第28.5話
秋が深まり、街道から吹き込む風が石畳の落ち葉を乾いた音を立てて転がしていた。
堀にかかる跳ね橋の板は冷たく乾き、昼時の鐘が鳴り響くころには、ギルドの正面扉を出入りする人足や商人の息が白く濁り始めていた。
樫の扉を押して土間に入ってきたのは、前掛けの腹を白く汚した痩せた男だった。東門の近くにある穀物問屋の番頭だった。
男は首をすくめて襟元をかき合わせ、受付の木製カウンターへ早足で進み出た。
格子窓の奥では、眼鏡を鼻梁に乗せた初老の受付役が、羊皮紙の束をめくっていた。
「頼みがあるんだが」
番頭がカウンターに両手をついた。
「ライゼンさんを指名で頼みたい。依頼書を作ってくれ」
受付役の手が止まった。眼鏡の奥の目を瞬かせ、番頭の顔を見る。
「……ライゼンさんですか」
「ああ。秋口にうちの三番倉庫の鼠退治をやってもらったんだが、手際が良くてな。梁の上の巣も綺麗に落としてくれたし、床板の隙間もきっちり塞いでくれた。おかげであれから一匹も入ってこねえ。隣の二番倉庫の床下に少し気配があるんで、またライゼンさんにお願いしたいんだ」
「ライゼンさんは、もうこの町にはいませんよ」
受付役はあっさりと首を横に振った。
「いませんって……遠出の護衛か何かにでも出てるのかい? いつ戻るんだ」
「戻りません。ひと月ほど前に町を出られました」
「出た?」
「ええ。籍は残したまま、町を出られました。行き先も聞いていません」
番頭は口を半開きにし、眉をひそめた。
「そうなのかい……。弱ったな。なら、あの〈五本指〉の他の人は空いてないのか。ハンスさんとか、ギュンターさんとか」
「〈五本指〉は解散しましたよ」
「解散?」
「オットーさんは大工の親方のところに入られましたし、ギュンターさんも食堂に入られました。ベルタさんもハンスさんも、もうパーティでの依頼は受けていません」
番頭が何か言い返そうとしたとき、背後から足音が近づいてきた。
「ライゼンなら、ひと月前の朝に出ていったよ」
太い声だった。
振り返ると、仕立てのいい灰色の毛織りの上着を着た大柄な男が立っていた。ハンスだった。剃り跡の滑らかな頬を緩め、両手を上着の懐に突っ込んでいる。
「ハンスさん」
番頭が目を丸くした。
「解散したって、本当かい」
「ああ、本当だ」
ハンスは受付のカウンターの角に片手を置いた。
「ライゼンは南の門から出ていった。跳ね橋を渡って、南へ向かったよ」
「南へ……そんな、急にいなくなっちまうなんてな。困ったな、手練れに頼みたかったんだが」
「倉庫の鼠くらい、掲示板に出せば若いのがいくらでも飛びつく」
ハンスが掲示板の下段を顎でしゃくった。
「道具を持たせて、隙間を板で塞がせりゃ済む話だ。日当を数枚弾んでやれば、駆け出しの木札が喜んで半日で片づける」
受付役が帳簿を引き寄せ、ペンをインクに浸した。
「出しておきましょうか。東門の倉庫ですね」
「……頼むよ」
番頭は肩を落とし、受付役が差し出した用紙に署名をした。
ハンスは番頭の背中を軽く叩き、自分の用向きだった書類を受付役の脇の小箱に滑り込ませると、踵を返して扉へ向かった。
◇
夜になり、鍛冶屋通りの裏手の路地に、湯気と脂の匂いが立ち込めていた。
食堂の引き戸を開けると、中には長机が三列並び、仕事を終えた大工や荷車引きが十人ほど席を埋めていた。陶器のジョッキがぶつかり合う音と、肉を炒める乾いた音が響いている。
厨房の奥から、白い前掛けをしたギュンターが出てきた。
袖を肘までまくり上げ、両手に平皿を二枚載せている。
「へい、焼き蕪と酢漬けキャベツだ」
一番奥の四人掛けの卓に皿が置かれた。
卓を囲んでいたのは、ハンス、ベルタ、オットーだった。
