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行きがかりの英雄譚  作者: 水縒あわし
同じ方へ

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第33話



 夜明け前の冷え込みは鋭く、涸れ沢の砂地には薄い霜が降りていた。


 峠の鞍部を見上げると、重い灰色の雲が山の端をすっぽりと覆い隠し、風に乗って流れるちぎれ雲が岩肌をかすめていた。


 ライゼンが天幕を畳み、エントが背負い袋の金具を締め直している横で、十歩離れたリーゼも外套の砂を払い、五本弦の楽器を背中に括り付けていた。砂地には、昨夜の二つの火床と、一昨日の古い灰の跡が白く残っている。


 街道の坂の下から、重い車輪の軋む音と、蹄が砂利を噛む音が近づいてきた。


 二頭立ての幌馬車が二台、息を白く吹き上げながら坂を登ってきた。宿場で見かけた隊商だった。毛織りの上着を着た大柄な頭が先頭の馬車の手綱を握り、その後ろには棍棒や短槍を手にした人足たちが四人、馬車の脇を固めて歩いていた。


 頭が手綱を引き、涸れ沢の入り口で馬車を止めた。



「おい」



 太い声が砂地に響く。


 頭の視線が、荷をまとめ終えたリーゼの灰色の外套に留まった。



「まだこんなところでうろうろしてやがったのか。一人で峠を越える気か」



 リーゼは外套の襟元を結んだ麻紐を指先で整え、振り返りもせずに答えた。



「そうだよ。何か文句あるかい」


「山の上は霧で前が見えなくなるぞ。昨日の夜も野犬の群れがすぐ近くで鳴いてた。女一人で突っ込んでいくなんざ正気の沙汰じゃねえ。馬車の後ろについてこいって言ったろうが」


「だから、ついていくもんかって言ったじゃないか!」



 リーゼがくるりと向き直り、眉を釣り上げた。



「あたしはあたしの足で歩くんだよ。指図される筋合いはないね!」


「聞き分けのない女だ」



 頭が舌打ちをした。


 馬車の陰から、頭の後ろについていた若い人足が顔を出した。頬に薄い赤みが残っており、苦々しい顔でリーゼから半歩身を引いている。周りの人足たちが「またやってるぜ」「相変わらず威勢だけはいいな」と口々に冷やかしの声を上げた。


 頭は眉間を寄せ、涸れ沢の砂地で背負い袋を背負い直していたライゼンとエントに目を向けた。


 ライゼンの腰の長剣と、肩当ての擦れ具合を一瞥する。



「……おい。なら、そっちの二人と行け」



 頭が顎でライゼンたちを指した。



「連れがいりゃあ野犬も寄ってこん。一人で歩くよりはマシだろ」



 リーゼの視線がライゼンとエントに向く。


 口元をわずかに引き結び、それから頭に向き直って鼻を鳴らした。



「……あんたの荷車に貼り付くよりは、よっぽどマシだね」



 リーゼは背中の楽器の位置を直し、土手を上がって街道へ戻り、ライゼンとエントの前に立つと、外套の袖を引いて言った。



「おい、あんたたち。ついていくんじゃないからね。同じ方へ歩くだけだからね」



 ライゼンは長剣の鞘を左手で押さえ、短く返した。



「好きにしろ」



 エントは背負い袋の胸紐を両手で握り、リーゼの顔と足元を交互に見ながら、微かに口元を引き締めた。


◇


 三人は街道を踏み出し、峠道へ入る。


 荷馬車は勾配がきつくなるにつれて速度が落ち、歩く三人のほうが先に坂を登り詰めていった。馬車の車輪の軋みと人足たちの罵り声は、やがて岩肌を吹き抜ける風の音に掻き消されて聞こえなくなった。


 道はつづら折りに折れ曲がり、赤茶けた土は消えて、角の尖った灰色の岩盤が剥き出しになっていた。


 高度が上がるにつれて空気の冷たさが増し、首筋を刺すような風が吹きつけてくる。


 やがて、前方の視界が白い靄に呑まれ始めた。


 霧は急速に濃くなり、二十歩先の岩の輪郭すらぼやけて消えていく。指先がかじかみ、吐き出す息が白く尾を引いて流れた。


 風に乗って、細かい雪の粒がパラパラと革鎧の表面を叩き始めた。


 ライゼンは足元の岩の裂け目と、靴底が滑らない砂利の溜まり場を選んで歩を進めた。霧の奥の道筋を見据え、傾斜の変わり目を拾っていく。


 リーゼは一定の歩調を保ち、二人の斜め前を歩いたり、足場の悪い岩場では少し後ろに下がったりしながら、遅れることなくついてきていた。呼吸は荒くなっていたが、歩幅が乱れる気配はなかった。


