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行きがかりの英雄譚  作者: 水縒あわし
第1章 分かれ道

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第21話



 夜明けの風が街道を渡るころには、道端の枯れ草に降りた露が白く光っていた。


 空は青く澄み、街道の土は昨日の日差しと風で固く締まっていた。馬車の車輪が削った深い轍の溝を跨ぎながら、ライゼンは一定の速度で足を運んでいた。


 背後で、小石が跳ねる乾いた音がした。


 油布の包みを胸に抱えたエントが足を止め、街道の脇の斜面へ視線を落としていた。


 ライゼンが足を緩めて振り返ると、エントは包みを地面の草の上に置き、道端の低い土手に膝をついていた。


 薄い緑色の細い茎が、日陰の岩陰から数本伸びている。


 エントはすぐに手を出さず、腰を落として顔を近づけた。茎の節から左右に対になって伸びる葉の一枚を、親指と人差し指でそっと挟む。


 指先を裏返し、葉の背面に爪を当てた。


 なぞる指の動きが止まる。エントは目を細め、朝の光に透かすようにして葉の裏を見つめた。昨日の苦草にあったような白い細かな毛はなく、滑らかな緑の肌が朝露を弾いていた。太い葉脈の筋も白く浮き上がらず、葉の地と同じ淡い緑色に沈んでいる。


 エントは肩の雑嚢の口を開いた。茎を力任せにちぎるのではなく、根元の少し上を爪で挟んで折り取り、十数本を揃えて摘み取った。青臭い汁が指先についたが、昨日の苦草のような鼻を突く刺激臭はなく、湿った土に近い淡い匂いがした。


 葉を折らないよう丁寧に雑嚢へ収めると、エントは立ち上がって油布を抱え直した。



「……本物です」



 エントがライゼンを見上げて小さく言った。


 ライゼンは何も言わず、踵を返して南へ続く道を踏み出した。


◇


 太陽が頭上へ昇りきる少し前、街道の先に十数軒の板葺き屋根が集まっているのが見えてきた。


 二つ目の宿場だった。


 通りの中央には荷車が二台停まり、井戸の周りで女たちが桶の水を汲み合っていた。鍛冶屋の軒下から槌の音が低く響いていたが、通りの左右を見渡しても、交差した剣を描いたギルドの看板は見当たらなかった。


 エントが油布を抱えたまま、道端で馬の手入れをしていた男に駆け寄った。



「あの、すみません! この宿場に、薬草を買い取ってくれるところはありますか? ギルドの出張所とか――」



 馬の背を藁で擦っていた男は、手を止めずに鼻を鳴らした。



「出張所なんざ、こんな狭い宿場にあるわけねえだろう。ギルドの窓口なら、南のフルトまで行かなきゃねえよ」


「宿の帳場とか、よろず屋で買い取ってもらえたりは……」


「生草なんざ誰も買わん。裏の藪に行きゃいくらでも生えてるようなもんを、誰が金出して買うんだ。干して粉にする手間賃のほうがつくわ」



 男はそれだけ吐き捨てると、馬の腹を軽く叩いて作業に戻った。


 エントは肩を落とし、雑嚢の膨らみを外側から手で押さえた。



「……そうですよね」



 ライゼンは宿場の家並みには目を向けず、中央の通りをそのまま歩き抜けた。エントも立ち止まることなく、慌ててその背中を追った。井戸端の女たちが一度だけ二人の足元を一瞥したが、声をかけてくる者はいなかった。


◇


 正午を過ぎると、街道の幅は荷馬車が三台すれ違えるほどに広くなった。


 前方を歩く旅人の姿が増え、南から上がってくる四頭立ての大きな乗合馬車が、砂埃を巻き上げながら何度もすれ違っていった。空を渡る風の中に、湿った泥の匂いと、魚の生臭さを含んだ重い水煙の気配が混じり始めていた。


 太陽が西の空を赤く染め、長い影が道一面に伸びるころ、前方の視界が開けた。


 平野の向こうを横切る巨大な川の流れと、その岸辺に広がる町の輪郭が見えてきた。


 フルトだった。


 ケッセルのような盛り土の土塁ではなく、大人の背丈の四倍ほどもある灰色の石壁が町全体をぐるりと囲み、等間隔に角型の見張り塔が突き出していた。


 北門の前に着くと、鉄格子の跳ね上げられた高い石のアーチの下に、鎖帷子を着た四人の門番が槍を立てて詰めていた。街道から続く列には、農産物を積んだ荷車や、毛織りの外套を着た商人が十数人並んでいた。


