第20話
フォルクの宿場を出た朝、街道を覆っていたぬかるみは、北からの乾いた風に撫でられて白っぽく固まり始めていた。
車輪が深く刻み込んだ轍の底にはまだ濁った水が淀んでいたが、馬の蹄が踏み固めた土の盛り上がりを選んで歩けば、靴底に泥がまとわりつくことはなかった。空は高く抜けており、薄い雲が風に千切れて南へ流れていく。日差しが首筋に当たると、かすかに汗ばむほどの熱があった。
ライゼンは一定の歩幅を崩さずに進んでいた。
五歩ほど後ろから、油布の包みを抱えたエントの足音がついてくる。昨日までの雨で湿気を吸った包みは重さを増しているはずだったが、エントは時折腕の中で位置を直しながらも、歩調を落とさずに追ってきていた。
◇
宿場を出てしばらく歩いたあたりで、街道がなだらかな下り坂に差しかかった。
道の左手、雨水が削り取った土手の草むらの中に、灰色の角材が一本、斜めに突き刺さっていた。
近づくにつれ、それが人の手で削られた木の墓標であることが見て取れた。
雨風に晒され続けた木肌は銀灰色に変色し、縦に無数の細かいひび割れが走っている。角材の正面には何か文字を彫り込んだような溝の痕跡があったが、木が痩せて削れたせいで、何一つ判読することはできなかった。
根元の土は昨日の大雨で大きくえぐり取られており、支えを失った角材は、今にも倒れそうな角度で街道側に傾いでいた。
エントが足を止め、油布を抱えたまま墓標を覗き込んだ。
「……墓ですかね」
エントが呟いた。
「街道のこんなところに……。ライゼンさん、この人、どんな人だったんですかね。旅の商人か、それとも冒険者だったのかな」
ライゼンは答えなかった。
背負い袋を下ろさず、傾いた角材の前まで歩み寄ると、両手で木肌の真ん中を掴んだ。乾ききった木材のざらついた感触が手のひらに伝わる。
腕に力を込め、角材をまっすぐに引き起こした。
えぐれた根元の穴に、道端から拾い集めた拳大の石を三つ、四つと押し込む。その上から周囲の赤土を靴底で蹴り寄せ、体重をかけて何度も強く踏み固めた。
角材を軽く揺すってみる。小石が土を噛み、木は動かなかった。
ライゼンはそれ以上触れず、長剣の鞘を左手で軽く押さえて、再び南へ続く轍の上へと戻った。
エントはまっすぐに立った灰色の木を一瞥し、それから慌ててライゼンの後を追って駆け寄ってきた。
◇
午後になり、太陽が西へ傾き始めると、街道の両脇は背の低い灌木と乾いた雑草の原っぱに囲まれるようになった。
ライゼンが前方の道筋を見据えて歩いていると、背後の足音がふいに途切れた。
振り返ると、十歩ほど後方の道端で、エントが油布の包みを草の上に放り出し、しゃがみ込んでいた。
「……あった」
エントが小さく声を漏らした。
膝をつき、草むらに生えた膝丈ほどの雑草の株を両手でかき分けている。
「ライゼンさん、これ! これ、薬草ですよね!?」
エントが立ち上がり、ちぎり取った一本の草を掲げてみせた。
細長い茎の先に、楕円形の平たい葉が対になって並び、頂点に小さな黄色い花が咲きかけている。
「ギルドで登録したときにもらった小冊子に、これと同じ絵が載ってたんです! 葉が向かい合って生えてて、黄色い花が咲くやつ。傷口に当てると血が止まるって書いてありました。出張所で買い取りに出せば、一束で銅貨二枚か三枚にはなるはずです!」
エントは顔を紅潮させ、肩の雑嚢の口を広げると、株の周りに生えている同じ草を夢中で引き抜き始めた。
根元から引っこ抜こうとして茎が途中でちぎれ、青臭い汁が指先につく。それを気に留める風もなく、次々に葉をむしり取っては雑嚢の口へと押し込んでいく。
