6-12
十二
百雷山は海に面した西側に、断崖絶壁を有する高峰である。
その逆側──山の東方面は、急峻ではあるものの、多少の傾斜がついている。もし山に登ろうと思うなら、東側から入山する方が無難だろう。
百雷山東の山際には、大きな池が広がっている。地元民からは「雷神池」と呼ばれているらしいこの池は、一見するに相当な水深がありそうだ。
その池のほとりの、土がむき出しの細い車道を。
土ぼこりをあげながら疾走する自動車が一台。
車は池の堤に沿ったカーブを曲がりつつ、キキーッとけたたましいブレーキの音を上げて、いままさに停車しようとしている。急停止の動作中、不意に後部座席のドアが開く。
「五十槻ッ!」
「あ、おいこら! 待て藤堂綜士郎! 危険だ!」
車が停止しきるのも待たずに、綜士郎は車から飛び出した。危うくドアを破壊しかけるほどの乱暴さである。香賀瀬少佐の制止も聞かず、青年は山の方へ遮二無二駆けていく。
「五十槻……!」
綜士郎が真っ青な顔で、見上げる先。
重苦しい曇天の下、まず目に飛び込んでくるのは、山頂を覗き込むように発生している、大輪の羅睺門だ。特大どころではない。超特大だ。赤い正円を彩るように、周囲を禍々しい芥子の花のような光輪が緩慢に回転している。その下に。
巨大生物はいた。
「……猩々型かしら。大きさはもちろんのこと、体色や形状が通常の個体とは異なっているけれど」
「冷静に分析しとる場合か! おい藤堂! いったん戻ってこい踏み潰されるぞ!」
急停車した車から、清澄京華、それから香賀瀬庚輔らが続々と下車し、綜士郎の後を追いかけながら山頂へ視線を遣っている。
それは山とほぼ同じ身長の、猿である。真っ黒い体毛が総身を覆い、両の眼は光がなく虚ろである。尻のあたりからは、細く長い尾が二本伸びて揺れている。
その巨大な猿は、先ほどから薄ら笑いのような表情を作りつつ、何やら蠅を払うような仕草を繰り返している。大猿の周囲を、さながら小虫の如く飛び回っている紫の電光は──。
「五十槻! おい! 五十槻!」
綜士郎は車道から山の領域へ駆け込みながら大声で叫んでいる。大猿へ挑みかかるように、山頂付近で不規則な軌道を描き続ける飛電は、間違いなく五十槻だ。
さて、八朔の神籠は視力が良い。もしかしたらその超視力で気付いてくれるやもと、綜士郎は一縷の望みをかけて山頂へ手を振ってみるけれど。
轟音を鳴らし天を駆ける紫電は、まったくこちらへ気付くそぶりはない。戦いに没頭しているようだ。
「藤堂綜士郎! 貴君の神籠で、あの猿を内側から破裂させられんのか!?」
香賀瀬少佐がこちらへ歩み寄りつつ、声高にそう問う。綜士郎は苦渋を満面に浮かべながら、そちらを振り返った。
「……五十槻があちこち飛び回っている。下手をすると大気膨張に巻き込む」
「どうにかして八朔少尉に、貴君に気付いてもらわねばならんということか」
綜士郎の神籠を使用するにしても、五十槻と接触しなければならない。
「いま第二班がいる辺りの木々に突風を吹かせ、五十槻に知らせるのはどうか」という案を綜士郎は口にするけれど、「貴君の神籠は消耗が激しいのであろう。ここぞという時に取っておきたまえ」という香賀瀬の忠告で却下された。
さて、向こうがこちらに気付く気配がない以上、第二班の面々が彼女に接近するのが最善だが。そのためには山を登らなければならない。
綜士郎はふと顔を上げた。山の周囲に神域がすでに展開されていることは、精一ら第一班の式哨から連絡を受けている。ゆえに会話の最中にも、綜士郎は自身の神籠を使用し、周辺地形の探知を行っていたわけだが。
「こっちだ」
青年は同行の三名へ短く告げると、先導して駆け出した。綜士郎は山際にある、池の堤を利用した小道へ向かっている。他の者たちも綜士郎の異能については把握しているので、「周囲に何か見つけたんだろう」と納得した顔で彼に続く。
小道の先はつきあたりだった。鬱蒼と生い茂る木立ちの落とす影で、曇り空の下ひときわ暗くなっている。山側の斜面に、古い坑道への入り口のような、狭い通路が設けられていた。
