第27話
東の空が白み始める前、葦原を渡る風は肌を刺すように冷たかった。
水路を覆う靄は濃く、足元から立ち上る腐った泥の匂いが冷気の中に重く澱んでいる。
ライゼンはエントを連れ、北の土手を歩いた。
南側の縁が崩れかけている箇所を通り過ぎ、さらに二十歩ほど進んだ先、土手が大きく膨らんで赤土が固く締まっている場所で足を止めた。
足元の地面を靴底で二度、強く踏みしめる。土は沈まず、乾いた小石が微かに軋んだだけだった。
見下ろすと、人の背丈を超える葦の波の向こうに、巣のあるすり鉢状の中洲が円形に窪んでいるのが見通せた。
ライゼンは振り返り、松明の束を抱えたエントの肩を一瞥した。
「ここから見ていろ」
「……はい」
「下りてくるな。動くな」
エントは両腕に力を込めて松明を抱き直し、硬い表情のまま頷いた。
ライゼンはそれ以上言葉をかけず、土手を滑り下りて葦の茂みの中へ消えた。
◇
土手の基部で待っていたブルーノ、フェリクス、ヨルクと合流した。
誰一人として言葉を発しなかった。
四人は並び、腰まで浸かる泥水をかき分けて中洲へと進んだ。足を踏み出すたびに靴がヘドロに吸い付かれ、ズブッ、ズブッと重い水音が立つ。冷たい泥水が革鎧の隙間から侵入し、下腹部を締めつけるように冷やした。
すり鉢状の中洲へ上がり、四隅へ散らばって身を潜めた。
やがて、東の稜線の向こうから薄赤い朝日が差し込んできた。
葦の葉の先端の朝露が光を受けて揺れ、端から乾き始めていた。
奥の深い水路の水面が、不意に揺れた。
細かな気泡が一気に吹き上がり、泥水が盛り上がる。
ザパァン、と激しい水音が轟くと、水路の底から、大水蛇が姿を現した。
夜の冷え込みで鈍っている様子はなかった。泥水を跳ね上げ、鎌首をもたげた頭部は大人の胸の高さまで一気に持ち上がった。
胴回りは大人の太腿ほどもあり、長さは大人の背丈の三倍を超えている。背中をびっしりと覆う灰褐色の鱗が朝の光に鈍く光り、腹側の白っぽい皮が泥を擦って波打った。二つに裂けた黒い舌がチロチロと空気を舐め、黄色い瞳が侵入者を捉える。
◇
大水蛇が身体をしならせ、中洲の泥を蹴立てて突進してきた。
泥水が放射状に飛び散る。
「来いッ!」
ブルーノが咆哮し、鉄枠の大盾を身体の前に構えて泥に両足を突っ張った。
ドォン、と重い衝撃音が中洲に響き渡った。
大水蛇の頭部が正面から大盾に激突した。ブルーノの巨体が衝撃に耐えきれず、泥を削りながら二歩、三歩と後退させられる。大盾の鉄枠が軋み、ブルーノの膝が泥水の中へ折れかけた。
その横から、フェリクスが踏み出した。
腰に溜めていた太い捕獲網を、両手を大きく広げて頭上へ投げつける。
だが、突進の勢いが速すぎた。
網は頭部の全体を捉えきれず、右半分を覆っただけで、左側の頭部は網の縁から剥き出しのまま飛び出した。網の重石が泥に落ちて鈍い音を立てるが、大水蛇は激しく首を振り、残った左顎を大きく開いてブルーノの肩口へ噛みつこうと牙を剥いた。
フェリクスは網を手放さなかった。
引きずられそうになりながらも右手の短槍を泥深くに突き立て、網の端の網目を槍の穂先で地面に縫い止めた。
「ヨルクッ!」
フェリクスが怒鳴る。
ブルーノも退かなかった。泥の中に沈んだ左足を力任せに踏み直し、肩全体で大盾を押し返して大水蛇の突進を泥の上で食い止めた。
葦の茂みの端で、長弓を構えたヨルクが素早く位置を変えた。
水飛沫と葦の葉を避けるように横へ二歩飛び、弓弦を引き絞る。
ビュン、と弦が空気を打った。
放たれた矢が、網の隙間から剥き出しになっていた大水蛇の左目を正確に射抜いた。
矢柄が目蓋の奥に深々と突き刺さる。
