第19話
朝には雨が上がっていた。
低く垂れ込めていた雲はちぎれて東へ流れ、青白い空の隙間から薄い日差しが街道のぬかるみを照らしていた。
老夫婦の家を辞し、泥の跳ね返る道を歩いた。昨日までの大雨で削られた轍には水が溜まり、歩くたびに跳ねる赤土が革靴の甲を汚していった。エントは油布の包みを抱え直し、水たまりを避けながらライゼンの数歩後ろについて歩いた。
太陽が真上を過ぎ、影がわずかに東へ傾き始めたころ、街道の先が開けて集落の屋根瓦が見えてきた。
フォルクの宿場だった。
街道の両脇に、板壁と石積みを組み合わせた平屋や二階建ての家が三十軒ほど並んでいる。ケッセルの町のような土塁や見張り台はなく、街道がそのまま宿場の中央通りを貫いていた。道の両脇には荷馬車の車輪を洗う水路が引かれ、泥にまみれた四頭立ての馬車が二台、車輪を止めて荷降ろしをしていた。
通りの入り口近くに、交差した木剣を描いた小さな板切れが掲げられた平屋があった。ギルドの出張所だった。窓口の鎧戸は半分閉ざされ、中にいる番人が暇そうに爪を削っているのが見えた。
その向かいに、酒樽を吊るした看板の出ている二階建ての宿があった。一階の土間からは、炙った肉の油の匂いと、行き交う商人たちの太い話し声が外まで漏れ出している。
◇
宿の軒下、泥除けの敷石の上に立ち、ライゼンは足を止めた。
背負い袋を下ろさず、振り返ってエントを見た。エントも立ち止まり、抱えていた油布の包みを落とさないよう腕に力を込めながら、怪訝そうに視線を上げてくる。
「入る前に決めておく」
ライゼンは言った。
「道中の飯は、荷を運ぶ分だ。俺が出す」
「はい」
「だが、町や宿場での宿代と飯代は別だ。それぞれ自分で払う」
エントの眉がわずかに寄った。
「あ……でも、俺、手持ちの銅貨がもう一枚もなくて……」
「今夜の分は立て替える」
ライゼンは淡々と言葉を継いだ。
「宿代が銅貨四枚、飯が三枚だ。合わせて七枚、お前が依頼を受けて稼いだら返せ」
「立て替え……あの、前の宿みたいに、裏の水汲みとか薪割りをやらせてもらえば、タダで泊めてもらえるかもしれないですけど」
「依頼が受けられるなら、依頼で払え」
ライゼンは短く遮った。
「雑用で寝床をもらうのは、仕事のないやつのやることだ。小間使いを続ける気なら止めんがな」
エントは口を噤み、首を小さく縦に振った。
「……分かりました。稼いで返します」
「これから要る道具も同じだ」
ライゼンはエントの腰の雑嚢を一瞥した。
「お前が一人で使う火打ち石や小刀は、稼いだ金で自分で買え。鍋や調味料のように二人で使うものは折半だ。今は俺が出すが、全部つけにしておく」
「折半ですね。分かりました、ちゃんと覚えます」
◇
エントは納得したように頷き、胸元の油布の結び目を指先で整えた。
だが、そのまま土間へ入ろうとはせず、何かを測るようにライゼンの顔を見上げた。
「あの、ライゼンさん」
「何だ」
「その……なんで俺を連れてきてくれたんですか?」
エントの声は上ずっておらず、街道を歩いているときのような勢いもなかった。ただ、金の割り振りを聞かされた流れのまま、自然にこぼれ落ちたような平坦な問いだった。
「講習が終わったとき、もう一人でやれって言いましたよね。門の外で野宿して失敗したときも、呆れて見捨てられてもおかしくなかったのに……なんで油布を渡してくれたんですか?」
ライゼンは動かなかった。
通りの向こうで、荷馬車の御者が馬の尻を叩く乾いた音が一度響いた。
ライゼンの口の端が、ごくわずかに緩んだ。
「荷物があるからだ」
それだけ言って、ライゼンは背を向けた。
エントは目を瞬かせ、何か言いかけたように口を半開きにしたが、すぐに肩をすぼめて後頭部を掻いた。
「……荷物、ですか。まあ、重いですもんね、これ」
エントはそれ以上問いを重ねず、抱えた包みを抱え直して、ライゼンの後から宿の敷居を跨いだ。
◇
宿の帳場には、恰幅のいい女主人が座っていた。
ライゼンは小銭袋から銀貨を一枚取り出し、卓の上に置いた。
「二人だ。夕飯だけつけてくれ
「はいよ。二階の角部屋が空いてるよ」
女主人は銀貨を受け取り、釣りの銅貨を数えて卓に並べた。
一階の食堂の隅の長机で、夕餉をとった。
運ばれてきたのは、乾燥した豆と塩漬けの羊肉を煮込んだ汁物と、黒パンの塊が二つだった。エントは木匙を握り、熱い汁を一口すするごとに、左手の指を小さく折っていた。
「宿代が四枚、飯代が三枚……これで七枚」
小声で呟き、パンを汁に浸して口に放り込む。
「明日の朝飯もつけると、あと二枚か三枚……。次の町に着くまでに、出張所で割のいい仕事を見つけないと、どんどん借りが増えちゃうな……」
エントはパンを噛み砕きながら、眉間に皺を寄せて天井を見上げていた。ライゼンは何も言わず、自分の分のパンを平らげ、冷めた水を飲み干した。
二階の部屋は、壁際に藁を詰めた寝床が二つ並んでいるだけの簡素な造りだった。
窓の鎧戸の隙間から、街道を行き交う人の足音と、酒場から流れる喧騒が細く漏れ入ってくる。
外の野営ではないため、見張りの順番を決める必要はなかった。
エントは靴を脱ぐと、寝床の上に敷かれた毛布に潜り込み、深く息を吐いた。
「屋根があるって、やっぱり全然違いますね……」
呟く声は二度、三度と途切れ、まもなく規則正しい寝息に変わっていった。
ライゼンは長剣を鞘ごと壁際に立てかけ、上着を着たまま横になった。




