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行きがかりの英雄譚  作者: 水縒あわし
同じ方へ

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第36話



 谷間を抜けると、両脇に迫っていた岩肌が左右へ退き、視界が一気に開けた。


 白く乾いた道が、緩やかにうねる平野の向こうへまっすぐに延びている。枯れ草の丘は次第に背を低くし、刈り入れを終えて茶色い土が剥き出しになった畑が、道の両側に広がり始めていた。


 街道を行き交う荷の数が増えていた。峠の登り口で見かけたような粗末な背負い籠だけでなく、木枠を組んだ二頭立ての荷馬車や、四頭、五頭と連なった荷運びの騾馬の列とすれ違う。馬車の荷台には、麻布を被せて縄で固く縛った穀物袋や木樽が山積みにされ、御者台の脇には棒や短槍を手にした雇われ人足が腰掛けていた。街道の道幅が広がり、轍(わだち)が幾筋も重なって白土を踏み固めている。


 陽が天頂に届いたころ、ライゼンは街道から十歩ほど外れた、刈り入れ後の畑の土手際に腰を下ろした。


 背後には遮るものがなく、街道の前後百歩は見通せる。風は冷たいが、澄んだ青空から差す陽射しにはまだかすかな温もりがあった。


 荷を下ろし、火は使わずに昼の食事を取る。ライゼンは腰の短剣で塩漬け肉の塊を薄く削ぎ、堅パンを割ってエントに渡した。エントは膝の上に油布を広げ、肉を噛みながら街道を通る荷馬車を目で追っている。


 数歩離れた草むらに座っていたリーゼが、腰の布袋から赤黒い干し葡萄を一握り掴み出すと、放るようにしてエントの膝の上へ投げた。



「ほら、小僧。喉が詰まるだろ」



 エントは慌てて両手で受け止め、干し葡萄の粒を見つめた。それから手元の塩漬け肉の切れ端に目を落とし、困ったようにライゼンの顔を窺った。道中の食料はライゼンの背負い袋から出ている。勝手に人へ分けるわけにはいかないという顔だった。


 ライゼンは何も言わず、短剣の刃先で塩漬け肉をもう一切れ、少し厚めに切り落とした。腰を浮かせ、腕を伸ばしてリーゼの足元に敷かれた布の端へそれを置いた。


 リーゼは置かれた肉片を一瞥して、口の端を上げた。



「気が利くじゃないか。あたしの干し肉よりよっぽど柔らかそうだ」



 躊躇なく指で摘まみ上げると、前歯で引きちぎって咀嚼した。


 ライゼンは短剣の刃を布で拭い、鞘へ収めた。街道の先から、空の荷車を引く二頭の馬が乾いた蹄の音を響かせて通り過ぎていった。


◇


 午後の鐘が遠くで鳴るころ、街道の先に大きな宿場が見えてきた。


 宿場というよりは、一つの町に近い広さだった。周囲を巡る外壁や堀はないが、外縁には頑丈な丸太を組んだ防獣柵が巡らされ、街道が入り込む辻には木組みの見張り台が一つ高く据えられている。


 東西に貫く街道と、南北から交わる脇街道が交差する大きな辻を中心に、板壁と塗り壁の建物が密集していた。白地の幌を掛けた大型の馬車が何台も乗り入れ、馬宿や隊商宿の看板が軒を連ねている。馬の嘶きと、車輪の軋み、人足たちの怒号が絶え間なく混ざり合っていた。



「あたしは稼いでくるよ」



 辻の手前で、リーゼは二人を振り返ることもなく言った。



「あっちのほうが客が多そうだ」



 顎でしゃくった辻の向こうには、荷車を並べた青空の市が立っており、野菜や干物、古着を売る天幕の間を大勢の人間が往来していた。リーゼは楽器の包みを背中で揺らしながら、人混みの中へ身軽に紛れていった。


 ライゼンはエントを促し、街道沿いにあるギルドの出張所へ向かった。


 二階建ての石造りの建物で、宿場の出張所としてはかなり大きい。入り口の板扉をくぐると、土間の広間に大きな木枠の掲示板が据え付けられ、何十枚もの依頼書が貼り出されていた。ただし、王都の台帳と繋がる照合盤の青白い石板は見当たらない。長机の向こうで、黒い前掛けを締めた係の男が帳簿に羽ペンを走らせている。


 ライゼンが腰の真鍮札を机の上に置くと、係の男は一瞥してペンを止めた。札の角の丸みと、刻まれた三本の筋を指先で確かめると、男の目つきがわずかに改まった。



「……腕の立つ方ですね。ちょうどいいのがあります。辻の東の荷置き場で、西へ向かう大口の荷の積み替えがあるんですがね。荷主が用心棒を一人欲しがっていまして。日暮れまでの半日で、銀貨一枚出ます」


