第13話
三日目の朝、沢の底には昨日よりも濃い白靄が立ち込めていた。
水音が湿った空気の中でくぐもり、頭上の岩肌から滴る岩清水の音が、規則正しい間隔で響いている。
ライゼンは敷布から起き上がり、火床の冷えた灰を小刀の先で掘り返した。熾火は完全に消えており、灰の表面には薄い霜が降りていた。
背後で、風よけの枯れ草が擦れ合う音がした。
エントが毛布を跳ね除け、身を起こした。目の周りに薄い隈が残っていたが、毛布を畳みながらすぐに立ち上がり、上着の襟首をかき合わせた。
「おはようございます、ライゼンさん」
ライゼンは小刀を鞘に収め、立ち上がった。背負い袋の紐には手をかけず、腕を垂らしたままエントを見た。
「今日はお前がやれ」
エントの手が止まった。抱えていた灰色の毛布を胸元に引き寄せ、瞬きをする。
「え……俺が、ですか?」
「野営を畳んで、水と食い物を確保して、山を見る。夕方には町に戻る。お前が先に立て」
それ以上は言わなかった。
エントは息を呑み、それから抱えていた毛布を小さく四つ折りに畳み直した。借り物の毛布の角を揃え、地面の土がつかないよう、平らな岩の上に置く。
「……分かりました。やります」
◇
エントはまず、腰の水筒を外して水場へ向かった。
沢の縁を歩く足取りは初日よりも慎重で、小石の浮いた脆い土を踏まないよう、固い岩肌を選んで爪先を着けていた。上流の岩清水の筋に水筒の口を当て、満杯になるまで待つ。栓を固く締め、腰に吊るした。
段丘に戻ると、火床の脇に据えていた石を一つずつ外し、沢の浅瀬へと戻していった。
風よけの解体にかかったが、横木にしていた太い枝を抜くところで手が止まった。枝の先端を地面から引き抜きかけたまま、周囲の木立とライゼンの顔を交互に見る。
「……これ、崩したほうがいいんですよね?」
ライゼンは岩に背を預けたまま、何も答えなかった。
エントは唇を少し噛み、横木を引き抜いた。集めていたシダの葉と枯れ枝を抱え、雑木林の元の茂みへ散らすように戻していく。地面に残った杭の穴を靴底で踏み均し、枯れ葉を蹴り寄せて覆い隠した。
沢の瀬に仕掛けておいた柳の籠を引き上げに向かう。
水流を塞いでいた石垣の端を少し崩し、水圧を逃がしてから籠の尻を持ち上げた。水が抜けた網の底で、平たい川魚が一匹、跳ねた。昨日のものより一回り小さい。
エントは魚の首根っこを掴み、岩の上へ運んだ。
解体用の小刀を抜き、刃先を魚の腹の皮一枚に滑らせる。昨日のライゼンの手の動きをなぞるように、刃を少し外側へ寝かせていた。皮が裂け、内臓が覗く。エラの下に指を入れ、一息に引き抜いた。
内臓の端が少し潰れ、わずかに緑色の汁が滲み出たが、エントは慌てて沢の水に魚を浸し、指の腹で血糊と汚れを念入りに洗い落とした。
小鍋に水を張り、魚のぶつ切りと、ライゼンが背負い袋から無言で差し出した乾いた堅パンの残りを放り込んで火にかけた。
火起こしも一人でやった。昨夜の残りの細い繊維を指先で揉みほぐし、二度目の火花で火種を作った。
汁を分け合い、口に運ぶ。魚の身は少し苦味が残っていたが、エントは何も言わずに噛み砕いて飲み込んだ。食べ終えると、鍋を砂で洗い、火床の跡に完全に土を被せた。
「……罠を見に行ってきます」
エントが立ち上がると、ライゼンは長剣を腰に帯び、無言で三歩後ろについた。
◇
雑木林へ入ると、エントが先に立って斜面を登り始めた。
昨日の記憶を頼りに獣道を辿っているが、笹の群生の手前で一度足が止まった。左右に分かれる踏み分け跡を見比べ、低木の枝の折れ具合と、足元の腐葉土の凹みを覗き込む。
「……こっちだ」
左の筋を選んで進む。合っていた。
笹のトンネルの出口に仕掛けておいた銅線の罠が見えてきた。
だが、跳ね上げの生木は真っ直ぐにしなったままで、吊るされた銅線の輪は空っぽだった。獲物はかかっていなかった。
エントは息を吐き出し、留め木の仕掛けを外して銅線を回収した。
「ダメでした……。風向きが悪かったのかな。それとも、針金の輪が大きすぎたのか……」
一人で呟きながら、銅線を指に巻きつけて懐に突っ込んだ。
エントはそのまま、林のさらに奥へと続く踏み分け道へ視線を向けた。
「もう少し上まで行ってみます。あっちの尾根の近くなら、別の獣道があるかもしれないし」
エントが一歩、斜面の上に向かって足を踏み出した。
◇
風が急に変わった。
それまで沢の底から吹き上げていた冷気が止まり、山の上から湿った土と、強い獣の脂の匂いを孕んだ重い風が吹き下ろしてきた。
