第17話
朝、天幕を畳んで街道へ出たときから、空は低く濁っていた。
南の地平から灰色の重い雲が湧き上がり、ちぎれた雲の端が風に流されて頭上を覆っていく。風には生温かい湿り気が混じり、乾いていた土埃の匂いが、湿った下草と腐葉土の重い匂いへと塗り替わりつつあった。
ライゼンは歩幅を一定に保ちながら、足元の轍を見据えていた。
白く乾いていた土の道は、湿気を吸ってわずかに黒ずみ始めている。深い車輪の跡の縁はまだ固さを保っていたが、踏み込む靴底に微かな粘り気がまとわりつき、砂利が地面に沈む音が鈍くなっていた。
数歩後ろから、布が擦れ合う音が続いていた。
エントは十字に縛られた油布の包みを、胸の前で抱え直しながら歩いていた。昨日よりも包みの抱え方は落ち着いていたが、腕の筋肉が張るのか、時折左右の腕を上下に入れ替え、肩を小さく回していた。空を見上げる回数が増えている。
「ライゼンさん、降りそうですね」
エントが背後から声をかけてきた。
「風がぺたぺたしてます。昼過ぎには降ってきますよね」
ライゼンは空を見上げず、道の傾斜だけを見て歩いた。
「降るな」
「やっぱり。雨の日の街道って、泥で足が取られて歩きにくくなるんですよね。前の宿場に着く前も、一度降られて靴の中まで泥だらけになって参ったんですよ」
エントはそう言いながらも、足取りを緩めずに靴底を運んでいた。
◇
太陽が雲の奥で一番明るい白みを見せたころ、街道が低木林の間を抜ける手前で、ライゼンは足を止めた。
道端の突き出た岩の根元に背負い袋を下ろし、腰の帯を緩める。
エントも油布の包みを下ろし、自分の腰に手を当てて息を吐いた。だが、座り込むことはしなかった。
腰の細身の片手剣を鞘から引き抜くと、五歩ほど離れた平らな草地へ進み出た。
エントは右手の指先を改め、小指と薬指で柄の尻を引き、親指と人差し指の力を抜いた。講習で言われた通りの握りを確かめると、正面の空間に向かって剣を構えた。
息を吸い、斜めに振り下ろす。
風を切る音は鋭かったが、振り下ろした瞬間に右足の踏み込みが深くなりすぎ、上半身が前へのめった。剣先が地面の草を掠めそうになり、慌てて手首で持ち上げる。柄の根元が小さく鳴った。
エントは立ち位置を戻し、もう一度振った。
今度は前のめりにはならなかったが、剣先が止まるところで切先が左右に小さく暴れた。手首の力だけで止めようとしているため、細身の刃身が波打つように震えている。
三度、四度と振ったあと、エントは剣先を下げ、荷物の脇に腰を下ろしていたライゼンを振り返った。
「ライゼンさん」
「何だ」
「振ったあとに、切先がぐらぐら揺れちゃうんですけど、どうすればピタッと止まりますか」
ライゼンは背負い袋から水筒を出し、一口含んでから答えた。
「止めるな」
「え?」
「当てるものがないのに無理に止めれば、刃がぶれて関節を痛める。手首で止めるな。振った勢いを残したまま、左の腰の横まで引き絞れ」
「引き絞る……」
エントはもう一度立ち上がり、正面へ剣を振り下ろした。今度は切先を途中で止めず、弧を描いたまま左の脇腹の横へと流す。剣先は暴れず、静かに腰の横へ収まった。
「あ……止まった」
エントは自分の手元を見つめ、二度、三度と同じ軌道をなぞった。
それから剣を鞘に納めると、雑嚢の底から丸めた細い銅線を取り出した。
「ちょっと見てきます」
エントは街道の脇、低木林の縁へと小走りに向かった。
ライゼンは背負い袋から堅パンを取り出し、半分に割って待った。
砂時計ひとつ分ほどして、エントが雑木林の茂みから戻ってきた。銅線は指に巻き直されて懐に収まっており、罠には何もかからなかったようだった。だが、手袋を外した左手の中に、根元の赤い野草の束と、黒紫色の小さな実の房を二つ握りしめていた。
