第18話
昼を過ぎたころ、一度は止みかけていた雨が再び勢いを増した。
灰色の空から落ちてくる大粒の雨が、街道の赤土を叩きつけ、轍の底に溜まっていた泥水を跳ね上げる。北西から吹きつける風が雨脚を斜めに傾け、革の胸当ての隙間から冷たい雫を吹き込ませていた。
ライゼンは足元のぬかるみを避けながら、街道の先へ目を向けた。
道が緩やかに右へ曲がる手前、街道から少し窪んだ斜面の奥に、平らな石を積み上げて泥で固めた平屋の家が一軒、建っていた。
屋根は厚い杉の板を何重にも重ねた板葺きで、石で押さえられている。家の脇には人の背丈ほどの木柵で囲まれた小さな畑があり、雨に打たれながら青黒い葉を広げた丸い葉野菜が、幾筋もの畝に並んでいた。水はけを良くするためか、畝の間の溝は深く掘られ、泥水が畑の外の素掘りの水路へと勢いよく流れ出している。
ライゼンは街道を外れ、畑の脇の小道へ足を向けた。
背後で、油布の包みを抱えたエントが、水たまりを避けながら小走りで追いついてくる。
「ライゼンさん、あそこ、人が住んでるんですか?」
「軒先を借りる」
敷地の入り口には門もなく、二人は家の正面へと歩み寄った。
張り出した屋根の板から、親指ほどの太さの雨だれが滝のように落ちていた。その下の軒先に滑り込み、ライゼンは背負い袋を下ろして壁に背を預けた。エントも胸元の油布を下ろし、濡れた上着の袖口を絞って息を吐いた。
◇
二人が軒先に入って間もなく、板戸の内側から軋む音がした。
閂が外され、分厚い樫の戸が細く開く。
隙間から覗いたのは、白髪の混じった短い髭を蓄えた老人だった。
麻の粗いシャツの上に、煤けた革の前掛けを締め、膝のあたりに泥のついた作業用のズボンを穿いている。深い皺の刻まれた顔に、雨風に晒されて赤黒く焼けた皮膚が張り付いていた。
老人の視線が、まずライゼンの肩口の擦り切れた革鎧と、腰に佩いた長剣の柄に落ちた。続いて足元の重い背負い袋を一瞥し、最後に油布を抱えて縮こまっているエントの真新しい胸当てへと動いた。
「……雨宿りか」
老人の声は嗄れていたが、雨音を割って太く響いた。
「同業か」
ライゼンは身動きをせず、老人を見た。
「軒先だけ借りる。雨が弱くなれば出る」
「こんな雨がすぐに上がるわけがねえだろう。泥水が靴の中まで入ってるはずだ。そんなとこに立ってねえで、中に入れ」
老人は戸を大きく押し開き、土間の奥を顎でしゃくった。
土間へ足を踏み入れると、乾いた薪の燃える匂いと、土壁の温もりが鼻を突いた。奥の低い竈の前に、灰色の頭巾をかぶった老婆が腰を下ろしていた。老婆は振り返ると、手元の鉄鍋をかき混ぜる木匙を止め、棚から使い古した麻の布きれを二枚取って差し出してきた。
「身体を拭きな。風邪を引いたら街道じゃ命取りだよ」
「あ……ありがとうございます!」
エントが頭を下げて布を受け取り、濡れた髪と首筋を拭った。ライゼンも布を受け取り、革鎧の表面と長剣の鞘の水滴を拭い取った。
◇
土間は四歩四方ほどの広さで、中央に据えられた低い卓の周りに、丸太を輪切りにした椅子が四つ置かれていた。
ライゼンが荷を下ろしたとき、視線が土間の奥の梁に留まった。
煤で黒ずんだ横木に、使い古された片手剣が一本、剥き出しのまま鉄の鎹で吊り下げられていた。刃先にはいくつもの刃こぼれを研ぎ均した痕があり、柄の革紐は手垢と油で黒く硬化している。
その剣の鍔の脇に、革紐で結びつけられた平たい金属札がぶら下がっていた。
ギルドの登録札だった。
だが、表面は長年の煙と湿気で分厚い緑青と黒錆に覆われていた。金属の地金が真鍮なのか鉄なのか、あるいは銀なのか、目視では見分けがつかない。中央に刻まれていたはずの筋も、腐食と汚れに埋もれて判別できなかった。
老人が竈の横から木桶を運び、卓の脇に置いた。
その手の甲には、獣の爪か刃物で裂かれたような古い白い傷痕が斜めに走っていた。親指の付け根と人差し指の第二関節の皮が、分厚い胼胝となって硬く盛り上がっている。歩くとき、左の膝をわずかに外側へ逃がし、踵から平らに体重を落とす足取りだった。
エントが壁の剣と札を見上げ、目を丸くした。
「おじいさん、これ……ギルドの札ですよね? おじいさんも、昔冒険者だったんですか?」
老人は卓の上の土瓶を傾け、白湯を注ぎながら低く笑った。
「何十年も前の話だ。壁の煤除けに吊るしてあるだけさ」
「これ、何札だったんですか? 真鍮札ですか? それとも銀札ですか?」
「さあな」
老人は土瓶を置き、丸太の椅子に腰を下ろした。
「錆びちまって、何だったかも忘れちまったよ」
エントはなおも札を覗き込もうとしたが、ライゼンが見ても、その厚みや角の擦り減り具合から元の等級を推し量ることはできなかった。
◇
エントは温かい白湯を飲み干すと、腰の雑嚢を整えて老人の前に立った。
