第23話
翌朝、鎧戸の隙間から差し込んだ朝の光が、板敷きの上に細い白筋を描いていた。
エントは寝藁の上で身を起こすと、まず右腕を掲げて手元を見た。
手の甲から前腕にかけて巻かれた布は、スライムの汁が染み出した黄色い滲みで硬く固まっていた。エントは布の端を指先でそっと押さえ、顔をしかめて息を吸い込んだ。
壁際に立ち、背負い袋の紐を点検していたライゼンの背中に、エントが声をかけた。
「ライゼンさん」
ライゼンが振り返ると、エントは布の巻かれた右手を胸元に引き寄せ、真剣な顔でこちらを見ていた。
「俺、自分の小刀を買いたいです」
「小刀か」
「はい。獲物を捌くのも、枝を払うのも、ずっとライゼンさんのを借りてましたから。自分の道具を持っておきたいんです。……この町、ギルドに行けば毎日仕事があります。下水の仕事なら、少し日数をこなせば金が貯まると思うんです」
エントは立ち上がり、ズボンの膝を叩いた。
「道具を買うまで、しばらくこの町で依頼を受けてもいいですか」
ライゼンはエントの右手の包帯を一瞥した。
「構わん。好きにしろ」
「ありがとうございます!」
エントは頭を下げると、雑嚢を肩にかけ、足早に部屋を出ていった。
◇
それから七日の間、エントは毎朝、鐘が鳴り終わる前に宿を出てギルドへ向かった。
最初の二、三日は、右手の腫れが引かなかった。
夕方に宿へ戻ってきたエントの右腕は、黄色い汁の滲んだ包帯の上に、乾いた泥が幾重にもこびりついていた。土間に腰を下ろしたエントが、水桶の水で布を濡らしながら話した。
「作業頭の人が包帯を見て、『今日は暗渠の中へ潜るな』って言ってくれたんです。吐口の表で、上がってきた泥を鋤で荷車に積む仕事に回してもらいました。手袋が擦れてちょっと痛かったですけど、一日やり通せました」
日当は正規の銅貨九枚だった。
そこから宿代の銅貨五枚を帳場に払い、屋台で固い黒パンと炒った豆を銅貨二枚で買うと、手元に残る銅貨は二枚だった。初日に残っていた一枚と合わせて、手持ちは三枚になった。
四日目を過ぎるころには、エントの右手の甲の爛れは赤黒い瘡蓋に変わり、包帯の布が外された。
エントは再び暗渠の奥へ入るようになった。
作業頭から渡された松明を片手に、泥水を漕ぎ分けながら、壁の隙間から這い出てくるスライムを火先で追い立てたという。火を押し当てて仕留めた日には、作業頭から特別手当として銅貨が一枚、あるいは二枚上乗せされた。
夜、薄暗い部屋の隅で、エントは雑嚢から銅貨を取り出して板の上に並べた。
五枚、八枚、十一枚、十四枚。
指先で一枚ずつ硬貨を数え、カチリ、カチリと音を立てて積み重ねていく。エントは唇を動かして数を確かめると、息を吐いて硬貨を巾着へ戻した。
その間、ライゼンは朝にギルドへ寄り、中段の掲示板に並ぶ依頼の紙面を目で追った。
川沿いの大水蛇の駆除の紙は、まだ掲示板の中央に留められたままだった。
昼間は川湊の通りを歩き、石積みの船着き場を行き交う荷船の動きを眺め、宿に戻っては長剣の刃金を油布で拭った。宿の帳場では、主人が差し出す部屋の木札を受け取った。
◇
七日目の昼前、石の見張り塔から鐘が二度鳴ったころ、ライゼンは部屋を出た。
エントが後ろからついてきた。雑嚢の底には、この一週間で貯めた銅貨が固く結ばれて入っていた。
二人は川湊の裏手、荷揚げ場から三筋入った細い路地へ向かった。
板壁が傾き、軒下に錆びた鎖や割れた滑車が転がる一角に、看板も出していない古道具屋があった。
引き戸を開けると、古い油と鉄錆の匂いが澱んだ空気の中に立ち込めていた。
