第14話
朝の冷気が土間に低く澱むギルドの広間に足を踏み入れると、すでに人影があった。
中央の丸柱のランプはまだ点いておらず、開け放たれた樫の扉から差し込む薄青い光の中に、掲示板の前に立つ人影が一つだけ浮き上がっていた。
エントだった。
肩掛けの雑嚢を脇に挟み、両手を革の胸当ての縁にかけたまま、板の一番下に視線を貼り付けていた。首をわずかに左右に動かし、紙の文字を追っている。朝の鐘はまだ鳴っていなかったが、その背筋は伸び、爪先が掲示板の木枠に触れるほど前のめりになっていた。
広間の隅の長椅子には、外套を頭から被って仮眠を取っている軽装の男が一人いるだけで、受付のカウンターの奥にもまだ人影はない。
ライゼンが土間を横切り、中段の掲示板の前に立ったとき、町の中心の鐘楼から、ゴオンと重い鐘の音が響いた。
鐘の音が土塁の向こうへ抜けていくのと同時に、エントの右手が動いた。
下段の隅に留められていた紙を一枚、迷いなく引き剥がす。
『東水路、泥浚いおよび土嚢積み。日当銅貨八枚』
エントは紙を握りしめると、ちょうど帳場の奥から出てきた黒い前掛けの男の前へ小走りで進み出た。
「これ、お願いします」
受付の男はあくびを噛み殺しながら依頼書を受け取り、エントが差し出した白木の木札を一瞥した。表面の一本筋の下に焼き込まれた検印を指先でなぞり、帳簿に鉄筆を走らせる。
「東門の脇、水路の合流点だ。親方がいるから半券を渡せ。道具は向こうで貸し出す」
「はい!」
半券と木札を受け取ったエントが振り返った。
カウンターから五歩ほど離れた場所に立っていたライゼンと目が合う。
エントは目を丸くし、それから足早に歩み寄ってきた。
「ライゼンさん、おはようございます!」
声は朝の広間にまっすぐ通っていた。エントは手にした半券を指先で軽く掲げてみせた。
「泥さらいの仕事、取れました! 一番乗りです。今日一日やれば、銅貨八枚になりますから」
「そうか」
「はい! 親方に遅れるなって言われてるんで、すぐ行ってきます!」
エントは頭を一度下げると、雑嚢の紐を押さえながら土間を駆け抜けていった。開いた扉から外へ飛び出し、中央通りの東へ向かって足音が遠ざかっていく。ライゼンの背後についてくる気配はなかった。
◇
広間には、鐘の音を聞きつけた冒険者たちが三々五々入ってきていた。
ライゼンは中段の真鍮札向けの区画に視線を戻した。
昨日と顔ぶれはほとんど変わっていなかった。
『西の採石場、砕石搬出の街道警護。推奨三人以上』
『南山裾、大角鹿の駆除および群れの追い込み。推奨四人(追い込み役および射手を含むこと)』
『東地区、商家の夜間倉庫番。交代制につき二人以上』
新しく貼り出されていたのは、北の峠道へ向かう行商人の荷車護衛だったが、それにも隅に『二人以上』と墨で記されていた。
あいかわらず一人で引き受けて完結できる紙は、中段には一枚も並んでいなかった。
ライゼンは紙の端をつまむこともなく、手を下ろした。
カウンターの受付役と目を合わせることもなく、踵を返して扉へ向かった。すれ違った三人組の歩兵が掲示板の前へ割り込んでいくのを肩先で避け、そのまま外の通りへ出た。
◇
宿へ戻り、自室の扉を閉めた。
壁の板の隙間から差し込む光の筋の下に、背負い袋を下ろした。
袋の底から砥石を取り出し、手桶の水を少量垂らす。腰から長剣を抜き、鞘を藁の敷布の上に置いた。
砥石の表面に刃先を当て、一定の角度を保ったまま、手前から奥へと滑らせる。
シュッ、シュッ、と小気味のいい摩擦音が、狭い部屋の中に規則正しく響いた。刃こぼれはない。昨日の山裾でも抜いただけで振るってはいない。だが、峰から切先にかけての刃の返りを指の腹でなぞり、わずかな引っ掛かりを砥石の肌で均していく。水で濡らした布で鉄の粉を拭い去り、油を引いた別の布で刃金を撫でた。青白い光が均一に戻るのを確認してから、鞘へと滑り込ませた。
次に革鎧を脱ぎ、床に広げた。
右肩の合わせ目の革紐が、街道を歩く荷の重みで擦り切れ、繊維が毛羽立っていた。道具入れから太い針と、蝋を引いた麻糸を取り出す。
指貫を使い、硬い革の穴に針を通していく。ギュッと糸を引き絞るたびに、革の合わせ目が固く締まり、元の厚みを取り戻す。両肩と脇の縫い目を点検し、ほつれた三箇所を縫い直すのに、砂時計で二つほどの時間を費やした。
昼前、長剣を腰に帯びて外へ出た。
中央通りを南へ下ると、土塁の内側の広場に市場が立っていた。
木組みの露店が十数軒並び、敷物の上に穀物や根菜が山盛りにされている。買い物籠を抱えた女たちや、天秤棒を担いだ人足が行き交っていた。
ライゼンは穀物商の露店の前に立ち止まった。
木樽の中に、乾燥させた白豆が詰まっている。横の小袋には、粗く砕いた岩塩と、干からびた黒パンが積まれていた。
「白豆をひと袋。粗塩を一つ。それと固いパンを二つ」
店番の女が顔を上げ、手早く木の杓で豆を掬って麻袋に詰めた。
「銅貨四枚だよ」
ライゼンは小銭袋から銅貨四枚を取り出し、板の上に置いた。