大水蛇が甲高い悲鳴のような噴気を上げ、頭部を狂ったように跳ね上げた。
隙が生まれた。
ライゼンは泥を蹴って死角から飛び込んだ。
長剣を鞘から抜き放ち、両手で柄を握り締めて、頭部のすぐ後ろ、首の付け根へ斜め上から刃を叩きつけた。
ガツン、と骨に当たる鈍い手応えが手首に跳ね返ってくる。
だが、踏み込んだ右足が泥深くに取られていた。踏み込みの沈み込みが刃の勢いを殺し、硬い背中の鱗を裂いて肉を断ち割ったものの、太い骨の芯を断ち切るには至らなかった。
傷口から黒い血が泥水へ噴き出す。
激痛に狂った大水蛇が尾を激しく打ち据えた。泥水と腐った草の塊がライゼンの視界を塞ぐように飛び散る。短槍で留められていた捕獲網が破れ、大水蛇は身をくねらせながら、中洲の奥、本流へと抜ける水路へ向かって這い逃げようとした。
ライゼンは刃を引くと、泥水を撥ね上げて走った。
逃げる大水蛇の背後を追うのではなく、浅瀬の泥を斜めに横切り、奥の水路の入り口へと先に回り込んだ。
長剣の切先を低く構え、水路の幅の真ん中に立ちふさがる。
水路を塞がれた大水蛇は泥を掻いて急激に進路を変えた。
片目を失った巨体は方向を失い、視界の利く右側、北の土手へ向かって這い上がろうと斜面へ突っ込んだ。
大水蛇が太い胴を土手の南側の斜面へ乗り上げる。
そこは、川の水を含んで赤土がふやけていた場所だった。
大水蛇の重みが乗った瞬間、ズズズと鈍い地鳴りのような音がして、土手の縁が十歩にわたって大きく崩れ落ちた。
崩落した泥の塊と土砂が大水蛇の巨体を巻き込み、斜面を滑り落ちる。
大水蛇は崩れた赤土に埋もれ、腹を上に向けて身をよじらせたが、泥が崩れ続けて足がかりを失い、前に進むことも水へ戻ることもできなくなった。
◇
ライゼンは水路から駆け戻った。
滑り落ちて捻じれ、剥き出しになった大水蛇の首元へ回り込む。
傷口が泥にまみれて裂けていた。
ライゼンは立ち止まらず、腰を落として体勢を低くした。
長剣を横に寝かせ、腹側の柔らかい皮の隙間から、一太刀目で骨に届いた切り口へと切先を滑り込ませる。
両の手のひらで柄を固く握り、足腰の重みをすべて切先の一点に乗せて、横一文字に押し切った。
ゴリッ、と骨の継ぎ目が外れる感触が腕を伝った。
刃が太い首を完全に割り、向こう側の赤土の中へと抜けた。
大水蛇の巨体が一度、ビクンと激しく跳ね上がった。
尾が泥を二度叩き、やがてその筋肉から急速に力が抜けてき、頭部が赤土の上に崩れ落ちると、動かなくなった。
◇
葦原から物音が消えた。
周囲に響いていた水飛沫の音も、擦れ合う葉の音も止み、ただ風が吹き抜ける音だけが残っていた。
大水蛇の首からは、黒く濃い血が泥水の中にゆっくりと広がり、濁った赤褐色の輪を作っている。
ブルーノが泥の中に片膝をつき、肩を激しく上下させていた。鎖帷子の胸元は泥で完全に塗り潰され、大盾の表面には蛇の歯で削られた白い筋が深く刻まれている。
フェリクスは折れ曲がった短槍の柄を杖代わりにし、泥だらけの顔を拭っていた。肩口の革紐が千切れ、擦り傷からわずかに血が滲んでいる。
ヨルクが弓を下ろし、泥の上に腰を下ろして荒い息を吐き出した。
ライゼンは長剣を握ったまま、大水蛇の胴の脇に立っていた。肩で息を吸い込むたびに、泥水を吸った革鎧が重く軋んだ。
ふと、北の土手の上を見上げた。
崩れずに残った固い土の上、松明の束を抱えたエントが立ち尽くしていた。
両目を大きく見開き、息を呑んだまま、泥の中に横たわる大水蛇の巨体と、そこに立つ四人の姿を見つめていた。
冷たい川風が土手を吹き抜けていき、エントの薄い上着の裾を静かに揺らしていた。