「受ける」



 ライゼンが短く答えると、係はすぐに帳簿へ名前と札の番号を書き留めた。


 その横で、エントが掲示板の下段から剥がしてきた紙片を差し出した。木札向けの雑用枠だ。



「あの、これ、俺も受けられますか」



 係は紙片を見て、苦笑混じりに頷いた。



「同じ荷主の人足枠だな。荷車の積み下ろしだ。半日で銅貨五枚。身体は保つかい」


「大丈夫です」



 エントは木札を差し出し、帳簿に自分の名を書き込んでもらった。札を受け取りながら、エントがライゼンを見上げて小声で言った。



「ライゼンさん、同じ所ですね」


「ああ」



 ライゼンは出入り口の扉を押し開け、宿場の通りへ出るのだった。


◇


 東の荷置き場は、深い轍で土が抉れた広大な敷地だった。


 頑丈な角材で囲われた敷地の中に、白木の木箱や麻袋が山のように積まれている。積み荷を下ろす人足たちの掛け声と、荷主の指図する甲高い声、鼻息を荒げる騾馬の鳴き声が入り乱れていた。


 ライゼンは、荷の出入り口と敷地全体が一望できる、荷車を寄せていない板壁の前に立った。


 背後の死角はなく、通りへ抜ける大門まで遮るものはない。腰の長剣の柄頭に軽く手を添え、人足たちの出入りと、通りから荷置き場を窺う不審な者の有無だけに視線を配った。


 十数歩先では、エントが年配の人足たちに混じり、麻袋を両腕で抱え上げて別の荷車へと運んでいた。踏ん張る足元は覚束ないが、荷を落とすことなく懸命に運んでいる。


 通りを挟んだ向かいの広場では、青空市の人混みの真ん中で、人垣が二重、三重に膨らんでいた。


 中央の踏み台の上で、リーゼが身振り手振りを交えて膏薬の口上を張っているのが見える。声は市場の喧噪に呑まれて切れ切れにしか届かないが、立ち止まった客たちが小壺や油紙の包みを受け取り、銅貨を差し出す光景が遠目にも分かった。


 ライゼンは人垣の外側に目をやった。後ろから覗き込む者、人の肩越しに手を伸ばす者。今のところ、それらしい動きはない。


 鐘が鳴り、荷主の合図で積み替えの手が一時止まった。人足たちが井戸端へ集まり、木桶の水に手桶を突っ込んで喉を潤す。


 エントの隣で木箱を運んでいた浅黒い顔の男が、額の汗を拭いながらエントの肩を小突いた。峠を越えてきた騾馬引きの男で、昨夜、二つ目の宿場の酒場で見かけた顔だった。



「おい、小僧。向こうで薬を売ってるあの女、知ってるか」



 エントは手桶の水を飲んだところで足を止め、市の人垣のほうを見た。



「あ……」


「昨日の宿場の酒場にいた歌い手だよ」



 男は白い歯を見せて、からからと笑った。



「声自体は悪くねえんだ。だがよ、峠を無事に越えてきて、さあ一杯やろうって浮かれてる連中の前でさ、雪の中で行き倒れて凍え死ぬ歌を歌い出すんだから、どうかしてるぜ。そりゃ客も荒れるってもんだ」



 男は面白そうに首を振った。



「歌じゃ銅貨二枚しか集まらなかったくせに、今日はあんなに人を集めてらあ。最初から薬だけ売ってりゃいいのにな」



 エントは手桶を持ったまま、困ったような苦笑いを浮かべた。



「そう……なんですかね」



 それ以上は何も言わず、リーゼと連れ立って歩いていることも口にしなかった。


 板壁の前で、ライゼンはそのやり取りを聞いていた。エントは苦笑いを貼りつけたまま、手桶を木桶に戻した。


 荷主が手を叩いた。ライゼンは通りのほうへ目を戻した。


◇


 夕方の鐘が鳴る少し前、辻の入り口に二頭立ての幌馬車二台が滑り込んできた。


 御者台から飛び降りた隊商の頭は、毛織りの上着の襟を正し、埃まみれの宿場を見回した。後続の馬車から、棍棒や短槍を抱えた四人の人足が下りてくる。


 夕日に染まる辻は、宿場へ入り込む商人と旅人でごった返していた。隊商宿の軒先には、すでに何台もの馬車が車止めを噛ませて並んでいる。



「頭、宿を押さえてきますかい」



 頬にまだ薄い赤みが残る若い人足が尋ねてきた。一つ目の宿場で、あの勝ち気な女に平手で張り飛ばされた男だ。



「ああ、先に二部屋取ってこい」



 頭が応じ、ふと広場のほうへ目を向けたとき、その視線が一箇所で止まった。


 青空市の片隅で、十人以上の人垣ができている。その中心の踏み台の上で、灰色の外套を着た女が素焼きの小壺を掲げ、調子のいい声を張り上げていた。小壺が売れるたび、女の足元の布の上に銅貨が吸い込まれていく。


 リーゼだった。


 さらに視線を滑らせると、通りを挟んだ荷置き場の板壁の前に、黒革の鎧を着た四十絡みの男が立っているのが見えた。その足元から少し離れたところで、背負い袋を下ろした若い駆け出しが、人足に混じって木箱を荷車へ押し上げている。