その通路の前では、男二人がなにやら押しあいへしあいして争っている。立ち止まる綜士郎の後ろで、香賀瀬と京華、ついでに随行の式哨が怪訝な顔色を浮かべた。
「だから御当主! 危険ですから、どうか避難を……!」
「うるさい! 五十槻が……五十槻のところに行かないと!」
壮年の男を、初老の男が引き留めている光景である。白髪の初老の男に綜士郎は見覚えはないが、壮年の方はよくよく知っている人物だ。
「八朔さん!」
綜士郎が声をかけると。初老に羽交いじめにされていた壮年が、驚いた顔でこちらを振り向いた。
「と、藤堂さん……!?」
半泣きの表情でこちらを見つめるのは──八朔家現当主・八朔克樹。
五十槻の父である。
── ── ── ── ── ──
一方の百雷山山頂。
「……硬いな!」
電光の中で刀を持ち直しつつ。五十槻は黒い山のような大猿の周囲を旋回していた。紫の稲妻は猿を包囲するように閃き続けている。
先ほどから大猿の顔や手指などに、繰り返し雷撃や斬撃を浴びせようとしているものの。
大猿の皮膚は異様に硬く、また電撃の類も通さないようである。
(女学院のカシラのようだ)
思い出すのは、昨年櫻ヶ原地下で交戦した、人間に擬態した禍隠──カシラの言だ。
たしかあのときのカシラは言っていた。対八朔の神籠用に、対策済みの禍隠を用意したと。実際、当時戦ったカシラ配下の禍隠は、硬く、絶縁特性のある体表を持っていた。
そのときの苦戦を想起しつつ、五十槻は眼下の大猿を見下ろした。おそらくこの猿も、同様の特性を有しているに違いない。
厄介だ。ただでさえ山のような巨体で、攻撃が通りづらい。女学院地下の蜘蛛のように体内からの攻撃であれば殺傷できるのかもしれないが、この大猿は出現以降一切開口していない。歯を見せてニタニタと、嘲笑うような表情はしているけれど。
(……藤堂大尉の神籠であれば、内側から破裂させられたものを……!)
実は麓にその藤堂大尉本人が到来しているなど、五十槻は気付く由もなく。
不必要な要素は自然、注意の対象からは排除されている。死戦ゆえの視野狭窄、少女は戦いに没頭している。雷電に乗じ目まぐるしく駆け巡る五十槻の視野は、大猿と、山頂の社殿周囲を中心に展開していた。
不意に大猿がわずかに身体の向きを変えた。そしてその大きな腕を振り上げて。
嘲笑の表情が、よりいっそう愉悦の色を帯びる。何をしようとしているのかを察して、五十槻はとっさに大猿の前方へ転身した。
「お母さん! 弓槻!」
猿の左腕は、社殿へ向けて振り下ろされようとしている。巨大な岩石のような拳が、懸造りの本殿を叩き潰そうと迫る。
さすがに大猿は巨体だけあって、その動きは緩慢だ。拳と建物の間に割り込むことなど、神速移動の加護を持つ八朔の神籠からしてみれば容易なことである。しかし。
光速の雷光に身をやつし、五十槻は肉迫する猿の拳の正面へ回り込みつつ逡巡する。雷撃も斬撃もほぼ効果がない。このまま拳の前に立ちふさがったとて、建物もろとも叩き砕かれるのが関の山だ。
(……いや)
現実的、かつ悲観的な思考を打ち捨てて、五十槻は軍刀を握る手に力をこめる。奥歯を噛み締め冀う。
──祓神鳴大神よ、我が産土、我が御祖よ。
祈りに応えるように、軍刀の刀身が──微振動している。耳鳴りのような高音が五十槻の鼓膜を震わせる。少女は意を決し、再び雷の異能を発動させた。
そして紫電が弾ける。
猿の腕を駆けあがるような、九十九折の稲妻の軌道。その雷の残影に沿うように。
禍隠の巌のような前腕のところどころが、黒い血飛沫をあげ同時に裂けた。ばらりと手指が輪切りになって地表へ落ちていく。
そして大猿が絶叫を上げる。山野を揺るがすような低音の絶叫が、一帯にいる生き物という生き物の耳朶をつんざいた。禍隠は社殿への打撃をやめ、腕をおさえて痛がる動作をしている。禍隠には一応痛覚が存在するらしい。
耳を塞ぎつつ、五十槻は背後を振り返った。いったん神籠を解除し電光から解き放たれた少女は、飛翔の慣性のまま、大猿の後方を滑翔している。
