第15話
講習を終えてから四日が過ぎていた。
朝の鐘が鳴る刻限になると、ギルドの掲示板の前にエントの姿があった。
木札向けの依頼は、日に二枚か三枚しか出ない。水路の泥浚いや、東門の荷揚げ場での俵運びが貼り出された日は、エントは紙を掴んで受付の窓口へ走った。だが、人足上がりの大柄な木札持ちや、石札へ上がりかけの二人組に先を越される日のほうが多かった。空振りに終わった日は、掲示板の前でしばらく立ち尽くし、それから昼前の町へ出て日雇いの人足口を探して歩き回っていた。
夜、木株亭の薄暗い土間に入ると、エントが手桶の脇にしゃがみこんでいた。
両手の平には新しい豆が潰れた痕があり、爪の間には黒い土と油が染み付いている。膝の上に広げた薄っぺらい布の巾着から、銅貨を数枚、土間の板の上に並べていた。
日当が出た日は銅貨が八枚。そこから宿代の五枚を引けば、残りは三枚だった。硬い黒パンを一つ買えば銅貨二枚が消え、翌朝の懐には銅貨が一枚残るだけだった。仕事が取れなかった日は、前日の残りをそのまま老人の机の上に置くことになり、手元には一枚も残らなかった。二日働いて、ようやく三日分の寝藁とパンが繋がる計算だった。
エントは指先で硬貨の枚数を確かめると、小さく息を吐いて巾着の紐を引いた。
階段を下りてきたライゼンに気づくと、エントはすぐに立ち上がり、擦り切れた上着の裾を引いた。
「ライゼンさん、こんばんは」
声は掠れていたが、頭をきちんと下げた。それ以上、仕事の愚痴をこぼすことも、銅貨の不足を言い立てることもなかった。
ライゼンは軽く顎を引き、手桶の水を一杯飲んで自室へ戻った。
◇
その翌日、ギルドの広間は朝から冷え込んでいた。
中央の丸柱の脇、真鍮札向けの掲示板のすぐ横で、太い声が響いていた。
「おい、小僧。足が止まってるぞ」
声の主は、肩当ての革が黒くひび割れた中年の歩兵だった。腰に幅広の鉈を下げ、胸当ての合わせ目に鉄札をぶら下げている。
その前で、まだ背丈の低い少年が立ち尽くしていた。胸元には一本筋の木札があり、背中には大人の胴回りほどもある大きな麻袋が二つ、荒縄で括り付けられていた。荷の重みで膝が小刻みに震え、首筋に青い筋が浮き上がっている。
「採石場までの荷運びだ。お前が運ぶのは予備の矢束と水樽だ。途中で落としたら日当から引くからな」
「は、はい……あの、取り分は……」
「日当銅貨四枚だと言ったろうが」
歩兵は鼻を鳴らし、革手袋で少年の荷の天蓋を上から乱暴に叩いた。荷の重みが少年の肩に食い込み、少年は前のめりにつんのめりかけた。
「木札の駆け出しを連れてってやるんだ、ありがたく思え。西の岩場に入ったら、お前が十歩先に立って小石を投げろ。トカゲが潜んでたら先に踏み抜くのが荷物持ちの役目だ。文句があるなら札を置いていけ」
少年は唇を固く結び、うつむいたまま何も言い返さなかった。
歩兵は腰の鉈の位置を直すと、土間を大股で歩き出した。少年は引き摺るような足取りで、荷の重さに身体を左右に揺らしながら、その背中を追って外へ出ていった。
ライゼンは掲示板の紙に指をかけたまま、その二人が扉の向こうへ消えるのを見ていた。
◇
さらに次の日の朝、南の門へ向かう通りを歩いていたときだった。
鍛冶屋の煙突の向こうから、二人の男が歩いてくるのが見えた。