 エントが背負い袋を一度揺らし、リーゼの背中に声をかけた。



「……あの、リーゼさん、楽器、重くないですか」


「重いよ」



 リーゼは前を向いたまま、吐く息を白く弾ませて答えた。



「重いけど、置いていくわけにはいかないだろ。これがあたしの飯の種なんだからさ」


「そうですよね……」



 エントは頷き、自分の背負い袋の肩紐を両手で握り直した。それから靴先で尖った小石を避けて、歩調を合わせた。


 風の止み間に、遠くの尾根の向こうから、掠れた野犬の声が一つ届いたが、それ以上近づいてくる気配はなかった。


◇


 峠道の中ほど、岩壁が大きく抉れて風の当たらない窪みに、二台の幌馬車が並んで止まっていた。


 霧が濃くなりすぎて、馬の足元が見えなくなっていた。頭は、今日はここまでだと言って、人足たちに車輪の楔を噛ませ、馬の背に毛布を掛けさせた。


 焚き火に鍋を掛け、干し肉の切れ端を放り込む。人足たちが火を囲んで腰を下ろすと、頬にまだ赤みの残る若い人足が、鍋をかき回しながら口を尖らせた。



「頭。なんであんな女に構うんですか」


「何がだ」


「あの吟遊詩人ですよ。宿場でもさっきも、ついてこい、ついてこいって。俺なんか、ひっぱたかれ損ですよ」



 周りの人足が笑った。頭は鼻を鳴らし、火の向こうの霧を睨んだ。



「歌なんざ、どうでもいい」


「へ?」


「あの女の歌は、聞いたって腹の足しにもならねえ。北の峠の雪だの、故郷の春だの、辛気臭えのばっかりだ」



 頭は鍋の中の干し肉をすくい、木椀に移した。



「去年の秋、南の市で、あの女が薬を売ってるのを見た」



 年かさの人足が、椀を持つ手を止めた。



「薬、ですか」


「傷薬だの、腹下しの煎じ薬だのをな。台の上に立って口上を張りやがった。歌のときは誰も足を止めねえのに、口上を始めたら、あっという間に人垣だ。持ってた分は昼前に売り切れて、隣の店の親父まで、あの女に自分の品を売ってくれって頼みに来てた」



 頭は椀の汁をすすり、熱さに顔をしかめた。



「ああいう口が一人いりゃあ、宿場ごとに荷が捌ける。うちの荷馬車の前に立たせて、品を売らせりゃいい。分け前を払っても、お釣りが来る」


「それで、峠を越えさせてやって、恩を売ろうと」


「そういうことだ」



 若い人足が頬をさすった。



「恩を売る前に、俺が殴られましたけどね」



 どっと笑いが起きた。頭は笑わずに、椀を膝に置いた。



「あの二人連れのほうへやったのは、まあ、しょうがねえ。峠で野犬の餌になられちゃ元も子もねえからな」


「諦めるんですか」


「誰が諦めるか」



 頭は霧の向こう、峠の頂のほうへ顎をしゃくった。



「この先は一本道だ。次の宿場で、また会う」



◇



 峠の頂の鞍部を越えると、下り勾配が始まった。


 吹きつけていた横風が岩壁に遮られて弱まり、足元の霧が徐々に晴れていった。西の空の底が赤黒く濁り、夕闇が山肌を覆い始めるころ、街道の右手、大きくせり出した巨岩の窪みに平らな土の地面を見つけた。


 ライゼンが足を止め、背負い袋を下ろし、風の当たらない窪地の奥に油布を広げ、エントが集めてきた枯れ枝で火床を組む。


 リーゼは、二人の火床から五歩ほど離れた岩肌の陰に荷を下ろした。



「ここまで下りりゃ、風も少しはマシだね」



 リーゼが言いながら小枝を集め、慣れた手つきで自分の火を起こした。昨夜よりも近い距離に、二つの焚き火が赤く並んだ。


 ライゼンは小鍋に白豆と塩漬け肉を放り込み、火にかけた。煮上がった汁を二人で分け合ってすする横で、リーゼは自分の布袋から硬いパンと干し肉を取り出し、奥歯で噛み砕いていた。



「あんたたちのその汁、いつ見ても温かそうで羨ましいね」


「豆と肉を煮ただけだ」



 ライゼンが答えると、リーゼは苦笑して水筒の水を一口飲んだ。


 食べ終えたエントが火の前に座り直し、前半の見張りに就く。


 ライゼンは天幕の中へ身を滑り込ませた。


 五歩先の火のそばで、リーゼは外套を深く頭から被り、五本弦の楽器を両腕でしっかりと抱え込んで、岩肌に身を預けて丸くなっていた。


 谷の底を吹き抜ける風が、岩の隙間を低く鳴らし、二つの赤い火の粉が暗闇の中へ細く舞い上がっていた。



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