大猿の背中ごしに、攻撃の成果を確認する。社殿は無事である。
攻撃対象であった左前腕、指は数本斬り落とせているが、太ましい腕部に関しては、裂傷こそ負わせたものの切断には至っていない。
「刃渡りが足りないか!」
五十槻は歯噛みする。だが、斬撃自体は通じた。
掌の内で、軍刀はまだ微振動を続けている。
得物の刀にはいま、祓神鳴神の加護が宿っている。どんなものでも切り裂く、宝刀の加護だ。
五十槻は無我夢中の制御で原理をまったく把握していないが、彼女が手にしている軍刀はいま、毎秒数万回に及ぶ微振動を繰り返している。刀身に流された交流電流によって、高周波振動が発生。超高速振動により、低摩擦、溶断の効果が発生し、切断能力は飛躍的向上を果たす。五十槻は刀剣へのこの電流操作を無意識に行っている。
五十槻は刀身が折れないかを一瞬心配したが、その懸念は必要ないようだ。放電の線をジリリと纏う軍刀からは、なおも祓神鳴神の加護を感じる。信じるしかない。神を、産土を、累代の神籠を。
紫の眼を大猿から逸らさず、五十槻は瞳孔をさらに収縮させる。
一度で切断できないのなら──何度も繰り返すのみ。
五十槻がさっそく考えを実行に移そうとした、その刹那である。
雷電と化す前に。少女の周囲に、黒い影が複数飛来した。いつのまに門から排出されていたのだろう。鳥類の禍隠だ。
群れを成す怪鳥のほか、社殿の内に、狼の禍隠が何頭か侵入しているのも見えた。
「いつのまに──!」
神速移動と、宝刀加護。同時使用の負荷はそれなりで、継戦するにはやはり神籠解除の間隙が必要だ。その暇をついて、頭上の門が禍隠を密かに吐き出していたのだろう。
「うぉああああああ!」
飛電は己を奮い立たせるように大呼しつつ、雷鳴とともに社殿の中へ踊り込む。身を潜めていた古田が「ひィ!」と悲鳴を上げるのを背に、板の間に軍靴を滑らせて五十槻は着地した。
倒壊した祭壇を取り囲むように、狼の禍隠が六体。欄干越しに臨む西の空には、怪鳥の群れがすでに数えきれないほどひしめいている。五十槻はちらりと後ろを振り返り、社殿最奥にある石室の扉が、無傷であることを確認する。
現れた八朔の神籠へ、社殿の中の狼たちは揃っていきり立ち、殺到しようとするけれど。
「遅い!」
一直線の稲妻は彼らを置いて、社殿から飛び去っていく。残された禍隠たちは肩透かしとばかりに、雷光をぼんやりと振り返り様に見送っている。しかし。
ごぉん、と続く雷鳴が合図となり。社殿にいる禍隠の尽くが──輪切りになって崩れ落ちた。古田は命が助かったにも関わらず、あまりの恐ろしさに気を失いつつ、失禁している。
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に
神實八朔五十槻 恐み恐み白く
清浄なる霹靂あらわし 千早振る神寶の剣刀以て
四海の外より来る禍隠どもの尽くを
祓いたまえ 清めたまえ
八朔の雷が山頂直上、禍々しい大輪の羅睺門へ向けて飛翔する。新手を送り出されないためにも、最優先破壊対象は門だ。
地平に対して垂直に打ちあがりつつ、雷霆は逐次水平方向に対しても雷撃の枝葉を広げていた。その都度怪鳥の禍隠が感電し、熱に灼かれ、炭の塵と化しつつ地上へ落ちていく。
なおも上昇する稲妻の尖端で。五十槻は暁星の如く輝きながら、巨大な羅睺門に──赤い正円の中心に狙いを定める。
軍刀を逆手に持ちかえて。
五十槻は門の中心へ刃先を突き立てた。軍刀は見えない壁に突き刺さったかのように、空中で静止している。五十槻は構わず電撃を放つ。門中央から外周へ放射状に、半色の放電の線が走った。赤い正円に、真ん中からひびが入るような有様である。
けれども──。
「破壊、できない……!」
攻撃は通っているはずである。けれど羅睺門は耐えている。五十槻はなおも祓神鳴神の神通力を軍刀通して送り込み続けるが、破壊の閾値にはなかなか至らない。やはり超特大ともなると、通常の羅睺門よりも耐久力が倍増しているのだろう。
とめどない雷霆を放ち続けるさなか、ふと五十槻の眉間に苦痛の色がよぎった。
(まずい!)
