第32話
三日目の朝、白く冷えた靄が窪地を埋める中、天幕を畳んで街道へ戻った。
道は次第に上り勾配になり、左右の丘から草の緑が失われて、赤茶けた土とひび割れた岩肌が露出する荒れ地へと変わっていった。街道沿いに人家はなく、吹き抜ける西風が小石を転がす音だけが乾いて響いている。前方の視界の先では、青黒い山並みが大きく競り上がり、その切れ目にある鞍部――峠のあたりに、重い灰色の雲が低く垂れ込めていた。
ライゼンが一定の速度で足を運んでいると、五十歩ほど先の街道の真ん中に、歩く人影が見えた。
煤けた灰色の外套を羽織り、背中に布で包んだ楽器を背負った女だった。
破れた右袖の端から覗く腕を大きく振り、やや前のめりの姿勢で歩いている。背中の荷は小さく、肩から下げた薄い布袋が腰のあたりで小刻みに揺れている。
二人が追いつき、横を通り過ぎるとき、女はちらりと視線を向けたが、足を止めることも口を開くこともなかった。外套の胸元は、骨ボタンが二つ欠けたまま麻紐で雑に結び合わされていた。
正午近く、ライゼンとエントが道端の平らな岩の陰で堅パンを齧っていると、女が追いついてきて、二人の前を一定の足取りで通り過ぎていった。午後の日差しが傾き始めたころ、再び二人が女を追い越した。互いに声を交わすことはなく、靴底が小石を踏み鳴らす音だけがすれ違いざまに重なった。
◇
日が落ちる少し前、街道の左手、風を遮るように湾曲した岩壁の根元に野営地を決めた。
エントが背負い袋を下ろし、枯れ枝を集めて火床を組む。
火種から煙が立ち上り、パチと最初の炎が爆ぜたころ、街道の轍を歩いてきた女の足音が止まった。
女は二人の野営地を一瞥すると、声をかけるでもなく、街道を挟んで三十歩ほど離れた反対側の低木の脇へと入っていった。岩の影に荷を下ろすと、周囲から素早く小枝を拾い集め、手慣れた手つきで一人分の火を焚き始めた。
二つの火の間に、冷たい夜風が通り抜けていく。
ライゼンが煮出した白豆と塩漬け肉の小鍋を二人で分け合い、食べ終えて鍋を拭ったころには、荒れ地は深い闇に沈んでいた。
風の音の合間に、北の尾根のほうから、遠吠えが低く響く。
野犬の群れだろうか。尾根二つ向こう、距離は十分にあるが、風に乗って掠れた声が途切れ途切れに届いてくる。
エントが火床の前に座り直しながら、街道の向こうへ視線を向けた。
すこし先の暗がりで、女の焚き火が小さく赤く揺れている。女は火の前に膝を抱えて座り、時折手元の小枝を火にくべていたが、こちらを見る様子はなかった。エントは首を巡らせ、手元の薪を整えると、また視線を向こうの火へと滑らせていた。
◇
四日目の昼前、傾斜を増した荒れ地の街道を歩いていた。
前方を歩いていた女の足取りがわずかに緩み、二人が追いついたところで、女がくるりと足を止めて振り返った。
「あんたたち、昨日から同じ道だね」
からっとした、太い声だった。
外套の襟元を片手で押さえ、女は二人の荷と身なりに視線を走らせた。
「どこまで行くんだい」
ライゼンが足を止めると、後ろにいたエントが半歩前に出た。だが、女の顔を正面から見ると言葉に詰まり、視線を女の肩口あたりへ泳がせながら答えた。
「あ……ええと、西の……城のある町です」
「やっぱりかい。あたしもさ」
女は屈託なく白い歯を見せた。
「大きな町なら人も多いし、金払いのいい客もいるだろ。歌うにはもってこいさ。あたしはリーゼ。見ての通り吟遊詩人だよ」
「あ、俺はエントです。木札の駆け出しで……こっちはライゼンさんです」
「エントにライゼンね」
リーゼはライゼンの腰の長剣と、肩当ての擦れ具合を一瞥した。
「手練れの護衛連れかい。心強いこったね」
ライゼンは短く返した。
「護衛じゃない」
「ふーん、まあ何でもいいさ」
リーゼは背中の楽器の結び目を肩の上で揺らし、前を向き直した。
「街道は一本道だし、また会うかもね」
それだけ言うと、リーゼは自分の歩調に戻り、長い脚を大股に運んで前へ歩き出した。
エントはリーゼの背中を見送りながら、何か言いたそうに口を少し開けたが、結局何も言わずに自分の背負い袋の紐を締め直した。
◇
夕暮れ時、峠の登り口の手前にある涸れ沢の跡で足を止める。
土手が風を塞ぎ、中央の砂地に平らな野営の場所があった。
ライゼンが油布を広げ、エントが火床を組み終えたころ、街道の上から砂利を踏む足音が近づいてきた。
土手の縁に立ったリーゼが、見下ろして声をかけてきた。
「そこ、風が当たらなくていいね。あたしも端っこ借りていいかい」
ライゼンは作業の手を止めずに言った。
「好きにしろ」
「助かるよ」
リーゼは沢の斜面を下りてくると、二人の火床から十歩ほど離れた土手の窪みに荷を下ろした。
昨晩と違い、互いの顔の輪郭が判別できる距離だった。
リーゼは手早く石を並べて自分の火を起こし、布袋から硬い干し肉と干し葡萄の小袋を取り出して口に運んだ。
「あんたたちの煮込み、いい匂いがするね」
火の向こうからリーゼが声を投げてきた。
「塩漬け肉と豆だ」
ライゼンが短く答えると、リーゼは干し肉を噛み砕きながら肩をすくめた。
「温かい汁物はいいねえ。あたしゃ乾物ばっかりで顎が疲れてきたよ」
エントが木匙を握ったまま、ちらりとリーゼの手元を見て、それから自分の小鍋の底をすくった。
「……あの、パン、固くないですか」
「慣れてるさ。腹に入りゃ同じだよ」
リーゼはそう言って水筒の水を一口飲み、火の脇に背中を預けた。
食事が終わると、いつものようにエントが前半の見張りに座り、ライゼンは天幕の中へ入った。
夜半を過ぎ、エントの合図でライゼンが外へ出た。
冷え込みは昨日よりも鋭く、空を覆う雲の切れ間から星がわずかに覗いていた。
十歩離れた場所で、リーゼは外套を頭から被り、土手に背を預けて丸くなって寝息を立てていた。手元には五本弦の楽器がしっかりと抱き込まれている。
ライゼンは自分の火床の前に腰を下ろし、細い薪を一本、熾火の上へ置いた。
峠のほうから吹き下りてくる風が、涸れ沢の枯れ草を低く揺らしていた。




