第29話
大水蛇を仕留めた翌朝、ギルドの大広間の長机で、ライゼンはブルーノに向き合った。
「西の採掘坑道の警備、一度だけ加わる」
ブルーノが太い腕を組み、口角を持ち上げた。
「乗るか。七日間の夜間警備だ。坑口の資材と鉱石の盗難除けだな。手当は銀貨四十枚、四人で割って一人十枚だ。……あの小僧はどうする」
「置いていく」
ライゼンが言うと、長机の横で雑嚢を抱えていたエントが、すぐに頭を下げた。
「俺、昼間の依頼を受けますから大丈夫です。下水の泥浚いもまだ残ってますし、船着き場の荷揚げも人手を募集してましたから」
「そうかい」
フェリクスが短槍の穂先を布で拭いながら笑った。
「夜の山裾は冷えるからな。駆け出しは町の中で泥にまみれてたほうが稼ぎになる」
話はその場でまとまり、ライゼンは夜の出役に備えて宿へ戻った。
◇
坑道の警備は、町の西門を出て、緩やかな傾斜の続く西の山裾へ登った場所で行われた。
赤茶けた山肌に穿たれた採掘坑道の入り口には、頑丈な丸太の枠が組まれ、鉱石を運ぶ手押し車の木の軌道が黒い穴の奥へと消えていた。坑口の前には掘り出された粗鉱の山と、道具を収めた板張りの詰所が並んでいる。
見張りは日没から夜明けまで、四人が交代で立った。
詰所の前に組んだ焚き火の脇にブルーノが大盾を立てて腰を下ろし、ヨルクが坑口の上の岩場に陣取って弓を膝に置いた。フェリクスは短槍を手に敷地の外周を歩き、ライゼンは西側の林に面した資材置き場の角に立った。
大きな騒ぎは起きなかった。
夜半を過ぎると山の上から凍てつく風が吹き下ろし、坑道の奥から湿った冷気が絶え間なく吐き出されてくる。遠くの雑木林で枯れ枝を踏み折る野犬の足音や、頭上の岩肌から小石が転がり落ちる乾いた音が闇の底から響く程度だった。不審な人影が近づく気配はなく、獣が焚き火の煙を嫌って遠巻きに鼻を鳴らすだけで、夜は過ぎていった。
朝、東の空が白むころに鉱山の坑夫たちが登ってくると、交代を済ませて町へ戻った。
宿へ戻ると、エントはすでに起きて雑嚢を肩に掛け、部屋を出ていくところだった。
「お帰りなさい、ライゼンさん」
「ああ」
「行ってきます」
「足元に気をつけろ」
それだけ言葉を交わし、ライゼンは薄い寝藁の上に倒れ込んで昼過ぎまで眠った。夕暮れの鐘が鳴るころに身支度を整えて部屋を出ると、泥にまみれたエントが宿へ戻ってきて、井戸端ですれ違う。七日の間、二人が顔を合わせるのはそのわずかな時間だけだった。
◇
四日目の夕方、西門へ向かって大通りを歩いていたときだった。
中央市場を抜けた先の広場の片隅、荷車が何台か留め置かれた板壁の前に、人だかりができかけていた。
二つの木樽の上に厚い板を渡しただけの粗末な台があり、その上に二十代半ばほどの女が一人立っていた。
煤けた灰色の外套を羽織り、抱えた木製の撥弦楽器には、弦が五本張られていた。
女は顎を上げ、通りを行き交う人々の頭上を見据えるようにして喉を鳴らしていた。
北の峠に降る雪は重く
峰を越える旅人の靴底を凍らせる
谷の底の鍛冶屋の煙は細く
打つ槌の音も風にかき消えて
ただ遠き故郷の春ばかりを想う
声は太く、路地の奥までよく通っていた。楽器の爪弾きも確かで、指が弦を弾くたびに乾いた音が響いていたが、立ち止まる人足や商人の足は遅くならなかった。台の足元、泥のついた敷布の上には、黒ずんだ銅貨が一枚転がっているだけだった。
通りかかった荷車引きの男が、空になった木桶を担ぎ直しながら鼻を鳴らした。
「おい、ねえちゃん。もっと景気のいい歌を歌えよ。しけた雪の話なんざ、一日の終わりに聞きたかねえよ」
女の指が、ピタリと弦の上で止まった。
びぃん、と鈍い不協和音が鳴り、女は台の上から男を睨みつけた。
「文句があるなら、銅貨の一枚でも放り込んでから言いな!」
「ああん? 誰がそんな辛気臭え歌に金を払うかよ。鍛冶屋の煙だの故郷の春だの、婆さんの子守唄のほうがまだ景気がいいぜ」
男が肩を揺すって笑うと、通りかかった人足が二人、足を止めて吹き出した。
女の目つきが変わった。
楽器を板の上に置くより早く、女は台の端を蹴って飛び降りた。外套の裾が翻り、着地した靴底が石畳の泥を跳ね上げる。
「もう一遍言ってみな」
「何度でも言ってやるよ、辛気臭えってな」
女が男の胸ぐらを掴んだ。
頭一つ背の高い男が、面食らったように半歩下がる。女はそのまま男の襟を引き寄せ、顔を突き合わせるようにして怒鳴った。
「あんたの耳が腐ってんだよ! 雪の峠を越えたこともない奴に、この歌の何が分かるってんだい!」
「離せ、この――」
男が女の手首を払いのけ、肩で突き飛ばした。女はよろめいたが倒れず、足元に転がっていた男の空の木桶を、力任せに蹴り返した。
木桶が男の脛に当たって乾いた音を立て、石畳の上を転がっていく。
「痛ってえな、何しやがる!」
「先に手を出したのはそっちだろ!」
気がつけば、広場の片隅に人垣ができていた。
