第26話
フルトの南門を出て川沿いに下ると、川幅は次第に広がり、岸辺の平野の奥に巨大な葦原が広がっていた。
生い茂る葦は大人の背丈を優に超え、風が吹き抜けるたびにザワザワと重い葉擦れの音を立てている。川面に近い場所では茶色い水が澱み、腐った泥と枯れ草の発酵した匂いが、生温かい水煙とともに漂っていた。
葦原の中央には泥の堆積した中洲がいくつも連なり、深い場所では水が腰の高さまで達していた。足を踏み入れれば、靴底が粘りつく泥に吸い込まれ、一歩ごとに鈍い水音が立つ。
巣があると目される一帯の北側にだけ、かつての堤防の名残らしい、人の背丈ほどの高さに土を盛り固めた土手が一本、まっすぐに東西へ通っていた。川面から高く離れ、葦の背丈の上まで見通せる唯一の乾いた道だった。
ブルーノが、その土手の基部、葦原の入り口に近い平らな草地で足を止めた。
「ここを拠点にする。荷を下ろせ」
大盾を外して地面に突き立て、背負い袋を下ろす。
エントが両腕に抱えていた松明の束と麻縄を、湿っていない乾いた地面の上に置いた。
「坊主、お前はここで留守番だ」
ブルーノが大柄な体をかがめ、エントの胸元の木札を一瞥した。
「松明を湿気らせるなよ。何があっても葦原の奥には入ってくるな。泥水に落ちたら引き上げる手間が増えるだけだ」
「はい、分かりました」
エントは真剣な顔で頷き、腰に差した樫の柄の小刀の位置を直した。
ライゼンは背負い袋から天幕用の油布の包みを取り出し、エントの足元へ置いた。
「雨が降れば使え」
それだけ言い、長剣の柄に右手を添えて立ち上がった。
◇
一日目と二日目、四人は手分けをして葦原の縁から足を踏み入れ、巣のありかを探った。
先頭に立つのは短槍のフェリクスだった。
柄の先で泥の深さを探りながら、葦をかき分けて進む。泥の上に残された大きな窪みや、押し倒された葦の茎の倒れ方を見て、大水蛇が通った跡を拾い上げていく。
その後ろを、ヨルクが長弓に矢を番えたまま、周囲の茂みに目を配って歩いた。ブルーノは大盾の縁を構え、フェリクスの斜め後ろで泥水を撥ね上げて進む。
ライゼンは最後尾につき、無言で三人の足跡を追った。
フェリクスが立ち止まり、泥の沈み具合を確かめている間、ライゼンは周囲の足場を目で測っていた。泥の厚み、底にある硬い砂利の層までの深さ、足を滑らせたときに身体を支えられる太い葦の株の配置。何かあったときに北の土手へ駆け上がれるよう、水深が膝より浅い中洲の切れ目を確かめていった。
一日目の探索では、古い脱皮殻の破片や、泥に深く刻まれた太い蛇腹の擦れ跡が二箇所で見つかったが、本体の姿も新しい巣も見当たらなかった。
日が沈むと拠点へ戻り、五人で一つの火床を囲んだ。
見張りの順番はブルーノが決めた。
「前半は俺とフェリクス、後半はヨルクとライゼンだ。小僧は寝てろ」
食事は別々に取った。ブルーノたちは干し肉と堅パンを齧り、ライゼンは自分の背負い袋から白豆と塩漬け肉を出し、小鍋で煮てエントと分け合った。天幕はライゼンの一人用の油布を張り、交代で見張りに入る者が外に残り、眠る者が交代で狭い布の下に潜り込んだ。
◇
二日目の午後、葦が密生する浅瀬を横切っていたときだった。
フェリクスが足を止め、泥の上に残った太い溝を短槍の石突きで指した。
「おい、ブルーノ。これを見ろ」
大人の太腿ほどの太さがある半円形の溝が、中洲の泥をえぐって斜めに伸びていた。表面の泥はまだ濡れており、両脇の葦の茎が大きくへし折れている。
「通ったばかりだな。川のほうへ向かってる」
フェリクスが短槍を持ち直し、川下の方角を見据えた。
ブルーノが泥に手をつき、溝の深さを確かめてから、後ろのライゼンを振り返った。
「ライゼン、あんたはどう見る」
ライゼンは足を泥に沈めたまま、視線を溝の先端から、その脇の葦の根元へと移した。
「大水蛇の跡で間違いないだろう」
ライゼンは短く言った。
「だが、川へ下った跡じゃない。泥のめくれ方が手前に向いている。川から中洲へ這い上がった跡だ」
フェリクスが眉をひそめ、溝の縁を覗き込んだ。
「手前だと?」
「折れた葦の切り口を見ろ」
ライゼンは小刀の鞘の先で、倒れた茎の破断面を示した。