「ライゼンさん、これ見つけました。野草の図鑑に載ってたやつだと思うんですけど……食べられますか?」
エントが差し出したのは、湿った日陰に生える山葱に似た草と、山葡萄のなり損ないのような小粒の実だった。
ライゼンは草の葉を指先でちぎり、爪の先で潰して匂いを嗅いだ。青臭い強い刺激臭が立った。
「知ってる草だ。煮れば食える。実は酸っぱいだけだ」
「よかった! 鍋に入れられますね」
エントは嬉しそうに草の根元の土を指で払い落とした。ライゼンは割った堅パンの片方をエントに渡し、残りを自分の口に運んだ。
◇
午後になると、空の底が一気に低くなり、細かい霧のような雨が風に乗って吹きつけてきた。
最初は服の表面を白く濡らす程度だったが、やがて粒が大きくなり、パラパラと革の胸当てを叩く本降りの雨に変わった。
街道の白土は見る間に赤黒く濁り、轍の窪みに泥水が筋を作って流れ始めた。靴底が地面から離れるたびに、ペチャリと粘りつく音が足元から上がる。
ライゼンは歩調を速めることなく、街道の脇の傾斜に目を配りながら進んでいた。
街道の左手、丘の裾野に大きな灰色の岩壁が立ちはだかっていた。
ライゼンは街道を外れ、草が雨で倒れた斜面へと足を踏み入れた。
「ライゼンさん、こっちに行くんですか? 街道から見えなくなっちゃいますよ」
後ろからエントが声をかけてきた。油布の包みを雨から守るように、胸元に深く抱え込んでいる。
「晴れている日は見通しを取る」
ライゼンは足を止めずに言った。
「雨の日は、雨と風を遮れる場所を探す。水が流れる筋と、土が崩れる崖の下を避けろ」
「雨と風……」
岩壁の足元に近づくと、大人の背丈の三倍ほどある巨岩の板が、斜め前方に大きくせり出している場所があった。
岩の張り出しの下には、幅六歩、奥行き四歩ほどの平らな空間が広がっていた。頭上は分厚い岩盤で完全に塞がれており、雨脚が強くなっているにもかかわらず、足元の砂地は乾いたまま埃っぽさを残していた。雨水は張り出しの縁を伝って両脇へ落ち、中央の乾いた地面を避けて流れていた。
壁の岩肌もしっかりしており、上から赤土が崩れ落ちてくる気配はない。
張り出しの奥に立てば、雨に打たれずに腰を下ろすことができ、見張りに立つ者も濡れずに座れる広さがあった。
「ここだ」
ライゼンは背負い袋を下ろし、岩の根元に置いた。
「すごい……全然雨が入ってこない」
エントは抱えていた油布を乾いた砂地の上に置き、濡れた上着の肩口を手で払った。
油布を置くとすぐに、岩の張り出しの奥、雨の当たっていない隙間から枯れ枝を拾い集めた。
風で吹き溜まっていた枝は指の太さほどで、完全に乾いていた。
ライゼンから借りた火打ち石と鉄片を使い、エントは手際よく火種を作った。乾いた葉の粉末から立ち上がった炎に小枝を重ねると、煙が岩の天井をなぞって外の雨の中へと吸い込まれていく。
ライゼンは張り出しの奥、風の吹き込まない角に天幕を張った。
雨が直接当たらない場所だったが、夜半に風向きが変わって吹き込むのを防ぐため、低い傾斜をつけて布を張り、四隅を拳大の石で固めた。
火床の石の上に小鍋を据え、水筒の水を注ぐ。
湯が沸き立つと、ライゼンは昼に水へ浸けておいた白豆を二握り落とし、塩漬け肉の塊から薄片を削ぎ入れた。
エントが、昼間に採ってきた山葱の根元を指でちぎり、泥のついていない茎の部分を小鍋の中に放り込んだ。
肉の脂の匂いに混じって、野草の青い香りが湯気の中にふわりと広がった。
煮上がった鍋を火から下ろし、二人は木匙を動かした。