「あの、雨宿りさせてもらうだけじゃなくて、一晩泊めていただけるなら、何か手伝わせてください。薪割りならできます!」
老人は片眉を上げ、エントの手のひらを見た。
「薪割りか」
「はい! 前の町の宿で割りましたから!」
「なら、裏の庇の下に丸太が積んである。五つか六つ、薪にして積んどけ。斧は壁に掛けてある」
「分かりました!」
エントは上着を脱ぎ、雨戸を押し開けて裏口へ走っていった。
間もなく、裏庭からガツン、と斧の刃が木を叩く音が響き始めた。一度では割れず、持ち上げて叩きつける鈍い衝撃が土間の壁を微かに揺らす。やがて、パカンと乾いた音がして、木肌の裂ける音が続いた。
外の雨音が夜の暗がりの中に溶け込むころ、卓の上に素焼きの深皿が四つ並べられた。
老婆が竈()かまどから運んできたのは、畑の蕪と乾燥させた猪肉を塩と水だけで煮込んだ汁物だった。卓の中央の木鉢には、硬い大麦の平パンが四枚置かれている。
エントは額の汗を拭い、手を洗って席に着いた。
四人で木匙を取り、汁を口に運んだ。
蕪は形が崩れるほど柔らかく煮込まれ、干し肉から出た濃い塩気が汁全体に染み渡っていた。ライゼンは平パンを汁に浸し、ふやけたところを奥歯で噛み砕いた。老夫婦は無言で匙を動かし、老婆が時折、エントの皿に鍋の底に残った蕪をすくい足した。
◇
食事が終わり、老婆が皿を片付け始めると、エントが身を乗り出した。
「おじいさん」
火床の薪を見つめていた老人が、顔を上げた。
「何だ」
「昔、冒険者だったときのこと、聞かせてもらえませんか。どんな依頼を受けてたんですか? やっぱり、大きな魔物を倒したりしたんですか?」
老人はパイプを取り出し、火皿に煙草を詰めながら短く息を吐いた。
「魔物なんざ、そうそう出るもんじゃねえよ」
「出ないんですか?」
「ああ。相手にするのは、ほとんど山から下りてきた大きな猪だの、街道筋を荒らす狼の群れだ。作物を荒らす鹿を追い払ったり、商人の荷車について山越えをするのが関の山さ。たまに人型のゴブリンみたいなやつが徒党を組んで村の家畜を盗むから、それをねぐらまで追いかけて追い払う。そんなのばっかりだったよ」
老人は火打ち金を打ち、煙を細く吐き出した。
「もっと山奥の、瘴気が吹き溜まるような土地に行けば、妙な姿をした化け物もいるらしいがな。そんなところへは近寄らんのが一番だ。引き受けたって割に合わん」
「竜は……竜を見たことはありますか?」
エントが目を輝かせて尋ねた。
老人は鼻を鳴らし、パイプの先で壁を指した。
「竜なんざ、吟遊詩人の歌の中でしか聞いたことがねえよ。遠い南の果てだか、北の雪山の向こうだかにいるって話だが、街道を歩いてる冒険者が一生かかってもお目にかかれるもんじゃない」
「そうなんですか……。じゃあ、魔法使いはどうですか? 魔法使いと組んだことはありますか?」
「一度か二度、大きな商隊の護衛で一緒になったことがあったな」
老人は煙を見つめながら、淡々と言葉を継いだ。
「指先から小さな火を出して火種を作ったり、傷口に手を当てて血を止める術を使うやつだった」
「すごいですね! やっぱり冒険者には魔法使いが必要なんですか?」
「いや、滅多にいねえよ」
老人は首を横に振った。
「素養のあるやつは、学問を修めて城に召し抱えられるか、都の研究者になる。そのほうが安全で、金にもなる。泥水すすって野宿する冒険者になるのは、変わり者くらいだ」
「なるほど……研究者のほうが稼げるのか……」
エントは感心したように顎に手を当て、何かを考え込むように頷いた。
ライゼンは卓の端に手をついたまま、老人の吐く煙が梁のほうへ上っていくのを目で追っていた。
◇
夜が更けると、老人は土間の隅に敷いた藁を指差した。
「今夜はそこで寝な。藁は乾いてる」
「ありがとうございます!」
エントが頭を下げ、敷かれた藁の上に毛布を広げた。
老夫婦が奥の板敷きの部屋へ引き揚げると、土間には竈の熾火の微かな赤みだけが残った。
エントは横たわると、一日の疲れが出たのか、息を吸い込む間もなく規則正しい寝息を立て始めた。
ライゼンは土間の壁際に背を預け、藁の上に腰を下ろした。
上着は脱がず、長剣を鞘ごと右手のすぐ横、指を伸ばせば柄頭に届く位置に置いた。背負い袋は足元に引き寄せ、背中を板壁に軽く当てて目を閉じる。
頭上からは、板葺きの屋根を叩きつける激しい雨音が途切れることなく降り注いでいた。
雨音の底で、竈の灰がパチと小さく爆ぜる。
奥の部屋で、老いた二人の擦れるような呼吸の音が低く響いていた。
外の風が板戸の隙間を揺らし、ガタと乾いた音を立てるたびに、ライゼンのまぶたの裏で意識が引き絞られた。屋根の下にあっても眠りは深く沈まず、雨と風の物音を拾い続けながら、浅い息を繰り返していた。