女は小銭を指先で掻き集め、引き出しに落とすと、麻袋とパンの包みを突き出してきた。それだけだった。
包みを背負い袋の天蓋に押し込み、市場を抜け、土塁沿いの道を歩いていく。
人の背丈ほどの盛り土の内側には、雨水を逃がすための素掘りの溝が掘られており、ところどころに土嚢が積まれている。見張り台の足元を通り過ぎると、上に立つ門番の靴音がギシギシと頭上で鳴ったが、声をかけられることはなかった。
職人町へ入ると、皮なめし職人の張った獣皮の匂いが立ち込めていた。鍛冶屋の軒下を通り過ぎる。槌の音が一定の間隔で響き、火花が暗がりへ散る。
通りを行き交う人足やすれ違う町人は、荷車の重みに顔を顰め、あるいは連れ合いと今夜の飯の相談をしながら歩いていた。ライゼンがすれ違っても、視線が足元の革鎧や腰の長剣を一度なぞるだけで、誰の足も止まらなかった。
◇
日が傾き、西の空が赤く染まり始めるころ、ライゼンは町の北西の区画へ差し掛かっていた。
土塁が途切れ、外の荒れ地へと続く空き地が広がっている。放置された古い荷車の車輪や、建築資材の丸太の切れ端が雑草の中に埋もれていた。
通りから外れた低木の茂みの向こうで、小枝の折れる微かな音がした。
ライゼンは歩みを緩めたが、止まりはしなかった。
茂みの隙間から、空き地の中央が見えた。
エントがいた。地面に片膝をつき、胸当てを外して上着一枚になっていた。足元には拾い集めた枯れ草が小さく山盛りにされている。
エントは手袋を外し、素手で草の束を挟んで激しく掌を擦り合わせていた。細かく揉みほぐした繊維を地面に置き、その上に藁しべほどの小枝を組む。崩して、また一から組み直す。火打ち石は手元になかった。
その少し後ろ、低木の生木にしなりをかけ、銅線の罠を枝に括り付ける仕掛けが組まれていた。留め木を噛み合わせ、小枝で突いて跳ね上がりを確かめている。外れた留め木を拾い、また同じ溝に差し込んでいた。
エントの視線は手元の草と小枝に落ちたままで、通りを歩く者の気配にはまったく気づいていなかった。額の生え際には黒い煤と泥が筋になって張り付いていた。
ライゼンは足を止めず、視線を前方の中央通りへ戻した。
靴底が砂利を踏みしめる音を立てながら、そのまま空き地の脇を通り過ぎた。
◇
夜になり、木株亭の帳場には油煙の立つランプが一つだけ灯っていた。
片目を白濁させた老人が机に肘を突いてパイプをふかしており、土間の隅には冷たい井戸水の匂いが漂っていた。
ライゼンが二階から下りて土間を横切り、手桶の水を木椀に汲んでいたとき、表の引き戸がガラリと開いた。
入ってきたのはエントだった。足取りは重く、靴の踵が土間を擦っていた。
ズボンの膝から下は黒い川泥で覆われ、乾いた泥の塊が歩くたびにポロポロと床板に落ちた。革の胸当ての縁にも泥の飛沫がこびりつき、両の腕は肘まで茶色く染まっている。爪の間には黒い土がびっしりと詰まっていた。
エントは帳場の机に進み出ると、懐から小さな布の巾着を取り出した。
中から銅貨を五枚、机の上に並べた。
「爺さん、今夜の分」
老人は煙を吐き出し、銅貨を鷲掴みにして引き出しに落とした。鉄の鍵を一つ、机の上に放り出す。
「飯はねえぞ」
「分かってます。井戸の水だけ使わせてください」
エントが鍵を拾い上げ、振り返ったところで、手桶の脇に立つライゼンに気がついた。
エントの眉が上がり、口元が緩んだ。
「あ……ライゼンさん」
声には疲労が滲んでいたが、すぐにいつもの早口が戻ってきた。
「泊まってたんですね。俺も今日もここに泊まれることになりました。泥浚いの仕事、なんとか一日やり通して……日当、ちゃんと銅貨八枚もらえました。宿代払っても、三枚残りましたよ」
エントは泥で汚れた前腕をさすりながら、井戸の脇へ歩み寄ってきた。
「でも、水路の泥って、ものすごく重いですね。鋤で掬い上げようとすると、水と一緒に泥が横からこぼれちゃうし……。土嚢に泥を詰めようとしても、袋の口がぐにゃぐにゃして塞がっちゃって、うまく入らないんですよ。人足の人たちは、一人であっという間に五つも六つも土嚢を積んでいくのに、俺、二つ詰めるだけで息が切れちゃって……」
エントはライゼンの手元の木椀を見つめながら、身を乗り出した。
「ライゼンさん、土嚢に泥を詰めるときって、何かコツがあるんですか?」
ライゼンは木椀の水を飲み干した。
椀を手桶の縁に伏せて置き、エントの泥だらけの両手を見た。
「袋の口を外側に二度折れ」
「え?」
「縁を二度折り返せば、口が丸く開いたまま自立する。一人でも上から泥を落とし込める」
エントが目を見張った。
「あ……口を折る……!」
「腕で持ち上げるな」
ライゼンは階段へ向かって歩き出した。
「鋤の柄を短く持て。膝の曲げ伸ばしで放り込め。腕だけでやれば明日には肩が上がらなくなる」
踏み板に足をかける。背後で、エントが自分の両手を見つめながら、小さく膝を屈伸させる気配がした。
「柄を短く……膝を使う……なるほど……! 明日、試してみます!」
エントの声が土間に響いた。
ライゼンは返事をせず、軋む階段を上り、暗い二階の廊下へと消えていった。