山葱は繊維が少し固かったが、強い辛味が抜けて、塩気の利いた汁によく合っていた。エントは熱い汁を飲み干し、口の中に残った豆を噛み砕きながら、ふと匙を止めた。
火の向こうに座るライゼンの手元を見つめ、少し口ごもるように言った。
「あの……ライゼンさん」
「何だ」
「俺、昨日から飯まで全部出してもらってて……手持ちの金もないのに、申し訳ないです。本当なら、自分の飯くらい自分で買わなきゃいけないのに」
外ではザーザーと雨が岩肌を叩く音が続いていた。
ライゼンは木匙で鍋の底をすくい、乾いた堅パンを汁に浸した。
「道中の飯は、荷を運ぶ分だ」
それだけだった。
エントは目を見張り、膝の上の木匙を握り直した。
「荷を、運ぶ分……」
「運ばせるなら飯を食わせる。それだけだ」
ライゼンはパンを咀嚼し、水筒の水を飲んだ。
エントは唇を引き結び、それ以上は何も言わずに頭を下げた。鍋に残った最後の汁をパンですくい取り、綺麗に平らげると、張り出しの縁から落ちる雨水で鍋を濯ぎ、布で拭いてライゼンの足元へ戻した。
◇
夜になると、外の雨脚はさらに強まり、暗闇の奥からゴーッという低い地鳴りのような雨音が響き続けていた。
岩の張り出しの下には、焚き火の赤い光がぼんやりと溜まり、外の湿った冷気を押し返していた。
ライゼンは太い薪を一本、火の芯へくべた。
「順番は昨日と同じだ」
「はい」
エントが背筋を伸ばした。
「星は見えませんが、火の燃え具合と、この薪の減りで交代の時間を測ります」
「雨音で外の音が消える」
ライゼンは言った。
「耳だけに頼るな。火の光が届く境目をよく見ろ。水が流れる音と違うものが動けば、影が揺れる」
「影を見る……分かりました」
ライゼンは立ち上がり、岩陰に張った天幕の下へと滑り込んだ。
敷布の上に横たわり、長剣の鞘を右脇に引き寄せる。上着の襟を立て、毛布を胸まで引き上げた。
天幕の油布には直接雨は当たっていなかったが、張り出しの岩盤を叩く無数の水滴の音が、低く重い振動となって頭上から降り注いでいた。
ライゼンは目を閉じた。雨音の底に、火床の薪が爆ぜるパチという音が混じる。
エントが身じろぎをして、濡れていない地面を踏み直す靴底の擦れる音。
雨が強まるたびに岩の隙間を吹き抜ける風の唸り。
すべてが均一な雨の音の中に溶け込んでいたが、ライゼンの意識は完全に沈みきらず、指先は長剣の柄頭に触れたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
◇
夜半を回り、外の雨がわずかに小降りになったころ、天幕の入り口の布がそっと持ち上げられた。
湿った夜気が流れ込んでくる。
「……ライゼンさん」
エントの掠れた小声がした。
「交代の時間です。太い薪が二本、燃え尽きました」
ライゼンは音を立てずに目を開け、敷布から這い出た。
外の空気は雨を含んで重く冷え切っていた。雨は細かい霧雨に変わっていたが、張り出しの外の暗闇は、手を伸ばしても指先が見えないほど深い闇に沈んでいた。
火床の焚き火は小さくなっていたが、赤い熾火がしっかりと熱を保っている。
エントの唇は少し寒さで強張っていたが、視線はしっかりと前を向いていた。
「入れ」
「はい……おやすみなさい、ライゼンさん」
エントは天幕の中へ潜り込み、毛布をかぶった。
身じろぎの音が二度ほどしたあと、すぐに安らかな寝息が雨音の隙間に落ちていった。
ライゼンは火床の前に腰を下ろした。
膝の上に長剣を横たえ、湿っていない小枝を数本、熾火の上へ置いた。
煙が細く立ち上り、やがて小さな炎が爆ぜて、岩肌を薄赤く照らし出した。
岩の縁から滴り落ちる雨水が、一定の間を置いて、暗闇の砂地を叩いていた。




