、壁の裏側にはほとんど風が入ってこなくなっていた。
ライゼンは背負い袋の天蓋から、ギルドで借りてきた灰色の毛布を解き、エントの足元へ放った。
「使え」
「えっ、毛布……! 借りてくれたんですか!?」
「汚すな。破いたら弁償だ」
「大事に使います! 絶対に破きません!」
エントは毛布を胸に抱きしめ、風よけの奥の窪みに丁寧に敷き詰めた。
ライゼンは沢の小石を拾い集め、二つの風よけの中間に火床を組んだ。
腰の革袋から火打ち石と鉄片を出し、エントの足元へ放る。
「起こせ」
「はい!」
エントはまず、足元から一番乾いた草の芯を抜き出し、手のひらで揉みほぐした。
三度目の火花で、細い煙が立った。涸れ沢の夜のように、火を散らすことも、石を取り落とすこともなかった。
◇
日が落ちると、沢の底は急速に冷え込んできた。
山裾から吹き下りてくる風が梢を激しく揺らし、ザワザワと波のような音を立てている。だが、二人が作った風よけの内側には、焚き火の熱が柔らかく溜まっていた。
ライゼンは小鍋を取り出し、岩清水から汲んできた水を多めに注いで火床に据えた。
湯が沸き立つと、ベルタの油紙から塩漬け肉の塊を取り出した。小刀でいつもより厚めに肉を削ぎ落とし、親指大の切れ端をいくつも放り込む。朝のうちに水へ浸けておいた白豆も、掌いっぱいに二握り分を鍋に落とした。
肉の脂が白く泡立ち、濃い塩気を含んだ蒸気が立ち上る。
豆の皮が破れるまで煮込み、ライゼンは鍋を火から下ろして地面の平らな石の上に置いた。
背負い袋から自分の木匙を取り出し、もう一本、予備として袋の底に入れてあった柄の短い木匙をエントの前へ放った。
「食え」
エントは目を見張り、木匙と鍋を交互に見つめた。
「……いいんですか? 俺、何も持ってないのに」
「残しても腐る」
ライゼンはそれ以上言わず、自分の木匙で煮込みをすくい、口へ運んだ。
「……いただきます!」
エントは木匙を握りしめ、熱い汁をすくって口に流し込んだ。
「あつっ……でも、うまっ……! 肉、すごく味が出てます。豆も柔らかいし……」
エントは夢中で匙を動かした。二口、三口と汁を飲み、肉の塊を噛み砕くたびに、強張っていた肩の力が抜けていくのが分かった。
ライゼンが堅パンを半分に割り、片方を差し出すと、エントは両手で受け取って鍋の汁に浸し、口いっぱいに頬張った。
「ライゼンさん」
パンを飲み込み、エントが火の向こうから顔を上げた。焚き火の炎が、その黒い瞳を赤く照らしている。
「ライゼンさんって、ずっとこうやって一人で旅をしてるんですか?」
「いや」
「前は、仲間がいたんですか?」
「……いた」
「やっぱり! さっきのギルドの受付の人も、ライゼンさんのことベテランだって言ってましたもんね。どんな人たちだったんですか? やっぱりみんな強くて、大きい魔物とか倒したりしたんですか?」
ライゼンは木匙を動かさず、静かにエントの顔を見た。
「もう解散した」
「あ……」
エントは匙を止め、口をすぼめた。
「すみません、余計なこと聞いちゃって……」
「飯を食え。冷める」
「はい!」
エントは再び匙を動かし、鍋の底に残った汁を最後の一滴までパンで拭い取った。
食べ終えた鍋を沢の水で濯ぎ、油布で拭き取って片付けると、周囲の闇はいっそう深くなっていた。見上げる空には雲の切れ間から星がいくつか覗いていたが、風は止む気配がなかった。
エントが立ち上がり、自分の腰の剣に手をかけた。
「あの、見張り、俺が最初に立ちます。ライゼンさんは先に寝てください」
ライゼンは火床の脇に腰を下ろしたまま、太い薪を一本、火の芯へくべた。
「寝ろ」
「えっ、でも――」
「お前が寝ずの番をしても、足音一つ聞き分けられない。明日の朝、動けなくなるだけだ。寝ろ」
言葉に怒りはなかったが、それ以上口答えを許さない平坦さがあった。
エントは言葉を飲み込み、頭を下げた。
「……分かりました。おやすみなさい、ライゼンさん」
エントは自分の風よけの奥へ潜り込み、毛布を肩まで引き上げた。しばらく身じろぎをする衣擦れの音がしていたが、やがて規則正しい、深い寝息に変わっていった。
ライゼンは長剣を膝の上に横たえ、火床の前に一人座っていた。
風が風よけの枝を激しく叩き、沢の水音が闇の底から途切れずに響いてくる。
薪がパチと爆ぜて火の粉が小さく舞い上がり、夜気の中へ消えていった。ライゼンは瞬きもせず、火の向こうの暗がりを、ただ静かに見据えていた。




