6-11
十一
洞結節とは。
心臓・右心房上部に存在する細胞群である。脈拍を司る部位だ。心臓の拍動は都度、この洞結節を起点とする電気信号によって引き起こされている。
先刻、落下による背部強打の衝撃で、五十槻の心臓は一度機能を停止してしまった。各心室が微細な痙攣を起こす、心室細動という状態に陥ったのだ。
つまり致死性の不整脈である。
その状況から、五十槻は蘇りつつある。自身の左胸──心臓の真上に置かれた、己が左手によって。
百雷山の神奈備にいま、奇跡が起きている。
五十槻の左の手のひらはまず、己の心臓へ向けて電撃を放った。衝撃で少女の身体が跳ね上がる。
同時に洞結節の狂った電気信号が、いったん解除される。五十槻の左手はなおも、強い力で胸を押し続ける。死に際とは思えない、力強い胸骨圧迫。少女は自らに、心肺蘇生を試みている。
一連の動作は五十槻自身の意思ではなく、まるで左手だけが、自律して動いているようで。
ジジッ。左手から胸の内へ、紫の放電の線が吸い込まれていく。雷の異能はいまはただ、救命のために用いられている。心臓に、正常な鼓動を戻すため。八朔五十槻を蘇らせるために。
「はっ」
呼吸が再開される。
心臓は自ずから拍動を刻む。
全身に熱いものが流れ込む。
紫の瞳に、光が宿る。
五十槻はそっと胸郭から左手を外した。そして息を大きく吸い込み、胸を上下させ。
両手を地につけ、身体をぐっと起こし。
だらんと伸びきっていた足に力を入れて、膝を持ち上げる。靴底でしかと地面を踏みしめて。
八朔の神籠は立ち上がった。
少女はふらつきながらも、少しずつ姿勢を整えていく。
背筋をぴんと伸ばし。眼差しはまっすぐに、凛然と。
「大神の廣く厚き恩頼に、辱み奉る──」
奉謝の言葉を口にしつつ、五十槻は右手に持ったままだった軍刀を、そっと眼前へ持ち上げた。
そのまま神へ示すのは、捧げ刀の礼。
百雷の曇天が、ごぉん、と応えるような雷鳴を打ち鳴らした。
五十槻の周囲には依然として、大狼、それから鳥類の禍隠が大挙してにじり寄っている。
相も変わらずの孤軍重囲。
紫の双眸で状況を一瞥し、五十槻は薄く笑う。瞳孔を異様に収縮させる、あの夜叉の笑みで。
夜叉はいったん、刀を鞘に納め。落ち着いた挙措で、柄に手をかけて。
抜刀、と同時の紫電一閃。
自身を取り囲む獣の群れを、半色の稲妻が円形の軌道を描き、一瞬のうちに斬り刻んだ。
電光は止まらない。
雷とは本来、空に一瞬閃いて消えるものだ。
それが──消えない。無窮の電霆が暗い空の下、延々と縦横の軌道を描き続けている。
通常、八朔の神籠は雷の異能を連続して発動する際、一撃ごとの間に着地なり停止なり、異能解除の間隙を設けなければならない。自然の雷と同じように、閃いて、消えて。そうしないと異能継続の負荷が甚大になってしまうからだ。
けれどいまの五十槻は、間断なく神籠を継続している。ふだんはこんな試みをすれば、頭の中心が割れんばかりに痛むはずだけれども。
──なんの痛痒もない。
──祓神鳴大神の御神助である。
龍のごとき軌跡を描く雷光の尖端で、五十槻は平静にそう感じている。
いまだかつてなく、五十槻と祓神鳴神は一体だ。
神籠の力が身中に溢れている。とめどもなく、次から次へ湧き上がっている。
五十槻の身には、蘇生の他に、もうひとつ奇跡が起きていた。
──そうか、そうだったんだ。
少女の内に、力とともになだれこんでくるものがある。記憶だ。
それはこの百雷山において、継承の儀に臨んできた、歴代の八朔の神籠の記憶。
