第12話
朝の冷気が沢の底に溜まり、白い息が水面に触れて薄く流れていった。
ライゼンは小刀を抜き、水際に生えた細い柳の枝を切り落とした。親指ほどの太さの芯になる枝を四本、その周りに絡める細くしなやかな枝を十数本、手早く切り揃える。
水深が脛の半ばほどまで浅くなった瀬の前に立ち、水底の小石の並びを見た。
水流が岩の角に当たって右へ寄り、砂利の浅瀬へ抜ける筋がある。
「石を運べ」
ライゼンは水の中へ踏み入りながら、背後のエントに言った。
「頭くらいの大きさの石だ。苔のついていない、角の丸い硬いやつを拾え」
「石ですね! はい!」
エントは両手で濡れた丸石を抱え、水際まで運んできた。靴の先を水につけないよう、ぎこちなく腰を引いている。
ライゼンは受け取った石を、水流を斜めに塞ぐように並べていった。川幅の半分ほどを塞ぎ、水が狭い隙間へと勢いよく集まるように石垣を組む。
「隙間に拳大の石を詰めろ。裏側に砂利を流して隙間を塞げ」
「こうですか?」
エントが冷たい水に手を突っ込み、砂利を掻き集めて石の合わせ目に押し込んだ。水流が遮られ、塞がれた石垣の切れ目へ白く泡立って集中し始める。
ライゼンは切り揃えた柳の枝を麻糸で手早く編み、先がすぼまった細長い籠を組んだ。籠の口を上流に向けて、水流が集まる切れ目に差し込み、両脇を二つの重石で挟んで固定する。
「入ったら出られないやつですね。これでずっと待つんですか?」
「ここでは待たない」
ライゼンは水から上がり、濡れた手の甲をズボンの裾で拭った。
「沈めておけば勝手に入る。その間に山へ入る」
「あ……別の獲物を狙いに行くんですね」
「手を止めるな。段取りを重ねろ」
ライゼンは背負い袋から細い銅線と麻紐を束ねた小袋を取り出し、腰の帯に挟むと、沢の北側の斜面へ向けて歩き出した。
◇
雑木林へ入ると、頭上の梢が風を遮り、足元の腐葉土が靴底を柔らかく沈ませた。
赤土の混じる斜面をしばらく登ったところで、ライゼンは足を止めた。腰の短剣の鞘の先を伸ばし、低木の根元に転がっていた黒い塊を指した。
「見ろ」
エントが横から覗き込み、眉を寄せる。
「……糞、ですよね。丸くて小さいです」
「何の跡だ」
「ええと……野兎ですか?」
「いつのだ」
エントはしゃがみ込み、鼻を近づけてから指先で表面をつつこうとした。
「触るな。小枝で割れ」
エントは足元の小枝を拾い、糞の塊を二つに割った。断面から湿った緑褐色の繊維が覗く。
「中がまだ湿ってます。今朝……さっき通ったばかりですか?」
「そうだ。夜明け前のやつだろうな」
ライゼンは歩き出し、斜面を横切る獣道を辿った。
シダの葉が押し倒され、低木の枝の先端がところどころ鋭く食いちぎられている。草の葉についた朝露の落ち具合を見ながら、ライゼンは再び立ち止まった。
木の幹の根元、土が露出した場所に、二つの深い窪みが残っていた。蹄の跡だった。人の掌よりも大きく、二つに割れた先端が深く土に食い込んでいる。
エントが息を呑み、ライゼンの肘のあたりを見上げた。
「これ……門番の言ってた大角鹿ですか?」
「そうだ」
「いつのですか? まだ近くにいますか?」
エントは腰の剣の柄に手を伸ばし、林の奥の暗がりを見回した。
「足跡の縁を見ろ」
ライゼンは言った。
「崩れている。窪みの底に枯れ葉が二枚落ちて、雨で土が固まっている」
「雨の……」
「古い。三日前のやつだ」
ライゼンは足跡を跨ぎ、そのまま斜面の奥へ進んだ。エントは柄から手を離し、もう一度蹄の跡をまじまじと見つめてから追いかけてきた。
