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行きがかりの英雄譚  作者: 水縒あわし
第1章 分かれ道

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第16話



 ケッセルの南門を抜けてから、街道はずっと緩やかな下り勾配を描いて伸びていた。


 盆地の底に溜まっていた澱んだ土埃の匂いは、しばらく歩くうちに薄れ、代わりに乾いた枯れ草と日向の砂の匂いが風に乗って漂ってきた。空は高く晴れ上がり、朝のうちは白くかすんでいた太陽が、南の空の中ほどへと昇るにつれて、街道の白土に濃い影を落とし始めている。


 ライゼンは一定の歩幅を刻みながら、前方の轍に視線を落としていた。


 五歩ほど後ろから、擦れるような足音が続いていた。


 ザッ、ザッ、と砂利を踏む音に混じって、麻紐で縛られた厚手の油布が衣擦れを起こす音が絶え間なく鳴っている。エントは背負い袋を持っていないため、十字に括られた油布の包みを両腕で抱え込むようにして胸の前に抱えていた。


 朝の門前で見たとき、エントの顔色は紙のように白く、唇の端に血が滲んでいた。だが、歩幅を合わせて街道を進むうちに、冷え切っていた頬のあたりにわずかな赤みが戻り始めていた。歩き方はまだぎこちなく、段差を踏み越えるたびに抱えた油布が胸元で跳ね、腕の筋肉が強張っているのが背中越しにも伝わってきた。


 正午を回り、街道の右手に木陰を作る一本の大きな楡(にれ)の木が見えたところで、ライゼンは足を止めた。


 道端の平らな石の上に背負い袋を下ろす。


 エントも足を止め、楡の木の根元に崩れ落ちるように膝をついた。抱えていた油布の包みを地面の草の上に置き、両腕をだらりと垂らして荒い息を吐き出す。手袋を外した両の手のひらには、麻紐の食い込んだ赤い筋がくっきりと残っていた。


 ライゼンは背負い袋の天蓋の紐を解いた。


 中から腰嚢の包みを取り出し、油紙を開く。堅パンを一つ取り出し、両手で力を込めて二つに割った。乾いた断面から細かなパン屑が散る。続いて塩漬けの豚肉の塊から、小刀の切先を滑らせて、親指の爪ほどの厚さの薄片を四枚削ぎ落とした。


 ライゼンは割ったパンの片方と、削った肉の二枚を、油紙の端に載せてエントの膝の前へ押し出した。


 エントが息を呑み、丸く見開いた目でそれを見つめた。



「……え?」



 ライゼンは何も言わず、残った自分の分のパンの端を奥歯で噛み砕き、肉片を口に放り込んだ。水筒の栓を抜き、一口含んで喉を鳴らす。



「……いただきます」



 エントは小声で呟くと、両手でパンを掴み、夢中で口に運んだ。


 唾液の足りない口の中でパンを噛み砕くゴクリという音が、静かな木陰に響く。肉片を奥歯で噛み締め、脂の塩気を舌の上に広げながら、エントは喉仏を何度も上下させた。ライゼンが水筒を差し出すと、エントは両手で受け取り、こぼさないよう慎重に二口だけ喉に流し込んだ。



「……生き返った」



 エントは水筒を返し、胸当ての上から自分の腹をさすった。


 荷をまとめ、再び街道へ踏み出したころには、エントの足取りから朝のふらつきが消えていた。



「ライゼンさん」



 三歩後ろから、声が飛んできた。



「この油布、抱えてるとずっしり重いですね。でも、これがあれば雨が降っても染み込まないんですよね。前の山で、ライゼンさんの天幕だけ朝露が通ってませんでしたもんね」



 ライゼンは前を向いたまま歩いた。



「そうだな」


「これ、どこで買ったんですか? ギルドの購買ですか? 俺もいつか、自分の天幕用の布を買いたいんですけど、銅貨何枚くらいするのかな。普通の布よりずっと高いですよね」


「銀貨二枚だ」


「銀貨二枚……! やっぱりそれくらいしますよね。木札の仕事じゃ、何日分だろう……」



 エントは油布を抱え直しながら、指先を小さく動かして計算しているようだった。街道の風が吹き抜けるたびに、言葉の切れ端が後方から途切れずに届いた。


◇


 昼下がり、街道の先から低い轍の軋む音と、二頭の馬が鼻を鳴らす音が聞こえてきた。


 緩やかな坂を登ってきたのは、幌をかけた一台の荷馬車だった。


 車輪の鉄輪が小石を弾き、御者台には毛織りの分厚い頭巾を被った中年の男が腰を下ろしていた。荷台の幌の隙間からは、荒縄で縛られた木樽や、麦藁を詰めた麻袋がぎっしりと覗いている。御者台の脇には使い古された短弓が一本立てかけられていたが、雇われの護衛の姿は見当たらなかった。


