第31話
フルトの分かれ道を西へ折れてしばらく歩くと、背後の川音が少しずつ遠のいていった。
振り返れば、灰色の石壁と角型の見張り塔が、平野の向こうにまだ低く見えている。川湊から立ち上る煙が、朝の薄い空に何筋も細く伸びていた。
ライゼンは振り返らなかった。
街道の土質は、分かれ道を境に変わっていた。
白く乾いた土に拳大の小石が敷き詰められ、踏み締めるたびに靴底がジャリと固い音を立てた。川沿いの道のような深い轍はなく、荷車の通った跡も浅い。左右に広がる枯れ草の丘を縫うようにして、道は緩やかな起伏を繰り返しながら西へ延びている。遠くの地平には、青黒い山並みが薄い靄の底に幾重にも重なって霞んでいた。
風も変わった。
川べりの湿った重さが抜け、乾いた草の匂いを運ぶ冷たい風が、丘の向こうから吹き下りてくる。
ライゼンは一定の歩幅を崩さずに進んでいた。
背後から、規則正しい擦れ音が続いていた。
エントは古道具屋で買った麻と牛革の背負い袋を背負い、胸元の革紐を指で摘みながら歩いていた。天蓋の下に油布を滑り込ませた袋の底は、腰骨の少し上で安定し、歩行に合わせて左右に小さく揺れている。抱えて運んでいたときのように腕を塞がれることもなく、足の運びも軽かった。
「ライゼンさん」
しばらくして、背後から声がかかった。
「城って、どれくらい大きいんですかね。フルトの壁より高いのかな」
「知らん」
「七日か八日って言ってましたよね。宿場が三つ。ってことは、二日か三日ごとに宿場があるのかな」
「着けば分かる」
「ですよね」
エントは一人で頷き、それからまた黙って歩いた。少しして、また口を開く。
「城のある町なら、ギルドも大きいですよね。依頼もたくさんあって……あと一本、そこで入るといいんですけど」
ライゼンは答えなかった。エントもそれ以上は続けず、胸元の革紐を指で摘み直した。
太陽が南の空の高みに昇ったころ、街道の脇に平たい岩が一つ転がっている場所で、足を止めた。
ライゼンが背負い袋を下ろすと、エントも肩紐から腕を抜き、袋を岩の陰に下ろした。
エントは水筒の栓を抜いて一口含み、それから背負い袋の肩紐を両手で引いて、結び目を確かめた。緩みかけていた片方を一度解き、長さを揃えて結び直す。
ライゼンはその手元を一瞥し、背負い袋から堅パンを出して二つに割った。片方をエントの膝の前へ置く。
「ありがとうございます」
エントは両手で受け取り、乾いた断面を奥歯で齧った。
風が枯れ草を撫でていき、丘の斜面に白い波を走らせた。遠くの空を、渡りの鳥の群れが黒い点になって南へ流れていく。
ライゼンはパンの最後のひとかけを口に放り込み、水筒の水で流し込んで立ち上がった。
エントもすぐに袋を背負い直した。今度は、胸元の革紐を摘まずに歩き出した。
太陽が西の空の低みへ落ちるころ、街道の脇の浅い窪地に野営地を決めた。
エントが背負い袋を下ろし、天蓋の金具を外して油布を取り出す。ライゼンが木杭を打ち込んで天幕を張り、その間にエントが窪地の外から乾いた小枝を拾い集めた。
火打ち石と鉄片を打ち合わせ、立ち上がった火種に細い枝を重ねる。
水筒の水を小鍋に注ぎ、ライゼンが背負い袋から出した白豆と塩漬け肉を煮込んで分けた。夕方から深夜まではエントが外に座り、交代の頃合いにライゼンが外へ出て、明け方まで火の番をした。互いに無駄な口を開くこともなく、いつもの手順通りに一日目が過ぎていった。
◇
二日目、太陽が真上を過ぎて影がわずかに東へ伸び始めたころ、街道の先に集落の輪郭が現れた。
西へ向かう街道の一つ目の宿場だった。
土塁や石壁はなく、街道を挟んで板壁と塗り壁の平屋が二十軒ほど並んでいる。フルトと比べれば規模は小さかったが、荷を積んだ幌馬車が三台、宿の軒先に並んで馬を休ませており、水汲み桶を抱えた人足や、埃まみれの外套を着た商人たちが行き交っていく。
街道が宿場の中央を貫く通りへと入ると、通りの奥から怒鳴り声が響いてきた。
二頭立ての荷馬車の脇に、人だかりができかけていた。