 峠の登り口で、リーゼを押しつけるようにして先に行かせた二人組だった。男も若いのも、こちらには気づいていない。



「……頭、あいつですぜ」



 若い人足がリーゼの姿に気づき、侮られた記憶が蘇ったのか、苦々しげに腰を浮かせた。



「声をかけてきますかい。こんなところにいやがった」


「いや」



 頭は太い手を上げて人足を制した。



「やめとけ。今ここで声をかけたところで、また突っぱねられて騒ぎになるだけだ」



 頭は、踏み台の上で口上を張る女をしばらく眺めた。去年の秋、南の市で見たときより、客の足の止まり方がいい。


 明日一日歩けば、城のある大きな町に着く。街道は一本道で、行き先が同じであることは分かっている。宿場の一角で騒ぎ立てるより、町に入り、腰を落ち着けてからじっくりと話を持ちかければいい。


 頭の視線が、再び荷置き場の板壁の前に立つ男へ戻った。


 腰に長剣を下げ、微動だにせず荷の出入りを監視している。身のこなしからして、ただの冒険者崩れとは思えないが、どこの誰なのかまでは頭にも見当がつかなかった。



「行くぞ。馬を休ませるのが先だ」



 頭は踵を返し、隊商宿の厩舎へ向かって歩き出した。


◇


 夜の帳が下りると、宿場の中央通りは隊商宿の明かりと泥酔した商人たちの騒ぎ声で満たされた。


 ライゼンたちは表通りの喧噪を避け、裏通りへ入った先にある、素泊まり一人銅貨五枚の安宿に宿を取った。商人用の宿とは違い、一階には削り出しの粗末な長卓が一つ置かれているだけの静かな宿だった。


 リーゼもまた、自分の銅貨五枚を帳場に放り込み、同じ宿に転がり込んでいた。


 長卓の端に腰を下ろしたエントが、水筒の水を一口飲み、嬉しそうに口を開いた。



「出張所の帳簿に、ちゃんと今日の仕事をつけてもらえました。石板がないから筋は増えないって言われましたけど、本部の台帳に送る帳面に書いておくから無駄にはならないって」


「石板があるのは大きな町だけさ」



 卓の向かいに座り、足元の布袋から銅貨を取り出して数えていたリーゼが顔を上げた。



「なんだい小僧、さっきから変な顔して。荷運びで腰でも痛めたかい」


「えっ、いえ……そんなことないです」



 エントは一瞬言葉を詰まらせ、それから視線を逸らすようにして言った。



「あの、昼間、積み替えをしてるときに……リーゼさんの口上が、荷置き場までよく聞こえてたなって思って」


「そりゃあ聞こえるさ。声を張らなきゃ客の耳には届かないんだからね」



 リーゼは鼻を鳴らし、小気味よい音を立てて銅貨を積み直した。



「あそこは人の出入りが多くて助かったよ。小壺が五つに、油紙の包みが八つ売れた。昨日の酒場の阿呆どもより、よっぽど話が通じる客ばっかりさ。銅貨三十枚を超えりゃ上等だよ」



 昨夜の酒場ほどの手間もかけず、喧嘩にも巻き込まれずに済んだのが満足なのか、女の口ぶりはどこか誇らしげだった。


 エントは「すごいですね」と短く応じ、それ以上は昼間の人足の話を持ち出さなかった。


 ライゼンは長卓の隅に腰掛け、手元に長剣を置いたまま、二人のやり取りに口を挟まなかった。宿の木戸の外から、遠くの表通りの騒がしいざわめきが、乾いた夜風に乗って微かに届いていた。


◇


 翌朝、冷え込みは一段と厳しさを増していた。


 ライゼンとエントが宿の木戸を押して通りへ出ると、後ろからリーゼも外套の襟を掻き合わせながら出てきた。昨朝のような、言い訳めいた言葉はもう口にしなかった。背中に五弦の楽器を背負い、肩から重くなった布袋を提げ、二人の後ろへ自然に足を進める。


 宿場の中央の辻へ出ると、朝の市はまだ品物を並べている最中だった。野菜を積んだ荷車がぎしぎしと軋み、見張り台の足元を抜けていく。


 宿場の西の出口へ向かうと、白土の街道にはすでに出ていく荷馬車が何台も連なり、同じ方角を目指して長い列を作っていた。車輪が巻き上げる乾いた白煙が、朝の斜光に白く透けている。


 エントが白い息を吐き出しながら、前を歩くライゼンの背中に声をかけた。



「ライゼンさん。今日のうちに、城のある町に着きますか」


「荷馬車がこれだけ流れてるんだ」



 ライゼンより先に、二歩後ろを歩くリーゼが乾いた声で言った。



「街道が詰まりさえしなきゃ、陽が沈む前には町の門が見えるだろ」


「陽が沈む前……」



 エントが口の中で繰り返し、足を速めかけて、ライゼンの背中の手前で歩幅を戻した。


 ライゼンは歩調を変えなかった。平野の先、青く霞む大気の向こうへ、幾筋もの轍がまっすぐに延びていた。



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