第35話
布の上に散らばった銅貨を、リーゼは躊躇なく布ごと掻き集めた。四隅をまとめて持ち上げると、小銭のぶつかり合う重い音が鳴る。
台から飛び降りた拍子に、床の麦酒が跳ねて灰色の外套の裾を汚したが、女は気にも留めない様子で口をきつく縛った。
「おい、ちょっと待ちな」
奥の厨房の垂れ幕を押し分け、小太りの主人が出てきた。前掛けの前で太い腕を組み、脚の折れた卓と、砕けた木椀の破片を顎でしゃくる。
「散々やってくれたな。この卓と椀の分はどうすんだ。誰が弁償するんだ」
「最初に突っかかってきたのはそっちの髭だろ」
リーゼは背負った布袋に銅貨の包みを押し込みながら、すんなりと言い返した。
「あたしは歌ってただけさ。野次を飛ばして椅子を振り回した奴に言やいいじゃないか」
「歌ってただけだと? 火に油を注いだのはどっちだ」
「あれっぽっちで火がつく頭なら、叩いて冷やすのが親切ってもんだよ」
主人は苦々しげに顔を顰め、それから壁際にへたり込んでいる髭面の男に視線を向けた。男の額には、先ほどリーゼから押し売りされた膏薬の油紙が貼り付いたままだ。怪我をした手首を押さえ、小さくなっている。
「……おい、お前だ」
主人は髭面の男を蹴飛ばさんばかりに足を踏み鳴らした。
「突っ立ってねえで床の酒を拭け。それから、その壊れた卓を裏の薪場まで運べ。今日のところはそれで手を打ってやる。二度と店で暴れるんじゃねえぞ」
男は額の膏薬を気にしながら、ばつが悪そうに立ち上がり、雑巾を取りに奥へ引っ込んだ。リーゼの稼ぎには、主人の手は伸びなかった。
ライゼンは壁際から一歩も動かず、その成り行きを視界の端に収めていた。
殴り合いに加わっていた他の客たちも、熱が引くと同時に互いの怪我の具合を確かめ合い、膏薬を分け合って席へ戻っていく。鼻血を拭う者、青あざをさする者。まだ揉めそうな気配を漂わせている男はいない。
腰の長剣の革鞘を指先でなぞった。飛んできた木椀を払ったあたりに触れたが、革に目立った傷や裂け目はついていなかった。
出入り口の木戸は半分開いており、夜の冷え込んだ空気が土間へ流れ込んでいる。暖炉の火は粗末な薪を爆ぜさせ、梁から吊るされた獣脂の皿の灯りが、こぼれた酒の染みを鈍く照らしていた。
◇
騒ぎが引いた酒場で、ライゼンは出入り口と階段の両方が見える隅の卓に腰を下ろした。
エントも背負い袋を下ろさず、向かいの長椅子に腰を掛ける。手元の木椀には手をつけず、視線だけが三、四歩離れた卓へ行ったり来たりしている。
離れた卓では、リーゼが布包みを解き、卓の上に並べた銅貨を指先で弾いて数え直していた。一枚、二枚と重ねる音が、主人が木椀を片づける音の合間に小さく響く。
エントが椅子の上で一度身じろぎし、それから意を決したように立ち上がった。
「……ちょっと、行ってきます」
ライゼンは何も言わずに視線だけを向けた。
エントはリーゼの卓の前まで行くと、両手を腰のあたりでぎこちなく合わせ、声をかけた。
「あの……さっきの、すごかったです」
リーゼは銅貨を五枚積んだところで手を止め、顔を上げた。
「何がだい」
「あんなに大勢が、あっという間に買って……口上も、あんなに滑らかに」
「あたしは歌い手だよ」
リーゼは口を尖らせ、からっとした声で返した。
「あんなのは飯の繋ぎさ。褒めるなら歌のほうを褒めな。あれは雪原の哀しい歌だったんだよ」
「あ、はい……」
エントは気圧されたように一歩引いたが、卓の端に置かれた素焼きの小壺に目を留めた。
「あの膏薬、どうやって作るんですか」
「町で干した薬草を買って、自分で煎じて練るんだよ。油と鍋がありゃ誰だって作れるさ」
「町で買うんですか。摘むんじゃなくて」
「街道の脇に生えてるような草じゃ、土埃だらけで薬になんてならないよ。それに、見分けがつかない草を摘んで客を殺しちゃ敵わないだろ」
「あ……俺、前に、血止め草と間違えて苦草を摘んだことがあって」
エントは自分の手の甲を指で擦る仕草をした。
「葉の裏に毛があって、筋が白く浮いてるやつは苦草なんですよね。裏がつるっとしてて、筋の色が葉と同じじゃないと血止めにならないって……」
リーゼはエントの手元をじっと見てから、短く吹き出した。
「へえ。小僧のくせに葉の裏まで確かめるのかい。苦草なんて牛も食わないのに、よく煮出さなかったもんだね。口が曲がるところだったじゃないか」
遠慮のない笑い声だった。突っかかってくるときのような尖った響きはない。
リーゼは卓の上に残った小壺を一つ指先で転がし、それから視線をライゼンの卓のほうへ向けた。
