第9話:不毛の地の奇跡、聖女の決意
王都の北、死の魔素が揺らめく荒れ地。
そこには、朝から晩まで泥にまみれ、黙々とクワを振るうアルトの姿があった。
「よし、ここの魔素は抜けたかな。……お待たせ、次はこっちの土を耕すよ」
額の汗を拭い、アルトは荒れ果てた大地に語りかける。
監視の騎士たちが退屈そうに欠伸をする傍らで、アルトの掌からは温かな神聖オーラが土へと注がれていた。数十年、命を拒絶してきた灰色の土が、彼の指先が触れるたびに柔らかな黒土へと色を変えていく。
やがて、その小さな菜園に、瑞々しいホウレン草や小松菜が実を結んだ。
「……お兄ちゃん、それ、食べられるの?」
スラムの痩せこけた子供が、柵の外から不思議そうに覗き込む。
アルトは柔らかな笑みを浮かべ、収穫したばかりの葉物野菜を差し出した。
「ああ。栄養たっぷりだよ。……お家の人にも持っていきな」
スラムには、不衛生な環境と魔素の影響で、王都の医者も見捨てるような伝染病や難病に苦しむ人々が溢れていた。
だが、奇跡が起きる。アルトの野菜を口にした病人たちが、翌朝には熱が引き、数日後には自力で歩けるほどに回復し始めたのだ。
「おお……体が軽い。神様、アルト様……ありがとうございます……!」
跪き、涙を流して感謝する住人たち。しかし、アルトは困ったように頭を掻くだけだった。
「いや、野菜が頑張っただけだよ。僕は土を整えただけさ」
その光景を、大神殿の法衣を纏ったセラフィナが、物陰からじっと見守っていた。
彼女の目には、アルトの献身がどれほど尊く、そして現在の処遇がいかに残酷であるかが痛いほど分かっていた。
(……アルト様には、一銭の報酬も与えられていない。それどころか、この土地を浄化させた手柄はすべて『特級農務官の成果』として王都に吸い上げられている……)
アルトはただ、土を愛し、目の前の人々を救いたいだけ。その純粋な善意を、帝国は「監視」と「搾取」で踏みにじっている。
「……許せません。これほどの方を、このような泥の中に閉じ込め、道具のように扱うなんて……!」
セラフィナの胸の内に、静かな、しかし激しい怒りと悲しみが燃え上がった。
これまで彼女は、聖教国と帝国の友好のために沈黙を守ってきた。だが、目の前の光景が彼女の「聖女」としての、そして「一人の女性」としての天秤を動かした。
(帝国は、あの方を所有するに値しません。……アルト様を、これ以上この檻に閉じ込めさせてはなりませんわ)
その晩、大神殿の自室に戻ったセラフィナは、密かにペンを取った。
宛先は、聖教国ルミナリアの本国。
『――至急。帝都にて、神の愛を体現する至高の農夫、アルト・ランドウォーカー氏を発見。しかし帝国はその価値を理解せず、不当な拘束を続けている。本国は直ちに、彼の保護に向けた最高レベルの外交介入を検討されたし』
セラフィナの送った一通の「知らせ」が、やがて大陸全土を揺るがす大騒動の種火となることを、帝国はまだ知る由もなかった。