歌の間には一人も足を止めなかった人足や商人、買い物籠を提げた女たち、駆け寄ってきた子供たちが、二人の周りをぐるりと囲んで首を伸ばしている。
「いいぞ、ねえちゃん!」
「やっちまえ!」
誰かが囃し立て、どっと笑いが起きた。泥のついた敷布の上に、銅貨が一枚、また一枚と放り込まれていく。
男が拳を握って振りかぶったところで、人垣の後ろから鋭い声が飛んだ。
「何をやってる!」
鎖帷子を着けた巡回の衛兵が二人、人垣を肩で割って入ってきた。一人が男の振り上げた腕を掴み、もう一人が女の外套の襟首を後ろから引き戻す。
「広場で騒ぎを起こすなら、詰所で一晩頭を冷やさせるぞ。どっちだ、先に手を出したのは」
「こいつだよ!」「こいつだ!」
二人が同時に互いを指差し、人垣からまた笑いが起きるが、衛兵は顔をしかめ、男の背中を通りの向こうへ押しやった。
「さっさと行け。お前もだ、女。台を畳むか、静かに歌うか、どっちかにしろ」
男は悪態をつきながら木桶を拾って去り、人垣は笑い声を残してほどけていった。
女は衛兵の手を振り払い、乱れた外套の襟を直した。台の上に戻ると、置き去りにしていた楽器を拾い上げ、足元の敷布を見下ろした。
布の上には、黒ずんだ銅貨が七、八枚、散らばっていた。
女はそれを睨みつけ、楽器の棹を握ったまま、しばらく動かなかった。
ライゼンは通りの端で足を止め、敷布の上の銅貨の数を一瞥した。
何も言わず、そのまま西門へ向かって歩き出した。
◇
六日目の朝、坑道の警備を終えて宿へ戻ると、エントが部屋の中で待っていた。
まだ出かけていなかった。部屋の隅の木机の前に立ち、何かを丹念に磨いていたエントが、足音に気づいて勢いよく振り返った。
「ライゼンさん!」
エントは首から下げていた白木の木札を外し、両手で差し出してきた。
「これ、見てください!」
ライゼンが木札を受け取ると、表面の白木の上に、新しく二本目の筋が刻まれていた。
一本目の隣に、細い鉄筆で削り取ったような溝がまっすぐに通り、その下には実地講習の検印が押されている。削られたばかりの木肌が、まだ白く乾いていた。
「昨日、下水暗渠の清掃が終わって窓口で半券を出したとき、石板の上に札を置いたんです。そしたら石板が光って、ジュッて音がして、二本目が入りました! 受付の人が、依頼の数が規定の数に届いたからだって言ってました」
「そうか」
札を返すと、エントは嬉しそうに胸元へ戻し、それから足元の床を指差した。
寝藁の脇に、見慣れない荷物が置かれていた。
厚手の麻布と牛革を縫い合わせた、大人の胴ほどの大きさがある背負い袋だった。
肩紐の革は使い込まれて飴色に変色し、角の金具には細かい傷が無数についていたが、布地の破れはなく、底の革は二重に補強されて太い麻糸で固く縫い止められていた。
「古道具屋で買ってきたんです」
エントが背負い袋の留め金を指先で弾いた。
「大水蛇のときにもらった手当と、この数日の日当を合わせて、銅貨三十枚で買いました。金具が歪んでないやつを、棚の奥から自分で探したんです。これで、天幕の油布も自分で背負えます!」
エントは荷袋の口紐を締め直し、ライゼンを見上げた。
「それで、ギルドの窓口で受付の人に訊いてみたんです。石札の試験って、どうやったら受けられるのかって」
「何と言っていた」
「木札の筋が三本になったら、試験の申請ができるって言われました。三本になるまで依頼をこなせば、誰でも受けられるそうです。あと一本です!」
エントは両手を腰に当て、息を吸い込んだ。
ライゼンは背負い袋の合わせ目と、太い留め鋲の並びを一瞥した。
「紐が緩んでいる。背負う前に引き直せ」
「あ、はい!」
エントはすぐに屈み込み、肩紐の結び目を解いて長さを整え始めた。
◇
七日目の朝、山裾の坑道で最後の交代を終えた。
坑夫の頭領から完了の割符を受け取り、四人でフルトのギルドの大広間へ戻った。
受託窓口のカウンターに割符を出すと、係の男が帳簿に太い受領印を押し、布袋から銀貨を四十枚、板の上に並べた。
ブルーノが太い指で十枚ずつの山を四つ作り、その一つをライゼンへ押し出した。
「ほらよ、ライゼン。きっちり十枚だ」
ライゼンは銀貨十枚を受け取り、腰の小銭袋へ流し込んだ。硬貨が袋の底で鈍い音を立てて重なる。
「助かったぜ」
ブルーノが太い手でライゼンの肩を一度叩いた。
「なあ、ライゼン。もう一度言うが、俺たちと組まねえか。この町なら仕事は切れねえ」
ライゼンは銀貨の袋の口を締め、短く頷いただけだった。
ブルーノはそれ以上待たず、太い手でライゼンの肩を一度叩いた。
「返事はいらねえ。気が向いたら、掲示板の前で待ってるぜ」
「俺も槍の柄を直したしな」
フェリクスが新しく削り直した短槍を軽く掲げて笑った。
ヨルクが無言で短く顎を引いた。
ライゼンは三人に短く頷き、踵を返して宿へ向かう通りへ踏み出した。朝の冷たい風が川湊から吹き抜け、石畳の埃を舞い上げていた。