「これ、街道の脇にいっぱい生えてますよ。全部摘んでいけば、十束くらいにはなるかも……そしたら、昨日の宿代と飯代の立て替え分、七枚どころか、道具代まで足りるかもしれない!」
エントの手が草の間を素早く動いた。指先は緑の灰汁で黒ずみ、爪の間に土が入り込んでいく。
ライゼンは立ち止まったまま、エントの手元と、千切られた草の茎の断面を見ていた。
何も言わなかった。
エントが雑嚢を草の葉でパンパンに膨らませ、満足そうに息を吐いて立ち上がるまで、道端の轍の上でただ待っていた。
「お待たせしました! 行きましょう!」
エントは油布を抱え直し、弾むような足取りで街道へ戻ってきた。
◇
太陽が西の地平の赤褐色に沈みかけるころ、街道の右手に小さな窪地を見つけた。
三方を小高い土手に囲まれ、北からの風が遮られた平らな砂地だった。
荷を下ろし、いつもの手順で野営の支度を整えた。エントが集めてきた小枝で火床を作り、火打ち石で火を起こす。ライゼンが油布を張って一人分の天幕を組み上げ、小鍋に水筒の水と白豆、塩漬け肉を入れて火にかけた。
鍋が煮え立つのを待つ間、エントが待ちきれない様子で雑嚢の紐を解いた。
「ライゼンさん、見てください。これ、どうやって束ねたらいいですかね。ギルドに持って行くとき、根元を紐で縛っておいたほうがいいんですよね」
エントは摘んできた草の束を、火床の横の平らな石の上に誇らしげに広げてみせた。
青々とした葉が山盛りになり、焚き火の熱気にあおられて強い青臭さが漂い出している。
ライゼンは火の向こうから身を乗り出し、山の中から一本を指先でつまみ上げた。
葉を一枚ちぎり、指の腹で裏側を撫でる。
「……葉の裏を見ろ」
ライゼンは草をエントの目の前に突き出した。
「え?」
「葉の裏に毛が生えている。筋が白く浮いているだろう」
エントが目を凝らし、自分の手元の草の葉を裏返した。細かな白い産毛がびっしりと生え、太い葉脈が白く筋張っていた。
「あ……はい。生えてます」
「本物は裏に毛がない。筋も葉と同じ色だ」
ライゼンは指先の草を火床の灰の上へ落とした。
「ただの苦草だ。血止めにはならない。牛も食わない」
エントの手が止まった。
石の上の草の山を見つめたまま、瞬きを二度、三度と繰り返す。
「え……でも、小冊子の絵には、葉が向かい合って生えてて、黄色い花が咲くって……」
「絵はどれも似たように描いてある」
ライゼンは小鍋を火から下ろし、木匙を一本、エントの前へ差し出した。
「実物を見なければ分からない」
エントは差し出された木匙を受け取ったが、そのまま動かなかった。
石の上に広げられた緑の山を見つめ、それから土と灰汁で汚れた自分の両手を見下ろす。肩が小さく落ち、開いた口から細い息が漏れた。
「……ただの、雑草……」
エントは力なく呟き、手元の草を握りつぶした。
「……飯を食え。冷める」
ライゼンの声に、エントは小さく「はい」と返し、木匙を鍋へと伸ばした。
◇
食事が終わり、鍋を洗って火床の灰を均したころには、周囲は完全に夜の闇に呑まれていた。
風が土手の草を揺らし、擦れ合う音が暗がりを満たしている。
ライゼンは太い薪を一本、火の芯へ置いた。
「見張りはいつも通りだ。最初はお前、深夜に交代する」
「……はい」
エントは石の上の苦草をまとめて雑嚢に戻し、窪地の隅へ押しやると、腰の剣を引き寄せて火の前に座り直した。
ライゼンは天幕の下へ入り、敷布の上に身体を横たえた。
長剣を右脇に引き寄せ、毛布を胸まで引き上げる。
天幕の外で、エントが火床の灰をいじる音がした。パチと薪が小さく爆ぜ、風が油布の端を微かに揺らしていた。