ライゼンの足が止まった。
視線が、エントの五歩先にある立ち木の幹に落ちた。
人の胴回りほどある太い楢の木の樹皮が、大人の胸の高さから下にかけて、広範囲に削り取られていた。剥ぎ取られたばかりの白い木肌が露出し、透明な樹液がぬめりと光を反射している。削りかすが、まだ乾かずに足元の黒土の上に散らばっていた。
その根元に目を落とす。深い二つ割れの蹄の跡があった。
昨日見た古い窪みとはまるで違っていた。土の縁が鋭角に切り立ち、崩れていない。蹄の底が押し固めた土は黒く湿ったままで、落ち葉も小石も混じっていなかった。
そして、そのすぐ脇に落ちていた握り拳大の糞の塊から、細い湯気がひと筋、朝の冷気の中に立ち上っていた。
シャリン、と澄んだ金属音が鳴った。
ライゼンが腰の長剣を鞘から引き抜いていた。刃金が木漏れ日を浴びて青白く光る。
前を歩いていたエントが、音に驚いて肩をすくめ、弾かれたように振り返った。
「え……ライゼンさん?」
ライゼンは剣先を低く伸ばし、エントの胸元を制した。
「止まれ」
声は低く、平坦だったが、木立の底を鋭く通った。
「引き返す」
「えっ……? でも――」
エントが何かを言いかけた瞬間、斜面の上、五十歩ほど先の深い笹藪の奥で、バキッ、と人の腕ほどもある生木がへし折れる重い音が響いた。
同時に、枝葉に留まっていた野鳥の群れが一斉に羽音を立てて飛び立ち、頭上の梢を乱暴に揺らした。
風に乗って、フシューッ、という低く湿った鼻息のような音が届く。
エントの顔から血の気が引いた。息が喉の奥で詰まり、腰の剣の柄に伸ばしかけた右手が宙で固まる。
ライゼンは剣を構えたまま、半身の体勢を崩さなかった。刃を前に向けたまま、視線だけを周囲の木立の隙間に走らせる。
「抜くな」
ライゼンはエントの指先を一瞥した。
「音を立てずに、ゆっくり後ろへ下がれ。足元を見るな、木立の間を見ろ」
「あ……はい……」
エントは喉を鳴らし、擦り切れた靴底を慎重に後ろへ引いた。小枝を踏み折らないよう、足の甲に神経を集中させて後退していく。
ライゼンは切先を斜面の上方に向けたまま、エントの後ろを塞ぐようにして静かに歩調を合わせた。
藪の奥で、再びカサリと重い土を踏みしめる音がした。巨体が向きを変え、木々の間を擦り抜けていく気配が遠ざかっていく。
二人は一度も走らず、足音を殺したまま、斜面の緩やかな傾斜を伝って沢の段丘まで下りきった。
◇
段丘の岩肌まで戻り、背後の林のざわめきが完全に途絶えたところで、ライゼンは長剣を鞘に収めた。
カチリ、と留め金が噛み合う乾いた音が響く。
エントはその場にへたり込みそうになるのを堪え、両手で膝を支えながら荒い息を吐き出した。額にはびっしりと冷や汗が浮いている。
「……あ、あれ、大角鹿ですよね……?」
「そうだ」
「木の皮、剥がれたばかりで……糞から湯気が出てました。すぐそこにいたんですね」
「風下だった。こちらの気配に気づいて足を止めていた」
エントは腰の剣の柄を握り直した。
「……戦わなかったんですね。ライゼンさんなら、倒せたかもしれないのに」
ライゼンは背負い袋の紐を拾い上げ、肩に通した。
「出くわす前に引くのが筋だ」
「筋……」
「討伐の依頼を受けているわけでもない。退路も固めず、荷物も背負ったまま、仕掛ける理由がない」
ライゼンは胸紐を締め、天蓋に縛り付けた毛布の結び目を確かめた。
「戻るぞ」
エントは立ち尽くしていたが、やがて自分の雑嚢を肩に掛け直し、深々と頭を下げた。
「……はい」
◇
二人は沢を離れ、街道へと出た。
朝の薄雲はいつの間にか散り、高く澄んだ秋の空が広がっていた。山裾から離れるにつれて風は乾いたものになり、道端の枯れ草をかすかに揺らしている。
来た道を、ほとんど無言のまま歩いた。
エントはライゼンの二歩後ろを歩いていた。初日のように息を切らして追いつこうとすることもなく、街道の起伏に合わせて一定の歩幅を保っている。
夕暮れの赤い光が盆地の底に差し込むころ、前方にケッセルの土塁が見えてきた。
二基の見張り台の影が、街道の白土の上に長く伸びている。
門番に札を見せて木柵をくぐると、鍛冶屋の鞴の匂いと、家畜の糞の匂いが再び鼻をついた。通りには夕餉の買い出しに出る町民や、仕事を終えた人足たちが行き交っていた。
◇
ギルドの樫の扉を押すと、夕方の広間は朝よりも混み合っていた。