 ライゼンが街道の端へ寄り、馬車の進路を空けると、御者が手綱を軽く引いて速度を緩めた。


 すれ違いざま、エントが街道の縁から身を乗り出した。



「こんにちは!」



 エントの声に、御者の男が頭巾の奥から顔を覗かせ、片眉を上げた。



「おう、精が出るな」


「南から来たんですか?」



 エントは油布を抱えたまま、馬車の速度に合わせて二、三歩並んで歩いた。



「そうだ。南の平野を抜けてきたところだ」


「この先の道って、どんな感じですか? 街道沿いに大きな町とかありますか?」


「町か?」



 御者は馬の手綱を操りながら、気さくに笑った。



「街道を真っ直ぐ南へ下れば、三日か四日ほどで川沿いの大きな町に出るよ。城壁がしっかりした立派な町だ。途中の街道筋にも宿場が二つある。ただ、盆地を抜けると夜風が一段と冷えるからな。野宿するなら風よけをしっかり作っときなよ」


「川沿いの大きな町……! ギルドの支部もありますか?」


「あるとも。川を行き交う船の荷揚げもあるから、冒険者も人足も山ほどいるぜ」


「本当ですか! 俺、まだ木札なんですけど、早く一人前になりたくて。次の町に行けば、もっといろんな仕事があるかなって思ってたんです!」


「はは、木札の小僧か。威勢がいいな。まあ、焦らず足元を見て行きな」



 御者は片手を軽く挙げ、馬の背に鞭の先を当てた。馬車は再び車輪を軋ませながら、ケッセルへ向かう坂道を登っていった。


 ライゼンは通り過ぎる荷台を一瞥した。


 麻袋の隙間からこぼれていたのは、南の乾燥果物の甘酸っぱい匂いと、粗塩の白い結晶だった。御者の男の上着の袖口は油で黒く固まり、手綱を握る指の節には古い傷が幾筋も走っていた。


 エントはその場に立ち止まり、去っていく荷馬車の後姿を眩しそうに見送っていた。



「大きな町か……川があるのか……」



 呟く声には、先ほどまでの疲労の色はどこにも残っていなかった。


◇


 夕暮れが近づき、西の空が赤銅色に濁り始めるころ、街道の左手に切り立った岩肌が現れた。


 人の背丈の倍ほどの石灰岩の崖が風を遮るように湾曲し、その足元に、人の背丈ほどの灌木に囲まれた窪地が口を開けていた。街道からは一段低くなっており、外からの視線は完全に切れている。窪地の奥の岩肌からは、細い筋となって湧き水が垂れ、小石の混じる砂地を湿らせていた。


 ライゼンが街道を外れて窪地へ下りると、背後でエントが油布の包みを地面の平らな石の上に置いた。



「ここですね」



 エントはそう言うと、ライゼンが指示を出す前に腰の細身の片手剣を外して石の上に置いた。



「俺、薪を集めてきます!」



 エントは小走りで窪地の外の雑木林へ入っていった。


 ほどなく、エントは両腕いっぱいに枯れ枝を抱えて戻ってきた。腕の中にあったのは、指の太さほどの乾いた楢の小枝と、風通しのいい日なたで完全に乾燥した枯れ草の束だった。湿った太い生木や、土のついた腐りかけの枝は一本も混じっていなかった。


 エントは窪地の岩肌の前に膝をつき、手頃な丸石を三つ並べて火床を組んだ。


 枯れ草の芯を指先で丹念に揉みほぐし、綿毛のような火種を作る。そこで手が止まり、エントが顔を上げた。



「ライゼンさん、火打ち石、貸してもらえますか」



 ライゼンは腰の革袋から火打ち石と鉄片を出し、エントの手元へ放った。


 エントは刃先を火種の上へ近づけて打ち合わせた。


 カチッ、カチッ。


 二度目に散った火花が繊維に落ちる。


 エントは身を屈め、細く絞った息を静かに吹き込んだ。煙がひと筋立ち上り、パッと小さな黄色い炎が立ち上がる。細い枝を一本ずつ重ね、やがて手のひら大の安定した焚き火へと育て上げた。


