第22話
フルトのギルドを出たときには、すでに川面を渡る風が冷気を帯び、通りの石畳に夜の影を落としていた。
ライゼンは大通りから西へ折れ、川湊に面した裏通りの路地へ入った。
船大工の作業場や荷揚げ人足の溜まり場が並ぶ一角に、湿気で板壁が黒ずんだ二階建ての安宿があった。軒先には錆びた鉄のランタンがぶら下がり、饐えた麦酒の匂いと川泥の匂いが漂っている。
土間の帳場には、禿頭の主人が座り、脂の浮いた帳面をめくっていた。
「二人だ。素泊まりでいくらだ」
「一晩、一人銅貨五枚だ。前払いだ。水は裏の井戸を使え」
ライゼンは腰の小銭袋から銅貨を十枚取り出し、板の上に並べた。
主人は硬貨を指先で掻き集めると、番号の刻まれた木札を二つ放り出してきた。
「二階の突き当たりだ。騒ぐなよ」
階段の昇り口で、ライゼンは振り返った。
エントが油布の包みを抱えたまま、土間の敷石の上で足を止めていた。
「宿代五枚、立て替えた。前の五枚と合わせて十枚だ」
エントは息を呑み、首を縦に振った。
「……はい。十枚、覚えました」
エントは雑嚢の底から、先ほど薬草の買い取りで残った銅貨一枚を取り出した。それを握りしめ、宿の表の路地を覗き込む。
「俺、何か腹に入れてきます」
エントは小走りで通りへ出て、近くの屋台で蒸した黒豆の包みを銅貨一枚で買い、紙包みを抱えて戻ってきた。
二階の部屋は三歩四方ほどの板敷きで、隅に薄い寝藁が二山盛られているだけだった。
窓の鎧戸の隙間から、川沿いの波の音と、荷揚げ人足の怒鳴り声が絶え間なく聞こえてくる。
エントは寝藁の上に腰を下ろし、黒豆を口に放り込んで奥歯で噛み砕いた。手桶の水を木椀で二口飲み、息を吐き出す。
「……あと十枚」
エントは空になった紙包みを畳みながら、小さく呟いた。
「明日、なんとか稼がないと……」
ライゼンは背負い袋を下ろし、長剣を壁際に立てかけた。上着を脱ぐこともなく、もう一つの藁山の上に身体を横たえ、腕を組んだ。
◇
翌朝、町の四方に立つ石の見張り塔から、重い鐘の音が鳴り響いた。
ギルドの大広間に足を踏み入れると、朝の光が差し込む土間は、すでに仕事を求める男たちでごった返していた。
エントは掲示板の前に真っ直ぐ進み、下段の木札向けの区画から、昨日の夕方に目をつけていた紙を迷いなく引き剥がした。
『下水暗渠の清掃および泥浚い。日当銅貨九枚。木札以上、道具貸与』
紙を握りしめ、窓口へ進み出る。
カウンターの奥の男がエントの木札を一瞥し、一本筋の下の検印を確かめて帳簿に鉄筆を走らせた。
「西門の脇、下水吐口の現場だ。作業頭がいるから半券を渡せ。長靴と鋤は向こうで貸す」
「はい!」
半券を受け取ったエントが振り返った。
五歩ほど離れた柱の脇に立っていたライゼンに向き直り、深々と頭を下げる。
「ライゼンさん、行ってきます! 夕方には戻ります!」
ライゼンは短く頷いた。
エントは雑嚢を押さえ、人混みの隙間を縫って広間の扉へと駆け出していった。
◇
ライゼンは掲示板の前に戻った。
中段の真鍮札向けの区画には、昨日と同じ依頼が並んでいた。南の街道を行く商隊の護衛、山裾の坑道警備。どれも推奨人数は三人以上で、単独で引き受けられる紙は一枚もなかった。
背後の酒卓から、荒っぽい男たちの声が聞こえてきた。
「おい、どうすんだよ。頭数が揃わねえぞ」
四人掛けの長机に、擦り切れた鎖帷子を着た大柄な盾役の男と、短槍を膝に置いた軽装の男、それに長弓を抱えた男の三人が座っていた。卓の上には、羊皮紙の依頼書の控えが広げられている。
『川沿い葦原、大水蛇の巣の捜索および駆除。手当て銀貨四十五枚。推奨四人(盾役および捕獲網持ちを含むこと)』
「網持ちと射手はいるが、前衛の刃がもう一本足りねえ。葦原の奥に潜り込まれたら、俺の盾一枚じゃ抑えきれんぞ」
「今朝の船で川下へ下った連中ばかりだ。真鍮札か、腕の立つ鉄札の前衛は残ってねえのか」
「受付に訊いたが、一人で動ける手練れは今いねえそうだ」
男たちはジョッキを乱暴に卓に叩きつけ、悪態をついた。
ライゼンはその声に目を向けることなく、掲示板の前を離れた。
大広間を出て、川沿いの大通りを歩いた。