オットーは大工の前掛けを外し、布で首筋を拭ったばかりの様子で、手にはすでに麦酒のジョッキを握っていた。ベルタは刺繍の入った巾着を膝の上に置き、濃紺の上着の襟元をくつろがせている。
厨房から、女主人のヘレナが大きな深皿を運んできた。
「はい、羊肉と白豆の煮込み。熱いうちに食べなよ」
「いつもすまないね、ヘレナ」
ベルタが笑って木匙を手に取った。
ヘレナはギュンターの肩を軽く小突き、「奥の空樽、あとで裏に出しておいてね」と言い残して帳場へ戻っていった。ギュンターは空いていた端の丸椅子を引き、腰を下ろした。
ハンスが麦酒を一口あおり、卓の中央の煮込みに匙を伸ばした。
「今日、昼にギルドへ行ったらな、東の倉庫の番頭が窓口に来てたぞ」
「番頭が?」
オットーがジョッキから口を離した。
「ライゼンを指名したいって言ってな。依頼書を作れって騒いでた」
「ライゼンを?」
ベルタが木匙を止め、眉を上げた。
「何の仕事だい」
「鼠退治だ。前にやってもらったときの手際が良かったらしい」
「あいつ、一人でそんな仕事受けてたのかい」
ベルタが吹き出した。
「受けたのはオットーの式の後だったな」
ギュンターが卓の上の平パンをちぎりながら言った。
「朝早くからギルドへ行って、一人で掲示板を見てたやつだ」
「番頭、なんて言ってた」
オットーが尋ねた。
「町を出たって受付が言ったら、驚いてたよ。〈五本指〉が解散したことも知らなかったらしい」
「町の人間なんてそんなもんさ」
ベルタが煮込みの豆を口に運んだ。
「あたしたちが今でも五人で街道を這い回ってると思ってる連中ばかりだよ。顔を合わせるたびに、次はどこへ遠征するんだって訊かれるんだから」
「ライゼンは、今頃どのあたりかね」
オットーが言った。
「南へ行ったんだろ?」
「南の街道をそのまま下りりゃ、最初の宿場を抜けて、盆地の町か、その先の川沿いあたりだな」
ギュンターが言った。
「あいつなら、どこへ行っても野垂れ死にはしないよ」
ベルタが皿の縁を木匙でなぞった。
「道具の手入れも、天幕の張り方も、あたしたちの中で一番きっちりしてたんだから。あたしが持たせた塩漬け肉と白豆だって、無駄にせず食ってるだろ」
「弓は持たずに長剣一本で行ったがな」
ギュンターが笑った。
「小物を獲るくらいなら罠で足りるだろうし、あいつの足なら野犬の群れに出くわしても撒けるさ」
「金もそこそこ持ってただろう」
ハンスがジョッキを置き、口元についた泡を手の甲で拭った。
「腕が鈍るようなタマじゃない。どこかのギルドで一人で依頼を拾って、淡々とやってるさ」
「違いない」
オットーが笑い、ジョッキの底を卓に軽く打ち当てた。
「それよりハンス、親方から聞いたんだが、お前んちの納屋の屋根、杉板が何枚か浮いてるらしいな。次の雨の前に直さねえと雨漏りするぞ」
「本当か? 気がつかんかった」
「明日の昼休みに道具持って寄ってやるよ。角材二本と釘があればすぐ直る」
「助かる。礼に麦酒の一杯くらい奢るよ」
「うちの上のもさ」
ベルタが言った。
「鍛冶屋の親方に、槌の筋がいいって褒められたよ。下のも来年にはどこかの小僧に出せるかねえ」
「まだ早いだろう、下のはまだ甘えん坊じゃないか」
「そうなんだけどねえ」
ヘレナが帳場の奥から声を張り上げた。
「ギュンター! 三番卓の煮込みのお代わり!」
「おう、今行く」
ギュンターが立ち上がり、前掛けを直して厨房へ小走りに向かった。
外の通りを夜風が吹き抜け、引き戸の隙間から冷気が一筋流れ込んできたが、食堂の中の喧騒と笑い声にかき消されてすぐに消えた。
長机の上では、湯気の立つ深皿の周りで木匙が忙しく動き、杯が打ち鳴らされる音が夜更けまで続いていた。