「泥水に浸かっていない。折れてから水が引いたんじゃない、折れた茎の上に水滴が飛んでいる。まだいくらも経っていない。それと、対岸の泥が撥ねている」
フェリクスが水路を挟んだ向こうの茂みに目を凝らした。
十歩ほど先の泥壁に、水飛沫と泥が新しく叩きつけられた黒い染みが残っていた。
「……チッ、すぐ近くに潜り込みやがったか」
フェリクスが短槍を握り直し、舌を鳴らした。
ブルーノはライゼンを一瞥し、太い首を縦に振った。
「慎重に行くぞ。ヨルク、矢を緩めるな」
◇
三日目の昼過ぎ、四人は葦原の最も奥まった中洲へたどり着いた。
水深が腰まである深い泥水地帯を抜けた先、背丈の高い葦に囲まれた円形の広場のような場所だった。
中央の地面が大きくすり鉢状に窪み、泥が固く押し固められていた。
窪みの底には、大人の背丈の三倍以上はある大水蛇の、白く透き通った巨大な脱皮殻が何重にもとぐろを巻くように残されていた。周囲には泥にまみれた大きな川魚の頭骨や、水鳥の羽、大角鹿のあばら骨の残骸が散らばり、強烈な腐敗臭が淀んだ空気を満たしている。
「あったぞ……巣だ」
フェリクスが息を呑み、声を潜めた。
窪みの奥には、太い胴体が泥を擦って川の本流へと抜ける深い水路が口を開けていた。水面には油のような膜が浮き、細かな気泡がぷつぷつと絶え間なく湧き上がっている。
ライゼンは足元を見下ろした。
すり鉢の縁は泥が深く、足を踏み出せば膝のあたりまで沈みそうだった。周囲の水路は流れが滞り、足を滑らせれば水底のヘドロに足を取られる。
見上げると、太陽はすでに西の空へと傾き、葦の長い影が中洲の窪みを黒々と覆い始めていた。
川面から吹きつける風が急に冷たくなり、水音が暗がりの中で低く響き出す。
「今日はここまでだ」
ブルーノが大盾を胸の前に引き寄せ、退く合図を出した。
「日が暮れてから泥水の中で仕掛けるのは自殺行為だ。大水蛇の縄張りで夜戦なんぞやってられるか。一度引くぞ」
四人は足音を殺しながら、巣の窪みからゆっくりと後退した。
◇
巣から拠点へ戻る途中、四人は北の土手の上へと上がった。
足元の泥を払いながら土手を歩いていたとき、ライゼンの靴底が、普段と違う感触を捉えた。
土手の南側、葦原に面した斜面の端だった。
踏み込んだ瞬間、靴の裏がズブッと深く沈み込み、赤土が水を含んでぐずぐずと横へ崩れ落ちた。
ライゼンは立ち止まらず、体重をすぐさま逆の足へ移した。
一瞥すると、川の本流から逆流してきた水が土手の根元を洗い、土の内部に染み込んでいた。踏み固められていたはずの土手の縁が、十歩ほどの長さにわたって柔らかくふやけ、踏めば崩れる脆い泥の壁へと変わり始めていた。
ブルーノもフェリクスも、前を向いたまま大股で歩いていく。
誰もライゼンの足元を見ず、土手の崩れにも気づいていなかった。ライゼンは口を開かず、泥の緩んだ場所を避けて歩き続けた。
◇
夕暮れが完全に落ち、葦原の奥が黒い闇に閉ざされるころ、拠点の草地に焚き火が赤く熾された。
五人が火を囲んだ。
エントが抱えていた松明は、油の塗られた先端に獣脂を重ね塗りされ、麻縄でしっかり四本束ねられていた。エントは火床の脇に座り、三人の話し合いに耳を傾けていた。
「明日の朝だ」
ブルーノが火の粉を浴びながら言った。
「朝露が引いて、日が上がった瞬間に巣へ突っ込む。夜の冷えで、奴の動きはまだ鈍いはずだ。俺が正面から大盾で当たりを止める。フェリクス、網を頭から被せて動きを封じろ」
「任せとけ。重石は泥の中でもしっかり効く」
フェリクスが網の結び目を指先で弾いた。
「ヨルク、両目を射抜け。頭を振らせるな」
ヨルクが無言で短く頷き、矢筒から抜き出した三本の矢の羽を指先でなぞった。
「ライゼン、突っ込んだら一息に首を断て。頭のすぐ後ろ、首の付け根だ。迷ったら巻き込まれるぞ」
「分かった」
ライゼンは膝の上の長剣に触れ、短く返した。
エントが息を詰めてライゼンの横顔を見つめ、それから自分の腰の小刀の柄をそっと握り直した。
葦原の奥から、冷たい夜風に乗って、水面がバシャリと大きく跳ねる重い音が一度だけ届いた。
焚き火の薪が小さく爆ぜ、風に煽られた火の粉が、夜の闇の中へ赤く散っていった。