中央の丸柱の周りで、仕事を終えた冒険者たちが素焼きのジョッキを傾け、今日の稼ぎについて声を張り上げている。
ライゼンはカウンターへ進んだ。奥にいた黒い前掛けの受付の男が、ライゼンの姿を認めて帳簿から顔を上げた。
「無事に戻ったか」
ライゼンは背負い袋から、紐で縛った灰色の羊毛毛布を下ろし、カウンターの上に置いた。
「毛布だ。破れはない」
男は毛布の縁を手繰り、繕い跡のほつれがないことを確かめると、満足そうに頷いて足元へ片付けた。
「怪我はなさそうだな。報告書は書けるか」
「書く」
受付の男が、緑色の枠線が引かれた定型の羊皮紙を一枚差し出してきた。
ライゼンは羽ペンを受け取り、インク壺に浸した。
『幕営設営、火床構築、解体、痕跡識別、退避行動。基礎動作修了』
数行の短い記述を書き込み、末尾に自分の名を署名した。
受付の男は紙を受け取って目を通すと、横に立っていたエントを手招きした。
「木札を出せ」
「はい」
エントが懐から木札を取り出し、差し出した。
男はカウンター脇の黒い石板の上に、その木札を置いた。
青白い光が石の肌を走り、細い光の文字が浮かび上がる。男が鉄筆を取り、石板の表面の文字の末尾を軽く叩いた。光が文字を吸い込むように収束し、木札の表面にジュッ、と微かな煙が上がった。
男が木札を取り上げる。
表面の一本筋の下に、ギルドの小さな検印が焼き込まれていた。
「はいよ。これで実地講習の修了だ。明日からは支部の正規の依頼を引き抜いていいぞ」
「……ありがとうございます!」
エントは両手で木札を受け取り、親指の腹で新しく刻まれた検印を何度もなぞった。
受付の男は引き出しを開け、革袋から銀貨を取り出した。
ジャラリ、と鈍い音を立てて、カウンターの上に銀貨が八枚、整列して置かれた。
「前金の二枚を引いて、残り八枚だ。受領印を頼む」
ライゼンは控えの紙に印を押し、八枚の銀貨を指先で手元に引き寄せた。小銭袋の紐を緩め、中へ滑り込ませる。硬貨同士がぶつかる重い音がした。
◇
ギルドの扉を押し、二人は表の通りに出た。
盆地の底にはすでに夜の気配が落ちており、鍛冶屋の煙突から立ち上る黒煙が、赤紫色の空に溶けていく。通りを行き交う人々の影が長くなり、肌を刺すような冷たい夕風が二人の間を吹き抜けた。
大通りの角で、エントが足を止めた。
くるりと身体を反転させ、ライゼンと正面から向き合う。
エントは肩掛けの雑嚢を直し、両手を太腿の脇に揃えて、深々と腰を折った。
「ライゼンさん。三日間、本当にありがとうございました」
頭を上げたエントの顔には、初日に宿場で出会ったときの落ち着かない焦りはなかった。擦り切れた革の胸当ての留め具を指先で軽く弾き、少し照れたように口元を緩める。
「火の起こし方も、罠の仕掛け方も、さっきの引き返す判断も……全部、教えてもらわなきゃ分かりませんでした。もし一人で山に入ってたら、あの大角鹿に踏み潰されてたと思います」
ライゼンは動かず、エントの顔を見つめていた。
エントは懐を探り、油布に包んだ火打ち石と鉄片を取り出して、両手で差し出した。
「これ、お返しします」
ライゼンは黙って受け取り、腰の革袋に収めた。
「ここからは、自分でやってみます」
エントは腰の細身の片手剣の柄に手を置いた。指先は一日目に直された通り、柄の尻を引くように添えられていた。
「明日から、木札で受けられる仕事を少しずつこなして、手持ちを増やします。まずは自分の背負い袋と、天幕の油布を買うのが目標です。次の町へ行くときは、ちゃんと一人前の荷物を背負って行きますから」
エントはそう言って、白い歯を見せて笑った。
ライゼンは短く息を吐いた。
「そうか」
「はい! じゃあ、ライゼンさんも、元気で!」
エントはもう一度頭を下げると、踵を返した。
駆け出すことはせず、自分の革靴の底でしっかりと赤土を踏みしめながら、安宿のある西の路地の方角へ歩き出した。
その背中は初日のようにふらつくこともなく、腰の剣もだらしなく跳ねることはなかった。
ライゼンは通りの真ん中に立ち、その背中が夕暮れの影の中に小さくなっていくのを見ていた。人足や荷車の波が二人の間を横切り、やがて少年の姿は人混みの奥へと完全に紛れて消えた。
冷たい風が通りを吹き抜け、足元の土埃をさらっていった。
ライゼンは背負い袋の肩紐をぐっと引き上げ、反対側の中央通りへ向かって歩き出した。靴底が硬い土を叩く乾いた音が、暮れなずむ町の中に低く落ちていった。