脇腹に、とくとくと流れ出ていく感覚がある。さきほど焼灼の処置を施した銃創から、また出血しているようだ。
また焼灼するか? と五十槻が一瞬の思案に沈んだところに。
「オオオオオオオ!」
「!」
眼下からの咆哮。気を持ち直したらしい大猿の禍隠が、残った腕をこちらへ向けて振りかざしている。五十槻を捕まえようとするような手の動きに、少女は羅睺門の破壊をあっさり諦めた。そのまま再び紫電と化して、大猿への対処へ移行する。
掴まって握りつぶされるような事態はあってはならない。この戦いで一番避けねばならぬことは──己の死。
自分が死ねば、母と弟を守る者がいなくなる。それもあるけれど。
「僕には果たさなければならないことがある!」
先刻同様に、五十槻は迫りくる禍隠の腕を電光と化して駆け上る。
「僕は──またあんみつが食べたい!」
生きる理由はまず食欲である。
「カツカレー! からあげ! 天麩羅、エビフライ!」
揚げ物ばかりである。
「僕は……僕は! お母さんのことを、お母さんと呼んで! お父さんや姉さんと……清澄さんや獺越さんとも、ちゃんと仲直りして、甲伍長におせんべいや飴を分けてもらって、それから! それから!」
五十槻には生きなければならない理由が、たくさんある。
軍刀に斬り裂かれ、禍隠の手指がばらりと散る。紫電は容赦なく、さらに複雑な軌道を描く。一瞬の間に何度も同じ箇所へ軍刀を往復させ、ついに八朔の神籠は禍隠の肘から先を斬り落とした。
「藤堂大尉に会いたい!」
会って、ばかたれって叱られて。それから「よく頑張ったな」と。
背中を撫でてもらいたい。
あの柔らかい笑みで、また見下ろしてほしい。
脳裏にあたたかいものを描きつつも、五十槻は禍隠へなおも殺意の眼差しを向けている。
「このまま……首を……!」
再び、神速移動と切断能力を併用すべく。五十槻は暫時神籠を解く。猿の右腕を断ち切った紫電が少女の姿になる。
その一瞬である。猿の尾が後方から、小虫を叩き落とすかのような挙動で五十槻へ迫った。尾は一見ひょろりとしているが、それでも直径は五十槻の倍以上もある。まともに喰らえば圧死は免れ得ない。
くっ、と五十槻は致し方なく退避のために神籠を発動する。百雷山西の断崖へ飛びのくように、電光が移動した。
五十槻は再度攻撃に転じようと、神籠をいったん解くけれど。
折悪しく──脇腹の傷がずきりと、最上級の痛みを走らせた。
「う、あ」
反応が間に合わない。呻きつつ五十槻は──頭から真っ逆さまに落下していく。
白い岩壁と平行に、少女が落ちていく先に──。
── ── ── ── ── ──
「達さん!?」
百雷山の五合目あたりで。必死で神籠の操作を練っていた精一は、不意に顔を上げた。とろとろにょきにょき伸ばしている銀杏の樹の下の方では、美千流やら万都里が、やれもっと早くしろだの、やれもうオレは崖を登っていくだの、言いたい放題喚いている。獅子奮迅の紫の雷が、途中消えたりまた復活したり、挙句の果てには巨大猿の出現。お迎え小隊第一班はその都度阿鼻叫喚の大騒ぎである。
さて、精一は何かに気付いたように銀杏の樹の操作をやめた。すぐさま自身が掴まっている部分の銀杏の幹から、大きな枝を勢いつけて突出させる。突出させるとともに、先端部分に葉をこれでもかと茂らせている。
「!? 伍長、一体何を!?」
突然のことに驚く中津一等兵に何も答えず。精一はその枝の先端に掴まったまま、空へ目線を向けている。不意に。
どすん、と空から何かが降ってきた。精一が突出させた枝がそれを受け止める。あやうく枝が折れかねないほどの衝撃だが、精一が調整しているのだろう。茂った葉で落下物を受け止めたまま、枝葉はびょんびょんと上下に跳ねている。
わさっと銀杏の葉を巻き上げて。まず顔を上げたのは精一である。「あっぶね~!」とひやひやした顔色で、何か抱きかかえているようだ。
八朔少尉お迎え小隊第一班の面々は、唖然とした面持ちでそれを見守っている。落ちてきたのは、一体何なのか。禍隠であろうか。それとも──。
「う……」
精一に続いて、銀杏の葉から顔を出した人物を見て。第一班の一同にまず走ったのは、動揺であった。
「ほ……八朔少尉!」「五十槻さん!」「ハッサク!」
空から落ちてきたのは、まごうはずもない。
お迎え対象──八朔五十槻である。