斜面が緩やかになり、笹の群生が途切れたあたりに、草がトンネルのように丸く刈り込まれた細い抜け道があった。地面の土が固く踏み固められ、灰色の毛が一本、小枝に引っかかっている。
「ここを通る」
ライゼンは腰から銅線を取り出し、親指大の輪を作った。
低木のしなやかな生木を引き寄せ、その先端に麻紐を結びつける。紐の先には小さな木片の留め木を噛ませ、地面に打ち込んだ杭の溝に浅く引っ掛けた。そこに銅線の輪を広げ、野兎の頭の高さに合わせて宙に吊るす。
「首を突っ込んで引けば、留め木が外れて木が跳ね上がる。力任せに引っ張られると針金が締まる」
「なるほど……木が跳ねる反動を使うんですね」
エントは仕掛けの留め木の噛み合わせを、目を細めて見つめた。
ライゼンは別の獣道にもう一つ同じ罠を仕掛けると、斜面の風下へ回り込み、木立の影に身を潜めた。
風が笹の葉を擦る音だけが林を満たしていた。
砂時計ひとつ分ほど待ったころ、斜面の上からパサ、と乾いた葉の擦れる音がした。
灰褐色の毛並みを持った野兎が、鼻先をひくつかせながら笹のトンネルから顔を出した。前足を二度動かし、周囲の気配を窺うように立ち止まる。
野兎が一歩踏み出した瞬間、ビシッ、と乾いた木肌の跳ねる音が響いた。
低木の枝が跳ね上がり、銅線に首を引っかけられた野兎が宙に吊り上げられた。四肢がしばらくばたついたが、ほどなく、その動きが止まった。
ライゼンは立ち上がり、枝から野兎を外した。まだ生温かい胴体をエントの胸元へ放り渡した。
「持て」
エントは両手で受け止め、ずしりとした重みに目を見張った。毛皮越しに微かな温もりが伝わってくる。
「……獲れた」
◇
沢へ戻ると、瀬の白泡の中に沈めておいた柳の籠が、水圧で重く揺れていた。
ライゼンは石垣を崩さずに籠の尻を持ち上げた。水が網目から勢いよく抜け落ち、底で銀色の鱗が激しく跳ね回った。手のひらほどの大きさの川魚が三匹、籠の奥で身をよじらせている。
段丘の平らな岩の上に、獲った魚と野兎を並べた。
ライゼンは小刀の柄をエントへ差し出した。
「お前がやれ」
「えっ、俺がですか?」
「解体だ」
エントは唾を飲み込み、小刀を受け取った。
「まず魚だ。尻の穴から刃を入れろ。腹の皮一枚だけを裂け」
一匹目は刃が深く入りかけ、ライゼンが後ろから手首を掴んで刃を寝かせた。
「内臓を潰すと、身が全部苦くなる」
二匹目、三匹目と捌くうちに、エントの手元から迷いが消えていった。三匹目は一度も刃先を内臓に当てることなく、手際よく腹を開いて洗い落とした。
「次は兎だ」
ライゼンは野兎の後ろ足を木の枝に麻紐で縛り付け、逆さに吊るした。
「足首の皮をぐるりと切れ。股の内側から腹に向けて、皮だけに筋を入れろ」
エントは小刀の切先を慎重に滑らせた。獣の毛が刃先に絡みつき、白い皮下脂肪が露出する。
「ここからは手で剥げ。刃物を使うな、肉を傷める」
エントは親指を皮と肉の隙間に押し込み、力任せに下へ引き下ろした。メリメリと筋膜の裂ける音がして、灰色の毛皮が裏返りながら靴下を脱ぐように剥がれていく。生臭い血と内臓の熱気が、午後の冷えた風の中に立ち上った。
エントの指先は血で赤く染まり、前腕に脂がこびりついていた。
腹を割り、内臓を取り出し、四肢を関節の継ぎ目から切り落とす。ライゼンは横から見ているだけで、骨と骨の噛み合わせに小刀の刃先が入らないときだけ、指先で関節の裏を強く押して骨を外してやった。
すべての解体作業が終わるころには、太陽は西の山の端に隠れかけていた。
◇
夜になり、二つの風よけの間で焚き火が赤く熾っていた。