先祖らの記憶は、もともと自らの内に備わっていたかのように、五十槻の胸中に忽然と現れた。五十槻はそれをごく自然な納得とともに受け入れている。
──死に際に、きっと僕は接したのだ。祓神鳴大神という、大いなる力と魂の奔流と。
現世と幽世のあわいに立ったからだろうか。この力も、記憶も。
戦いの最中、五十槻は歴代神籠の思念をたどっていた。
紫の電光は怪鳥の群れを灼き尽くしながら、己ではない者の記憶を回顧する。
一番最初の八朔の神籠は、女性だった。
雨が降りしきる中、骨ばった老いた手で、悔しそうに濡れた地面の土を掴んでいる。四つ這いで苦痛にあえぐ彼女の目前では──赤子が獣に食われている。肉を食む黒い歪な影は、禍隠だ。周囲には同じように、禍隠に襲われている人々の姿が多数あった。死体も多い。
いまの八洲の言葉とは違う発音で、老女は喉も潰れんばかりに泣き叫ぶ。言葉は分からないけれど、五十槻には彼女が何を言いたいのか、ぜんぶ理解できた。老女の前で食われている赤子は、彼女の孫だ。
神籠は不意に宿る。老女が神へ救いを願った瞬間に。
憎悪を向けられていた黒い獣が突然、紫の雷に打たれてはじけ飛んだ。禍隠は炭と化して死んでいる。
老女は突然のことに唖然としたが、自らの中に降って湧いた神威に気付いたのだろう。彼女の怒号に応じて、激しい迅雷があたりへ降り注ぐ。
それが八朔の神籠の初代である。歴史からは葬り去られた、女性の神籠。
彼女を始点とし、雷の異能を宿す一族は連綿と続いていく。
百雷山周辺は、古代から稲作が盛んな土地だ。その豊かな土地と住民を守るために。
この──雷多く、不意に大量の禍隠を吐き出す恐ろしい神奈備を、制圧するために。
歴代の八朔の神籠は、百雷山という土地の鎮護のために異能を揮い続けてきたのである。国家、なんて概念が現れる前から、ずっと。
──守るための力だったんだ。自分や、他の誰かを。
五十槻の脳裏に現れるのは、歴代神籠の代替わりの記憶である。
祓神鳴神の神籠の継承条件は、以下のふたつ。
百雷の神奈備に、八朔の血統である当代の神籠と、次代の候補がともに在ること。
当代が禍隠と争ったうえで死ぬこと。
そうして次代へ神籠が宿る。一例たりとも例外はない。五十槻の中にある他者の記憶は、総じて誰かの死に様だ。
継承条件は一見、無情で苛烈である。けれどいまの五十槻は、別の観点でこの条件を解釈している。
──戦う力を、即座に『次』へ渡すために。
追想に見る百雷は、初代の頃から過酷な環境だった。人知れず羅睺門が出現し、大量の禍隠が発生しやすい場所。そんな土地で、当代の八朔の神籠が死んだ後、悠長に『次』を用意している暇はない。
継戦能力の持続。一人が命を終えても、適格者へ即座に能力を移し、絶え間なく戦い続けられるように。
自分たちの一族や近傍の住民、そして土地。大事なものを、守り抜くために。
五十槻は回顧しつつ、転瞬の間に彼方の狼へ肉迫し、その巨躯を真二つに斬り払った。袈裟懸けの斬撃を受けた黒い獣が、ぐらりと身体を揺らし、断面を晒しながら崩れ落ちる。
八朔の血潮がいつものごとく高揚する。禍隠を殺傷するたび、羅睺の門を打ち壊すたび、あの悦楽が五十槻の胸を満たす。もっと殺せ、もっと壊せと、心臓の最も奥から囁きかけてくる。
思えばこの戦時高揚とでも言うべき心の働きも、八朔の神籠にはなくてはならぬものだ。雷光に乗じ、目まぐるしく戦場を駆け巡り、大量の禍隠を相手取らねばならない。この異能に恐怖は禁物である。
八洲でも類を見ないほどの、おびただしい禍隠が現れる地、百雷山。
八朔の神籠とは──その極限の環境へ、極限の適応を果たした異能である。