 その間に、ライゼンは天幕を張っていた。


 エントが運んできた油布の結び目を解き、地面に広げる。


 低木の根元に布の端を結び、杭を打ち、四隅を石で固める。出来上がったのは、大人が一人、身体を滑り込ませて横たわるのがやっとの、低く頑丈な天幕だった。


 エントが水筒を持って湧き水のところへ行き、満杯にして戻ってきた。



「水、汲んできました」



 ライゼンは小鍋を受け取り、石の上に据えた。


 昼に水へ浸けておいた白豆を二握りと、塩漬け肉の塊を切り落として放り込む。肉の脂が溶け、湯気が立ち上るのを待って火から下ろした。


 二人は無言で木匙を動かす。


 温かい汁が胃に落ちるたびに、周囲の冷気が一段と濃くなっていくのが肌に感じられた。エントは最後の一口まで綺麗に平らげると、湧き水で鍋を濯ぎ、油布の端切れで水気を拭い取ってライゼンの足元へ戻した。


◇


 空から朱色が消え去り、濃紺の闇が窪地を満たした。


 岩肌を伝って吹き下りてくる風が、風上の灌木をカサカサと鳴らし始めている。


 ライゼンは焚き火の脇に腰を下ろしたまま、太い薪を一本、火の芯へくべた。



「見張りの順番を決める」



 エントが姿勢を正し、膝の上に置いた両手を握り締めた。



「はい」


「天幕は一人分だ。二人は入れない」



 ライゼンは天幕の低い屋根を指先で示した。



「お前が先に立て。深夜、星が西の尾根にかかるまでだ。その後、俺と交代する」


「分かりました。俺が最初ですね」


「火を絶やすな。見るのは火の向こうの闇だ。何かあれば石を投げろ」


「はい!」



 ライゼンは立ち上がり、天幕の中へ身を滑り込ませた。


 狭い油布の下に敷布を広げ、横たわる。上着は脱がず、腰の長剣は鞘ごと右手のすぐ脇に引き寄せた。指先がいつでも柄の握り革に触れられる位置に置く。


 天幕の中は外の風が遮られていたが、地面の冷気が敷布を通して背中に伝わってきた。


 ライゼンは目を閉じた。


 だが、意識の底は沈まなかった。


 天幕の外で、風が油布の端を小さく叩く音がする。


 カサリ、と砂利を踏む靴底の音がした。エントが立ち上がり、窪地の縁へ向かって二歩進み、また元の位置へ戻る気配。


 パチ、と薪のはぜる音が響く。


 遠くの街道の向こうで、枯れ枝の擦れ合う音が微かに鳴る。そのかすかな摩擦音を拾うたびに、ライゼンのまぶたの裏で神経が引き絞られ、右手の指先が無意識に長剣の鞘を微かに引き寄せた。


 浅い微睡みと覚醒の境界を何度も行き来した。


 エントが火床の灰をいじる金属音。


 息を吸い込む微かな気配。


 風の向きが変わり、煙の匂いが天幕の隙間から流れ込んでくる。


◇


 夜半を過ぎたころ、天幕の入り口の布がそっと持ち上がった。


 冷たい外気が一筋、首筋に触れる。


 ライゼンの目はすでに開いていた。右手の指が長剣の柄頭に掛かっている。



「……ライゼンさん」



 布の隙間から、エントの小声が漏れ入ってきた。



「時間です。星が、西の山の端にかかりました」



 ライゼンは音を立てずに身を起こした。


 天幕から這い出ると、外の空気は真冬のように張り詰めていた。見上げる夜空には満天の星が瞬き、西の稜線のすぐ上に、明るい星の群れが傾いていた。


 火床の焚き火は小さくなっていたが、芯の熾火は赤く力強く残っていた。


 エントの顔は寒さで強張っており、鼻先を赤くしていたが、目はしっかりと見開かれていた。


 ライゼンはエントの肩を一瞥した。



「入れ」


「はい……おやすみなさい、ライゼンさん」



 エントは天幕の中へ滑り込み、敷布の上に身体を横たえた。毛布を引き上げる衣擦れの音が二度ほどして、それからすぐに深く静かな寝息が聞こえ始めた。


 ライゼンは火床の前に腰を下ろした。


 膝の上に長剣を横たえ、足元に積んであった太い楢の薪を一本、熾火の上へ静かに置いた。


 煙が細く立ち上り、やがて火の粉が小さく爆ぜて、赤い火種が木肌を舐め始めた。


 ライゼンは瞬きもせず、火の向こうの暗がりを見据えた。


 夜風が窪地の岩肌を撫でていき、東の空がわずかに白み始めるまでの長い時間を、ただ一人、静寂の中で刻み続けていた。



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