「おい、そっちの無口なのも、怪我くらいしときゃよかったのにね。小壺がもう一つ売れたかもしれないのにさ」
ライゼンは腰の長剣の柄頭に指を添えたまま、短く返した。
「怪我をする趣味はない」
「違いないね」
リーゼはからからと笑い、最後の銅貨を積み上げた。
ライゼンはエントの立ち位置を見ていた。背筋を伸ばしすぎず、かといって前のめりにもならず、相手の腕が届くか届かないかの間合いに立っている。苦草の話が出たときだけ、声がわずかに高くなった。
台の上には、布で包まれた五弦の楽器が置かれたままだ。主人が箒で掃き集めた木椀の破片を、ちり取りに放り込む乾いた音が響いていた。
◇
「子供はもう寝な。明日の朝、起きられなくなるよ」
主人が天井の灯りを二つ吹き消したころ、リーゼが銅貨を袋へ滑り込ませながら言った。
布袋を肩に掛け、台から楽器の包みを抱え上げると、女はそのままきしむ階段を上っていった。
ライゼンも椅子を引いて立ち上がり、エントを促して階段へ向かった。
踏み板が軋む。一段上がるごとに、板の継ぎ目からかすかな埃の匂いが立った。
二階の板張りの廊下は、階下よりも冷え込みが厳しかった。板壁の隙間から、峠の麓の夜風が細く吹き込んでいる。ライゼンは歩きながら、廊下の突き当たりにある窓の桟と、掛け金の掛かり具合を確かめた。非常の際に外へ出られる足場はない。
背後をついてくるエントが、息を潜めるようにして呟いた。
「……一擦りすれば熱を冷まし、二擦りすれば痛みを忘れ……」
さっきの口上の言い回しをなぞっている。
ライゼンは足を止めず、振り返りもせずに言った。
「足元を見ろ」
「あ、はい」
エントは口を噤み、軋む板を踏み抜かないよう慎重に足を運んだ。
階下からは、主人が壊れた卓を引きずる鈍い音が、床板を通じて低く伝わってきていた。
◇
遠くで夜明けの鐘が鳴ったころ、ライゼンは部屋を出て一階へ下りた。
冷え切った酒場の空気は、昨夜の麦酒と獣脂の燃え殻の匂いが混ざり合って澱んでいた。脚の欠けた卓が壁際に寄せられ、床板には酒を吸って黒ずんだ大きな染みが残っている。
卓に突っ伏したまま眠りこけている客が二人。奥の隅の席には、あの髭面の男が座っていた。額の油紙は新しいものに貼り直されている。男はライゼンが下りてくる足音に顔を上げたが、目が合うとすぐに視線を逸らし、手元の空の木椀を見つめた。
階段の上から、エントが下りてきた。
背負い袋の飴色の革紐をぐっと引き絞り、結び目を手元で確認している。袋の口から覗いていた油布の端を押し込み、指先で叩いた。
ライゼンは帳場の台に部屋の鍵を置いた。
起きてきた主人が鍵をつまみ上げ、欠伸を噛み殺しながらぼやく。
「まったく、峠越えの連中は気が荒くて敵わん。毎度これじゃ卓がいくらあっても足りやしねえよ」
ライゼンは短く頷くだけで、外の木戸を押した。
谷間の朝は、足元から冷気が這い上がってくるような寒さだった。土壁と瓦屋根の家並みが、薄暗い谷底に身を寄せ合うように続いている。通りの向こうで、荷運びの騾馬が白い息を吐きながら引かれていくのが見えた。鍛冶屋の煙突から、火を入れたばかりの煙が細く立ち上っている。
◇
宿の木戸が背後で開き、外套の襟を立てたリーゼが出てきた。背中には布で包んだ楽器を背負い、肩に掛けた布袋は、昨夜の稼ぎの分だけわずかに重そうに傾いている。
「なんだい」
リーゼは二人と目が合うと、悪びれもせずに言った。
「たまたま出る時刻が同じだっただけだよ。ついていく気なんてないからね」
「好きにしろ」
ライゼンは足を止めずに通りへ踏み出した。
三人で宿場の中央通りを西へ抜けていく。霜の降りそうな冷たい空気が、肌を刺すように乾いていた。
背後で、エントがリーゼの歩調に合わせるようにして口を開く。
「あの、昨日の髭の人、額に新しい紙を貼って座ってました」
「馬鹿だねえ。あんなの、一日貼っときゃ十分効くのにさ。無駄遣いする客はありがたいけどね」
「でも、薬が残ってたら勿体ないですし」
「勿体ないも何もあるかい。次の町に着くまでに使い切らせるのが商売ってもんだよ」
二人の他愛のないやり取りが、時折風に乗って耳に届く。
ライゼンは二歩ほど前を歩きながら、通りの先の見通しに目を配った。家並みが途切れ、宿場の防獣柵が切れた先で、西へ延びる街道が白く乾いて続いている。
谷間を抜ける道は緩やかな下りになっており、山の端から差し始めた朝の光が、小石の浮いた路面を鋭く照らし出していた。