羅睺門の破壊能力に関してもそうだ。禍隠を排出し続ける異界の機構に対して、八朔の神籠は雷撃の出力を向上させるという形で超克を成し遂げる。
世代ごとに発達があったのだ。進化があったのだ。
五十槻の中で、祖先の記憶はなおも流れ続ける。
あるときはたおやかな乙女の手が太刀を取り。
あるときはたくましい男が雷を起こす。
神籠継承という「現象」は、いつしか「儀式」の体裁に整えられ。
時代がくだるにつれ、女性の神籠は現れなくなった。
異能は研ぎ澄まされる。
神の加護を受けた剣刀は切れ味を増していく。
雷霆は激しく、強く。稲光はより速く。
八朔歴代の神籠たちは、戦いの高揚の中で禍隠を屠り、羅睺の門を打ち壊し。
そして戦いの果てに死んでいく。
その繰り返しの極致に──。
「五十槻……」
自らへ呼びかける声。なおも飛電と化しつつ、五十槻は「叔父さん」と小さく応えた。
脳裏をよぎる光景は、百雷の社殿だ。すでに夜の帳が降りている。夜天をときおり半色の遠雷が照らし、低く唸るような雷鳴がそれに続く。
どうしてか、その人物の視界は少し左に傾いている。ぐらぐらとよろめいて、今にも均衡を崩してしまいそうだ。右腕に強い痛みを感じて、『彼』は右側へ視線を投げかけた。
右腕がない。肩口から先はちぎれている。申し訳程度の包帯で、止血の処置がしてある。
これは──先代神籠、八朔達樹。その記憶だ。
達樹は自身が隻腕の身であることを悟るや、ふと後ろを振り返った。背後、豪奢な敷物の上には子どもが座っている。目隠しをされ、必死で手を合わせて祈っている。
「……悪いな五十槻。お前にはまだ、八朔の神籠を譲ってやる気はないよ」
そう言って、達樹は六歳の小さな甥から視線を背けた。
十年前。八朔達樹から、八朔五十槻への神籠継承の儀である。
叔父は西に面した欄干のあたりに立っている。社殿の周囲には、数多はびこる禍隠の気配。鳥類の禍隠が上げるけたたましい奇声に、獣の禍隠の唸り声。特有の臭いが芬々と鼻をつく。
腰の左に佩いた軍刀を、左手で不器用に鞘から抜いて。柄を口でくわえたりして、やっとのことで叔父は残った腕に刀を握らせる。腰を低くし、重心を調整する。視界の傾きは水平に、身体のふらつきはにわかにおさまる。
(達樹叔父さん……)
五十槻は先刻、この百雷山の社殿で昏睡から覚めるまで、叔父の夢を見ていた。欄干の縁に立ち、雷光に照らされる隻腕の人影を。これはそのときの、叔父の側の記憶。
果たして。五十槻が夢に見たままに、特大の雷が起きる。
閃光、雷鳴。皇都雷神は神籠を発火させた。
叔父の最後の戦いは、凄絶であった。
夜の百雷に蠢く夥しい禍隠を、斬り、灼き、叩き潰し。天から赤光降り来れば、即座に紫電と化してそれを打ち砕く。五十槻に比べて太刀筋は豪快である。利き腕ではない方の刀で、達樹は幾多の禍隠を斬り裂いた。けれど。
徐々に動きは鈍くなっていく。雷霆の発動は段々と散発的になっていき、叔父の雷鳴は少しずつ、弱まっていくようだ。
黒い獣にまとわりつかれ、叔父の身体が食いちぎられていく。達樹の視界に、人間の腕をくわえて走り去る豺狼の姿がよぎった。残っていた左腕も、ついにもぎ取られてしまった。
「うぉあああああ!」
大喝しつつ、周囲に迅雷を放って。周りの禍隠を幾ばくか焼き殺し、達樹は這いずるようにして身動きすると、落ちていた軍刀の柄に砂粒ごと噛みついた。そのまま両の足に力を入れて立ち上がる。
──掛まくも畏き祓神鳴大神の大前に
神實八朔達樹 恐み恐み白く
僕が太刀に汝命が大御稜威宿らせしめ
神奈備が内を敵共の屍で満たしたまえ……!