先を歩いているのは、使い込まれた鎖帷子を着た自分と同じくらいの年齢の男だった。背中に円形の木盾を背負い、腰には刃こぼれのない片手半剣を佩いている。
その後ろを、若い男が歩いていた。革鎧は新しく、首からは石札が下がっている。背負い袋の紐が片方の肩から滑り落ちかけており、歩くたびに袋の底が腰骨を激しく叩いていた。
先を歩く男が、立ち止まった。
振り返りざま、若い男の背負い袋の底を、爪先で小突いた。
「おい」
「は、はい!」
「天幕の布をどこに入れた」
「一番下です。重いものから入れろって――」
「馬鹿野郎。一番重い鍋と金具を真ん中の背中側に寄せて、布は一番上に巻けと言ったろうが。重心が尻に落ちてりゃ、半日も歩かねえうちに腰が砕けるぞ」
男は若い男の肩紐を掴んで引き寄せ、荒っぽく結び目を解いた。
「荷を降ろせ。詰め直すぞ」
「すみません、親方」
「謝る暇があったら手を動かせ。門が開くまでに整えろ」
二人は土塁の脇の平らな石の上に荷をぶちまけ、金具と保存食を背中側へ、毛布と油布を天蓋側へと手早く仕分け直した。若い男が紐を引く手元を、年長の男が横から指先で叩いて締め方を直している。
荷を担ぎ直した二人は、歩調を揃えて南の門の木柵へと向かっていった。
ライゼンの足が止まっていた。
二人の足音が街道の砂利を踏みしめて遠ざかり、見張り台の影に隠れて見えなくなるまで、視線はその背中を追っていた。
◇
その日の夕方、木株亭の帳場には誰もいなかった。
二階へ上がろうとしたとき、裏口の引き戸が開いて、片目を白濁させた老人が薪の束を抱えて入ってきた。
老人は土間に薪をドスンと下ろすと、布で額の煤を拭った。
「……あんた」
老人がライゼンを見上げた。
「あの小僧の知り合いだったな」
ライゼンは階段の一段目に足をかけたまま、振り返った。
「何だ」
「あいつ、部屋を引き払ったよ。おとといの昼過ぎに、鍵を返していきやがった」
老人はパイプを取り出し、火皿に煙草を詰めた。
「宿代が払えねえからってよ、南門の外の土手の下で野宿するって出ていったきりだ。さっき門番のやつが巡回に来て話していったが、ひでえもんだったらしいぜ。昨日の夜、風よけが崩れて火も消えちまって、夜中に野犬の遠吠えが聞こえるたびに飛び起きて、朝まで一睡もできずに震えてたそうだ。門番に『土塁の近くで焚き火すんじゃねえ、野垂れ死ぬならもっと向こうへ行け』って怒鳴られて、追い払われたらしい」
老人は火打ち金を打ち、煙を細く吐き出した。
「木札の駆け出しが、天幕も持たずに野宿なんざ百年早えんだよ。この盆地の夜の冷え込みを舐めてる」
ライゼンは何も言わなかった。
踏み板を踏み、軋む音を立てて二階の暗い廊下へと上がっていった。
◇
翌朝、ライゼンは市場へ向かった。
中央通りの市場は、朝露の湿り気を残したまま、荷車が運び込む野菜や穀物の山で活気づいていた。
穀物商の露店の前に立ち、板の上に手をついた。
「白豆をふた袋」
店番の女が杓を二度、樽の中に突っ込んだ。麻袋に豆が落ちるジャラジャラという重い音がする。
「パンを四つ。それと、粗塩の包みを二つくれ」
女がパンを二つずつ油紙で包み、麻袋の口を縛って並べた。
「銅貨八枚だよ」
ライゼンは小銭袋から銅貨を取り出し、並べた。
隣の肉屋の店先へ移った。軒下にぶら下がった塩漬けの豚肉の塊を指差した。
「それを二塊。小刀で削れる固いやつだ」