輪の中心で、毛織りの分厚い上着を着た大柄な男と、煤けた灰色の外套を羽織った女が対峙していた。男は隊商の頭らしく、腰に太い短剣を佩き、腕組みをして女を見下ろしている。女の背中には、布で包まれた五本弦の撥弦楽器が括り付けられていた。
「一人でこの先の峠を越える気か!」
男の太い声が、板壁に反響した。
「次の宿場までは人家もねえ荒れ地だぞ。女の一人歩きなんざ、野犬の群れか追い剥ぎの餌になりに行くだけだ。うちの荷馬車の後ろについてこいって言ってんだ!」
「誰がついていくもんか!」
女は顎を突き出し、男の鼻先に指を突きつけた。
「あたしはずっと一人で旅をしてきたんだよ! どこをどう歩こうがあたしの勝手だ! 頼みもしないのに偉そうに指図するんじゃないよ、余計なお世話だ!」
「聞き分けのないやつだな、親切で言ってやってるのが分からんのか!」
「親切だか何だか知らないが、押し売りはお断りだよ!」
女が唾を飛ばして言い返す。
見かねたように、荷車の陰から別の若い人足が割って入った。
「おいおい、姉ちゃん、落ち着けよ。頭も心配して――」
人足が女の肩に手を伸ばした瞬間、女の右手が跳ねた。
「触るんじゃないよ!」
平手が人足の頬を鋭く打った。
人足がのけぞり、女がさらに踏み込もうとしたとき、女の羽織っていた外套の袖が荷車の留め金具に引っかかった。
勢い余った女の身体が引っ張られ、ビリリと乾いた布の裂ける音が響いた。
金具に袖を引き裂かれた外套の合わせ目が開き、胸元の骨ボタンが二つ、弾け飛んで石畳を跳ねた。襟元がはだけ、下に着ていた麻の肌着がのぞいている。
女は外套の前を片手で無造作に掴んで押さえ、もう片方の手で、殴りつけた人足の胸ぐらへ掴みかかった。
「誰が手を出していいって言った! 文句があるなら面と向かって言ってみな!」
「うわっ、おい、やめろ!」
「喧嘩だ!」「誰か止めろ!」
周囲を取り囲んでいた商人や人足たちが一斉にざわめき、割って入ろうと腕を伸ばす。
ライゼンは通りの端で足を止め、荷馬車の前輪の脇に立ったまま、その様子を見ていた。
女の顔立ちと、背中の楽器を包む布の結び目を一瞥する。フルトの広場で木樽の上に板を渡し、客と言い争っていた女だった。女の視線は掴みかかった男の胸元に注がれており、通りの端に立つこちらには気づいていなかった。
隣に立つエントは目を大きく見開き、口を半開きにしたまま固まっていた。
ライゼンは長剣の鞘を左手で軽く押さえ、背負い袋の位置を直した。
「行くぞ」
短く声をかけ、人だかりの背後を避けるようにして、そのまま通りをまっすぐ歩き抜けた。エントは弾かれたように足を動かし、小走りで後を追ってきた。
◇
宿場の中には入らず、西の出口を抜けてしばらく進んだあたりで、街道を外れた。
低い土手の陰に、雨水で削られた平らな窪地があった。北からの風が遮られ、地面の土も固く締まっている。
「ここで張る」
ライゼンが荷を下ろすと、エントも背負い袋を下ろした。
エントの動きはぎこちなかった。背負い袋の留め金を外す指先が滑り、紐を解くのに手間取っている。宿場を出てから口数が途切れ、ライゼンと視線を合わせようとしなかった。耳の先が、まだ赤かった。
「……あの、ライゼンさん」
エントが背負い袋から天幕の油布を引き出し、地面に置いた。
「何だ」
「俺、先に見張りに立ちます。火の番もやっておきますから、ライゼンさんは先に寝てください」
早口で視線は足元の赤土に落とされたままだった。
ライゼンはエントの手元を一瞥した。
「火を絶やすな」
「はい、絶やしません」
エントは小走りで窪地の外へ向かい、日当たりのいい草むらから枯れ枝を抱えて戻ってきた。手早く組んだ火床に火打ち石を打ち、細い火種を立ち上げると、火の前に腰を下ろして薪をくべ始めた。
ライゼンは油布を張り、一人分の天幕を組み上げた。
小鍋に水を張り、白豆と塩漬け肉を入れて火にかけた。二人で黙って木匙を動かし、汁を飲み干す。
食べ終えた鍋をエントが水筒の残りで洗い、伏せて置いた。
ライゼンは長剣を手に取り、天幕の低い屋根の下へと身を滑り込ませた。
敷布の上に横たわると、外からパチと薪が爆ぜる音がした。
土手を越えて吹き抜ける風が、枯れ草の葉をカサカサと揺らす音が、夜の冷気の中に落ちていた。