川湊の岸壁には十数隻の平底船が横付けされ、分厚い板を渡した通路を、人足たちが天秤棒や麻袋を担いで行き交っていた。川面を渡る風は冷たく、湿った川泥と魚の脂の匂いを絶え間なく運んでくる。
石畳の路地を抜け、船大工の作業場を通り過ぎた。鋸を引く乾いた音と、タールを煮る黒い煙が立ち上っている。
すれ違う商人や人足の視線が、ライゼンの肩の革鎧と腰の長剣を一度なぞるだけで、誰も足を止めなかった。
◇
夕暮れが近づき、川面が赤銅色に光り始めたころ、宿の二階の部屋で、階段を上がる重い足音が響いた。
板戸が開き、エントが入ってきた。
部屋の空気が一瞬で下水独特の澱んだ悪臭に満ちた。
エントのズボンと革靴は、黒い川泥とヘドロで厚く覆われていた。亜麻布のシャツの右袖は、火の粉を浴びたように端が黒く炭化して縮れている。
エントは寝藁の上には上がらず、土間と板敷きの境目に力なく腰を下ろした。
手袋を外した右手の甲から前腕にかけて、皮膚が赤黒く爛れ、細かな水ぶくれが潰れて黄色い汁が滲み出ていた。
「……ライゼンさん」
声は嗄れていたが、その瞳には異様な光が残っていた。
「暗渠の中、とんでもなかったです。腰まで泥水に浸かりながら、鋤で泥を掻き出してたんですけど……奥の澱みから、急に変なのが這い出てきたんです」
エントは息を継ぎ、膝の上に手を置いた。
「ぶよぶよした、濁った水風船みたいな塊で……スライムでした」
ライゼンは背負い袋の脇に腰を下ろしたまま、動かずにエントの手元を見ていた。
「慌てて剣で突いたんですけど、刃がぬるりと滑って、切っても切ってもすぐに元の形に戻っちゃって全然効かないんです。そしたら、奴の体の汁が飛んできて……袖が焦げて、手の甲に当たったら焼けるみたいに痛くて」
エントは赤く腫れた手の甲を示した。
「そしたら作業頭の人が後ろから走ってきて、松明を俺の手の中に突っ込んできて『火で追え!』って怒鳴ったんです。松明を突き出したら、あいつ、ジュウって音を立てて身を縮めて、逃げようとしました。そのまま押し付けたら、煙を吹いて溶けて消えちゃって……」
エントは早口で言葉を重ねた。
「でも、奥の暗がりからもう二匹湧いてきて……正直、足がすくんで、松明を落としそうになりました。作業頭の人に背中を叩かれて、やっと前に出られたんです。三匹、なんとか片付けました。作業頭の人が『よく逃げずに踏みとどまった』って言ってくれて……日当の九枚のほかに、害獣を片付けた特別手当で二枚、上乗せしてくれたんです!」
エントは雑嚢の口を広げ、中から硬貨を取り出した。
板敷きの上に、黒ずんだ銅貨が十一枚、並べられた。
エントはその中から、泥のついた指先で十枚を数え分け、ライゼンの足元へ押し出した。
「ライゼンさん。これ、十枚です。宿代の立て替え分です。これで……全部返せました」
ライゼンは十枚の銅貨を一瞥した。
手を伸ばし、硬貨を鷲掴みにして腰の小銭袋へ流し込んだ。カチリと重い音が鳴る。
「ああ。十枚だ」
エントの手元には、銅貨が一枚だけ残されていた。爛れた手の甲をさすりながら、残った一枚を握りしめ、深く息を吐き出した。
◇
夜になり、部屋の隅の木机の上に置かれた小さなランプが、黄色い油火を揺らしていた。
エントは手桶の水で泥を洗い落とし、布の端を裂いて右手の甲に巻きつけていた。
雑嚢の底から、折れ曲がった小冊子を取り出す。
ギルドで最初に配られた、薄っぺらい紙の束だった。
ランプの火のそばに身を寄せ、煤けた指先でページをめくっていく。紙の擦れる乾いた音が、狭い部屋の中に響いた。
ふいに、エントの指が止まった。
目が大きく見開かれ、口元が引き結ばれる。
「……あっ!」
エントが声を上げた。
「ライゼンさん、これ! 書いてありました!」
エントは小冊子の頁を指差し、身を乗り出した。
擦り切れた紙面の端に、細い墨の文字が一行だけ印刷されていた。
『湿地および暗渠に湧く粘体。刃物は効き難く、火を極めて嫌う』
「本当に……たった一行だけ、書いてあった……」
エントは爛れた右手の包帯を押さえ、その文字を指の腹で何度もなぞった。
ランプの炎が油煙を上げ、紙の上の文字を小さく揺らしていた。