串に刺した川魚の皮がパチパチと音を立てて焦げ、串の根元から脂が滴り落ちて灰を燻らせている。小鍋の中では、ぶつ切りにした野兎の肉と白豆が、濁った塩汁の中でぐつぐつと煮立っていた。
エントは串魚に食らいつき、骨の周りの白身をきれいに平らげた。
「うまい……。川の魚って、もっと泥臭いと思ってました」
「内臓を早く抜けば臭わない」
ライゼンは煮立った鍋を、エントのほうへ押しやった。エントは熱い肉を息を吹きかけながら口に放り込み、骨から肉をこそぎ落とすようにして噛み締めた。
食事が終わり、鍋を洗って火床の脇に戻したところで、ライゼンは長剣を取り上げて膝の上に置いた。
「今夜の見張りの順番を決める」
エントが背筋を伸ばし、真剣な顔でこちらを見た。
「最初は二人で起きる。火が小さくなるまでの間だ。その後、お前が砂時計ひとつ分立て。交代で俺が朝まで立つ」
「砂時計ひとつ分……俺、一人で立つんですね」
「そうだ」
ライゼンは焚き火の薪を小刀の背で突き、火の粉を散らした。
「火を見るな。火を見つめると目が眩んで、周りの暗がりが何も見えなくなる。見るのは火の向こうの闇と、立ち木の輪郭だ」
「立ち木の輪郭……」
「耳を使え。沢の音と、風の音の隙間を聞け。虫の声が止んだら、何か大きなものが動いている。異音や気配を感じたら、確かめに行こうとするな。声を上げずに、足元にある小石を俺の敷布へ投げろ」
「石を投げる……分かりました」
エントは唾を飲み込み、闇の広がる林の奥へ視線を向けた。
風が梢を揺らし、ザワザワと葉が擦れ合う音が響いている。遠くの山裾で夜鳥が低く鳴いたが、それ以外に動くものはなかった。
◇
火床の薪が徐々に崩れ、炎が落ち着いて赤い熾火へと変わっていく。
二人は風よけの前に並んで座り、暗がりを見据えていた。
エントが膝を抱え、衣擦れの音を立てた。
「……ライゼンさん」
「何だ」
「俺、ずっと一つの町にいるのが嫌だったんですよ」
エントの声は低く、焚き火の爆ぜる音に混じって滑らかに出てきた。
「生まれた町は退屈で、周りの連中はみんな親の跡を継いで、畑を耕すか、店番をするかしかなくて。俺、いろんな町を見てみたかったんです。街道の先にある大きな城のある町とか、南の港町とか、見たこともない場所へ行ってみたくて」
エントは地面の小石を指先で弾いた。
「でも、商家の小僧とか大工の見習いになったら、何年もその町から出られないじゃないですか。親方に縛られて、定職に就いたら一生その場所で暮らすことになる。それじゃ嫌だったんです。だから、冒険者になったんですよ」
エントは顔を上げ、少し誇らしげに白い歯を見せた。
「冒険者なら、腕さえあればどこへ行っても稼げるでしょう? ギルドはどこの町にもあるし、木札一枚あれば、移動した先で依頼を受けて、その日の飯代を稼いで、また次の町へ行ける。定職に縛られないで旅を続けられるんだから、すごく賢いやり方だと思いませんか?」
風が吹き抜け、火床の灰がわずかに舞った。
ライゼンは暗がりの木立を見据えたまま、何も言わなかった。
エントは沈黙を気にする風もなく、首を傾けて横顔を覗き込んできた。
「ライゼンさんは、なんで旅をしてるんですか? こんなに強くて、前の町でもベテランだったのに、なんで一人で町を出て、あちこち歩き回ってるんですか?」
火床の熾火が、パチと音を立てて割れた。
暗い闇の奥、雑木林の切れ目に落ちる影を、ライゼンは瞬きもせずに見つめていた。
「……さあな」
短く答えた。
エントはそれ以上問い返さず、「さあな、ですか……」と小さく繰り返した。
沢の水音が、夜の静寂の中に低く、一定の拍子で響き続けていた。




