第34話
六日目の朝、岩壁の窪地を出て峠の残りを下り始めた。
急な坂を下るにつれて山風の冷たさは薄れ、乾いた埃っぽい風が下から吹き上がってくるようになった。昼過ぎ、山裾の開けた谷間に、瓦屋根と土壁の家が集まる宿場が見えてきた。
街道の両脇には、峠を越えてきたばかりの荷運びの騾馬が十頭ほど繋がれ、鼻を鳴らして飼い葉を食んでいた。革の上着の裾を泥で汚した商人や人足が往来を行き交い、鍛冶屋の煙が青く立ち上っている。
通りの中央に、酒樽の看板を出した大きな二階建ての宿があった。一階の土間からは、すでに肉を焼く油の匂いと、大声で笑う男たちの声が漏れ出していた。
帳場へ進み出ると、太った主人が板の上に木札を並べた。
「素泊まり一人、銅貨四枚だ。夕飯をつけるなら二枚増しだよ」
ライゼンは小銭袋から銅貨六枚を出し、自分の分を払った。
後ろにいたエントも雑嚢の底から巾着を取り出し、銅貨六枚を数えて板の上に置いた。残りの硬貨の重みを確かめるように巾着の口を固く締め、腰へ戻す。
その隣で、リーゼも外套の懐から銅貨を取り出し、手早く帳場へ放り投げて部屋の鍵を受け取っていた。
◇
夜になり、一階の酒場には何十人もの客がひしめき合っていた。
長机には大きな木樽から注がれた麦酒の杯が並び、峠越えを終えたばかりの荷運びや旅人たちが、卓を拳で叩いて大声で騒ぎ立てていた。獣脂の灯りの煙と肉の焼ける匂いが低く立ち込めている。
店の隅、空いた酒樽の上に板を渡した粗末な台の上に、リーゼが上がり、五本弦の撥弦楽器を抱え、指先で太い弦を弾く。
通る声だった。張り詰めた高音が酒場の天井を抜けて響き渡ったが、歌い出したのは、凍てつく雪原で行き倒れた旅人と、それを迎えに来る冷たい風の歌だった。旋律は重く、低音で引きずるように沈んでいく。
酒を煽って浮かれていた荷運びたちの卓から、苛立ったような声が飛んだ。
「おい、ねえちゃん! なんだその陰気な節回しは!」
髭面の男が杯を卓に叩きつけた。
「無事に峠を越えて酒を飲んでるってのに、縁起でもねえ歌を歌うな! もっと景気のいい酒飲みの歌を歌えねえのか!」
リーゼの指が弦の上で止まった。
足元の布の上に視線を落とす。そこには、銅貨が二枚転がっているだけだった。
リーゼは台の上から男を指差した。
「文句があるなら聴かなきゃいいだろ! こっちは山を越えてきた歌を歌ってやってんだよ!」
「誰が頼んだ! 下手くそな葬式の歌なんぞ聞かせるんじゃねえ!」
「誰が下手くそだって!? あんたのその汚い耳を削ぎ落としてやろうか!」
◇
リーゼが台から飛び降り、男の胸ぐらを掴んだ。
男が突き飛ばそうとした腕を、リーゼは身をかがめてかわし、足払いをかけた。男の身体が大きくよろめき、隣の卓へ背中から倒れ込んだ。
ガシャリと鈍い音がして、卓の上の杯が宙を舞い、褐色の麦酒が周囲の客の頭から降り注いだ。
「何すんだてめえ!」
「ぶつかってんじゃねえよ!」
酒を浴びせられた別の荷運びが立ち上がり、倒れてきた男の肩を殴りつけた。それを止めに入った連れが突き飛ばされ、背後の卓を巻き込んでひっくり返る。
怒号が重なり、酒場のあちこちで殴り合いが始まった。
木椀が壁に当たって砕け、素焼きの皿が床で割れる。帳場の奥から「店を壊すんじゃないよ!」と主人の甲高い悲鳴が上がったが、誰の耳にも届かなかった。
リーゼは最初に文句をつけてきた髭面の男の腕を取り、肩に担ぎ上げるようにして土間の敷石へ叩きつけた。男が唸り声を上げてうずくまると、その背中を膝で押さえつけ、襟首を締め上げた。
店の端の卓で、ライゼンはエントの肩を引いて壁際へ寄せた。
飛んできた空の木椀を長剣の鞘で払い落とし、足元の敷石を踏み固めて立つ。エントは身を縮め、腰の小刀の柄に手をかけたまま、飛び交う木片と怒鳴り合う男たちの間を追っていた。
◇
やがて、荒い息遣いと呻き声だけが残り、騒ぎが潮を引くように収まり始めた。
床には倒れた腰掛けと割れた食器が散らばり、あちこちで男たちが鼻血を押さえ、打った腰をさすりながら座り込んでいた。
リーゼがふいに立ち上がった。
息を一つ吐いて外套の裾を払うと、店の隅に置いてあった自分の布袋から、手のひらほどの素焼きの小壺と、油紙の包みをいくつも取り出した。
それらを両腕に抱え、再び酒樽の上の台へ飛び乗った。
台の縁に小壺を並べると、リーゼは腰に手を当て、張りのある太い声を張り上げた。
「さあさあ、寄っておいで! 痛む頭に擦りむいた脛、殴られた青あざに切れた唇! そのまま放っておいたら明日の朝には腫れ上がって、荷車も引けなくなるよ!」
男たちが呆気にとられて顔を上げた。
「町で選りすぐった薬草を、あたしが自分で煎じて練り上げた特製の膏薬だ! 打ち身にすり込めば熱が一晩で引き、擦り傷に塗れば血がピタリと止まる! 宿の薬師を呼んだら銀貨を取られるところを、今夜は一壺、銅貨三枚! 紙包みなら銅貨二枚で持って行きな!」
リーゼは床に這いつくばっていた髭面の男の襟首を掴み、無理やり立たせた。
「ほら、突っ立ってないでこの壺を向こうの旦那に渡しな! 銅貨をもらったらこっちの布の上に置きなさい!」
男は鼻を赤く腫らし、情けない顔で小壺を受け取ると、言われるがまま痛がる客たちの間を回らされた。
「おい、俺にもくれ」「血が出てるんだ、包みのほうを一つ寄越せ」
額を押さえた荷運びや、腕を擦る旅人たちが次々に立ち上がり、台の前に集まってきた。
台の足元の布の上に、銅貨がカチリ、カチリと音を立てて投げ込まれていく。五枚、十枚、二十枚と、黒ずんだ硬貨が積み上がっていった。
エントが卓の端から身を乗り出し、並べられた小壺と、台の上で腕を振るうリーゼの口元をじっと見つめていた。