肉屋の主人が肉を縄ごと切り落とし、油紙で二重に包んで差し出してきた。銀貨を一枚渡し、釣りの銅貨を受け取る。
宿の自室に戻り、床の上に背負い袋を広げると、袋の底にあった自分の荷を一度すべて外に出した。
砥石と手入れ油、予備の金具を一番底の隅に詰める。その上に、新しく買った白豆の麻袋二つと、塩漬け肉の二つの塊を背骨に当たる側へ寄せて配置した。小鍋をその外側に噛ませ、四つの堅パンを隙間に押し込む。
袋の天蓋まで物が詰まり、紐を引き絞ると、いつもの倍の厚みになった。
天蓋の上に縛り付けていた天幕用の油布の包みを解いた。四つ折りに畳まれた厚手の油布を、背負い袋には戻さず、別の太い麻紐で十字に固く縛り直した。
◇
翌朝、朝の鐘が鳴る前に、ライゼンは部屋の閂を開けた。
帳場の埃っぽい机の上に、鉄の鍵を置いた。老人は奥の寝床で低い鼾を立てており、起き上がってくる気配はなかった。
背負い袋を背負い上げると、両肩にずしりと重みが沈み込んだ。小銭袋と長剣を腰に帯び、左手には十字に縛った油布の包みを提げた。
外に出ると、空はまだ深い群青色で、東の山の端だけが白く裂け始めていた。
中央通りを南へ歩いていると、土塁の切れ目にある南門へ行くと、見張り台の下で門番が槍の柄に寄りかかってあくびをしているのが目に入った。
ライゼンが真鍮札を見せると、門番は札を一瞥し、丸太の木柵を押し開けた。
「出かけるのかい。街道筋は朝霧が深いから足元に気をつけな」
「ああ」
木柵を抜け、土塁の外へ出た。
街道の白土には夜露が降りており、踏みしめるたびに冷たい泥が靴底に吸い付いた。
門から五十歩ほど進んだ街道の右脇、掘り割りの土手の下に、黒ずんだ赤土が露出した窪地があった。
風よけにしようとしたらしい枯れ枝が何本か倒れ、地面に散らばっていた。石を二つ並べただけの粗末な火床には、白く冷え切った灰が風に吹かれて散っていた。
その土手に背を預け、エントが座り込んでいた。
布の雑嚢を膝の上に抱え込み、薄い上着の襟首を両手で固く握りしめている。
顔色は青白く、唇の端は乾燥して血が滲んでいた。目の下には濃い隈が落ち、まぶたを半分閉じたまま、寒さに耐えるように小刻みに肩を震わせていた。足元に転がった水筒は空のようで、栓が外れたまま土の上に転がっていた。
ザッ、と砂利を踏む音がして、エントの睫毛が跳ね上がった。
見開かれた目が、目の前に立ったライゼンの姿を捉えた。
「……ラ、ライゼン、さん……?」
声は掠れており、喉の奥が張り付いているようだった。立ち上がろうとしたが、冷え切った足に力が入らないのか、膝が地面に着いたまま動かなかった。
ライゼンは何も言わずに、左手に提げていた油布の包みを、エントの胸元へ無造作に放り落とした。
ずしりとした厚手の布の重みが、エントの腕の中に落ちる。
「持て」
ライゼンはそれだけ言うと、背を向けた。
長剣の鞘を左手で軽く押さえ、南へまっすぐ伸びる街道の轍に沿って、一定の歩幅で歩き出した。
背後で、布が擦れ合う音が激しく鳴った。
乾いた土を爪先が蹴り、よろめきながら立ち上がる足音がする。
「え……? あ、待っ……待ってください! ライゼンさん!」
油布の包みを両手で抱え込んだエントの足音が、もつれながらも、街道の砂利を蹴って後を追ってきた。
東の尾根から朝の光が差し込み、二人の影を前方の道へと長く引き伸ばしていった。