薄暗い土間の奥に、天板の擦り切れた棚が並び、解体用の鋸や蹄鉄、出所の定かでない革帯や金具が雑然と積み上げられている。帳場の奥の腰掛けで、痩せた老人が木片を削りながら、入ってきた二人を一瞥した。
ライゼンは刃物が並ぶ木箱の前へ歩み寄った。
箱の中には、刃金の減った片手剣や、錆の浮いた鉈、大小の小刀が乱雑に放り込まれていた。
ライゼンは手頃な長さの小刀を一本、箱から引き抜いた。
鞘から刃を抜き、土間のわずかな明かりに刃先を透かす。
「見ろ」
ライゼンは寄ってきたエントに小刀を差し出した。
「刃こぼれの深いやつは避ける。欠けが峰の近くまで入っていれば、研いでも平らにならん。峰の筋をまっすぐ見ろ。歪んで曲がっているやつは、力を入れたときに刃が逃げる」
ライゼンは柄を握り、親指と人差し指で鍔の根元を強く左右に揺すった。
「柄を握って揺らせ。芯の鉄と柄の木の間に隙間があるやつは、硬い骨に当たれば抜ける。留め鋲がしっかり締まっているものを選べ」
「刃こぼれと、峰の歪みと、留め鋲ですね」
エントは頷き、木箱の中に手を突っ込んだ。
何本もの小刀を取り出し、鞘を払っては刃先を光にかざした。峰の直線を片目で覗き込み、柄を両手で握って左右に力を込める。根元がガタつくものを一本脇へ除け、刃先が大きく欠けたものをもう一本戻した。
四本目を確かめたところで、エントの手が止まった。
刃渡りは大人の手のひらほど。全体に浅い錆が薄く浮いていたが、刃こぼれは米粒よりも小さく、峰はまっすぐに伸びていた。柄には分厚い樫の木が合わせられ、真鍮の太い鋲が二本、隙間なく打ち込まれている。揺すってみても、柄の根元から軋みは起きなかった。
「ライゼンさん、これ……」
エントが差し出してきた小刀を、ライゼンは受け取って一瞥した。
親指の腹で峰の厚みを確かめ、柄の角の削れ具合を見る。
「悪くない。研げば使える」
「これにします!」
エントは小刀を抱え、帳場の老人へ差し出した。
「これ、いくらですか」
老人は削り屑を払い、小刀の鞘を手にとって裏表を返した。
「銅貨十枚だ」
エントは雑嚢から巾着を取り出し、板の上に銅貨を十枚、きれいに並べた。
老人は硬貨を指先で掻き集め、引き出しに落とした。エントは小刀を両手で受け取り、腰の帯の隙間に差し込んだ。
◇
ライゼンは土間の棚の脇へ歩を進めた。
棚の隅の浅い木皿の中に、使い古された小道具の山があった。
ライゼンは手を伸ばし、灰色の小袋に入った火打ち石と、平たい鋼の鉄片をつまみ上げた。石の角を親指で弾いて硬さを確かめ、鉄片の刃筋を一瞥する。
「これもだ」
ライゼンは腰の小銭袋から銅貨を三枚取り出し、老人の机の上に置いた。
老人は無言で硬貨を収めた。
店を出ると、昼下がりの冷たい川風が路地を吹き抜けていった。
石畳の上に立ち止まったライゼンは、右手に持っていた火打ち石と鉄片を、エントの胸元へ突き出した。
エントが瞬きをし、足を止めた。
「え……?」
「持っておけ」
ライゼンはそう言うと、エントの手の中に、冷たい石の塊と平たい鉄片が落ちた。
エントは掌の上の二つの道具を見つめ、それから顔を上げた。
「これ……火打ち石ですよね。ライゼンさん、これ、俺に……?」
ライゼンは答えず、長剣の鞘を左手で軽く押さえた。
踵を返し、大通りへ向かって歩き出した。
背後で、エントが火打ち石を両手で包み直す衣擦れの音が響いた。
路地の先から荷馬車の轍のきしむ音が届き、川湊の埃っぽい風が、二人の足元を通り抜けていった。