 ライゼンが真鍮札を差し出すと、門番の一人が受け取り、角の丸くなった三本の筋に目を落とした。



「真鍮の三本か。……武器は町中で抜くなよ。特に船着き場の酒場は巡回が多いからな」


「ああ」



 続いてエントが差し出した木札を見ると、門番は一本筋の下の検印を親指でなぞり、帳面に短い印をつけた。



「駆け出しだな。揉め事を起こしたら一発で叩き出すぞ」


「はい、分かってます!」



 門をくぐると、通りの広さと人の密度が一気に変わった。


 石畳が整然と敷き詰められた大通りの両側には、三階建ての石造りの商家や宿屋が隙間なく並んでいる。川湊の方角からは、船頭たちの野太い怒鳴り声と、重い木箱を荷揚げする滑車のキーキーという甲高い軋みが絶え間なく響いてきていた。すれ違う者の中には、真新しい板金鎧を着けた数人連れの冒険者や、幅広の剣を背負った傭兵風の男たちの姿も目立った。


◇


 大通りを川沿いの方角へ百歩ほど進むと、青銅の大きな看板を掲げた三階建ての建物があった。二振りの長剣と川の波模様が浮き彫りにされた、フルトのギルド支部だった。


 両開きの厚い樫の扉を押して中に入ると、天井の高い大広間は人いきれと酒の匂いに満ちていた。


 中央の丸柱の周りには長い酒卓が幾筋も並び、三十人以上の男たちが素焼きのジョッキを傾けている。奥には十箇所以上の木製カウンターが横一列に並び、依頼の受託や資材の買い取りを求める者たちで列ができていた。


 エントは雑嚢の口を広げ、一番端の『資材・採取物受納』と札の下がった窓口へ小走りに進んだ。


 カウンターの奥で、革の指当てをつけた受付の男が、羊皮紙の目録をめくりながら顔を上げた。



「何だ」


「これ、買い取ってもらえますか!」



 エントは雑嚢から、道端で摘み取ってきた草の束を慎重に取り出し、板の上に広げた。


 受付の男は指先で葉を一枚つまみ上げ、裏返した。爪で表面を軽く引っ掻き、匂いを嗅ぐ。



「……血止め草だな。本物だ」



 エントの顔がぱっと明るくなった。



「本物ですよね! いくらになりますか?」


「だが、採れたての生草だ。乾燥もしてなけりゃ、根も落としてねえ。選別と乾燥の手間を引くからな。三束まとめて銅貨三枚だ」


「えっ……三枚ですか? 一束で銅貨二枚くらいにはなるって――」


「それは陰干しして束ねた上物の話だ。今摘んできたばかりの濡れた草にそんな値がつくか。売るのか、持って帰るのか、どっちだ」



 エントは口ごもり、手元の緑の束を見つめた。



「……売ります」



 受付の男は草を木箱に放り込むと、引き出しから黒ずんだ銅貨を三枚取り出し、カウンターの上に並べた。



「ほらよ」



 エントは銅貨を拾い上げた。


 手のひらに載った三枚の硬貨を見つめ、それから五歩ほど離れた場所で立っていたライゼンへ歩み寄ってきた。


 エントは三枚のうち、二枚の銅貨を指先でつまみ、ライゼンの前に差し出した。



「ライゼンさん。これ、この前の宿代と飯代の立て替え分です。全部は返せないですけど……まず二枚、返します」



 ライゼンはエントの手元を見た。


 エントの開いた掌には、残った一枚の銅貨がぽつんと転がっていた。


 ライゼンは何も言わず、差し出された銅貨二枚を指先でつまみ上げ、腰の小銭袋へ滑り込ませた。硬貨が袋の底でカチリと音を立てる。



「残りは五枚だな」


「はい。あと五枚です。必ず返します」



 エントは残った一枚を自分の雑嚢の奥へ押し込み、紐を固く結んだ。


◇


 二人は広間の壁際、巨大な木製の掲示板の前へ進んだ。


 掲示板はケッセルのものよりも二回り大きく、貼り出されている依頼書の数も何十枚と重なり合っていた。


 エントは下段の木札・石札向けの区画に目を走らせた。



『船着き場、南岸荷揚げ場。川船からの穀物俵および木樽の陸揚げ。日当銅貨十枚。人足枠、資格不問』


『東門外、水路の柵補修および杭打ち。日当銅貨八枚。木札以上』


『下水暗渠の清掃および泥浚い。日当銅貨九枚。木札以上、道具貸与』



 中段の鉄札・真鍮札向けの区画には、銀貨の文字が並んでいた。



『南街道、定期商隊の警護。フルトから南の宿場町まで。期間四日、報酬銀貨三十枚。推奨三人以上』


『川沿い葦原、大水蛇の巣の捜索および駆除。手当て銀貨四十五枚。推奨四人(盾役および捕獲網持ちを含むこと)』


『西山裾、採掘坑道入り口の夜間警備。期間七日、報酬銀貨四十枚。二人以上』



 川船の荷揚げと書かれた紙の前で、エントが爪先立ちになり、紙の端に記された日当の数字を指先でなぞった。


 ライゼンは腕を垂らしたまま、中段に並ぶ推奨人数の墨跡から、下段の荷揚げの依頼へと視線を移した。


 背後で、酒卓の男たちが大声で笑い、陶器のジョッキを打ち鳴らす音が響いていた。大広間の天井から吊るされたいくつものランプが、無数に重なり合う依頼書の白い紙面を、黄色く照らし出していた。



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