両腕を失いつつの獅子奮迅。紫の電光は狂ったように疾駆する。
そんな中で、達樹は脳裏に追憶を思い描いている。
時を超えて、五十槻も同じ追憶を見ている。
──父さん、母さん。兄さん……。
──それから……。
家族の記憶。いまより少し若い、自身の父の笑顔を五十槻は見た。
続くのは軍営の思い出だろうか。神事兵の軍装姿の人々の姿が垣間見える。五十槻の知らない面々だ。
いや。
──達さん。ねえねえ、達さんってば。
その声と、戯画のキツネのような顔立ちは、五十槻もよく知っている。今よりちょっとだけ幼い姿で、相変わらずにぱっと笑っている。
旧知の人々を思い出しつつ、達樹の頬には熱い涙が滴っている。
(もっと、関わりたかった。もっと、たくさん……みんなと……)
全身の傷から、腕を失った箇所から。血はとめどなく流れ続けている。
もはやこの神奈備から、生きて帰ることはないだろう。
その確信が、達樹の胸に後悔の痛みを与えている。
「五十槻──」
軍刀はどこかへ取り落としてしまった。達樹は残る力をすべて神籠に換え、激しい雷霆を辺り一面へ降らせている。叔父は閃電と化しつつ、社殿の外から甥を見つめている。
八朔達樹は結局、五十槻を男の子だと思い込んだままだ。その誤解のまま、達樹は姪へ向けて微笑んだ。
「すまない五十槻。僕は──僕は結局、この力をお前に譲るしかなさそうだ。僕の身体が病弱なばかりに、まだこんなに小さいうちから家族と引き離され、お前には苦労ばかりかけて……ごめんな、五十槻」
十年後の同じ場所で、同じく飛電と化しながら。百雷の曇天の下、五十槻は首を横に振る。
「五十槻……神域の内にお前の人生を閉じ込めてしまう叔父を、どうか呪っておくれ。思う存分なじっておくれ。それでも、祈るよ。心から」
それが八朔達樹の、最期の思念である。
百雷に満ちる、禍隠の残党をすべて引き付けて。頭上に出現した、羅睺の門へ飛翔しつつ。
「どうか、幸せに──」
神さま神さま、どうか、どうか。この子にたくさんの幸せを。
叔父の眼差しは──紫の瞳は、五十槻の方へ向けられている。
爆発的な閃光が起きる。半色の鮮烈な光は、禍隠も、門も。
邪悪なものをすべて巻き込んで。八朔の神籠の、その身体も包み込んで。
ちょうど社殿で座している五十槻の顔から、ぱさりと目隠しの布が落ちた。身体の震えと涙で、結び目が緩んでいたのだろう。
八朔の神籠は視力が良い。たとえ、死の淵にあったとしても。
達樹は最後に紫の瞳を見た。自分以外の、八朔の紫眼を。社殿の内でぽかんと呆けている、幼顔の中に。目もくらむばかりの雷光を受けて、潤んだ瞳は陸離ときらめいた。
かくて継承は相成った。紫の瞳を宿し、このとき五十槻は八朔の神籠となったのである。
身体を焼き尽くす神雷の熱で、達樹の記憶は事切れる。
「呪ったり、なじったりなんてしません……達樹叔父さん」
五十槻は飛翔している。ちょうど、記憶の中で叔父が亡くなった地点を。
叔父の最期を穢すように、赤い不吉な光の正円が浮遊している。羅睺門。
その中心を軍刀の刺突で貫いて。電光から五十槻の姿に戻りつつ、少女は祈った。
この地で果てた、すべての八朔の神籠のために。
叔父、八朔達樹のために。
累代の八朔の神籠が、末期に祈ったことは全員同じである。
ただ、大事な人々の幸せを。
五十槻はうれしかった。
最後の最後に、叔父が自分の幸せを願ってくれたことが。
そして──その願いは必ず叶えなければならない、とも。
しかし突如。天地を揺らすような、途轍もない轟音が響き渡る。
五十槻の神籠ではない。自然の雷のようだが。
少女が音の方を振り返ってみれば。
「門……!」
五十槻はいま、山頂の岩盤を踏みしめて立っている。
その頭上に。強烈な赤光を烈日の日差しのごとく降り注がせ、羅睺の門は忽然と現れた。
仰ぎ見る五十槻の顔面は、呆気に取られている。なにせその羅睺門は。
「なんて……大きさだ……!」
見上げる天を覆うほどの、巨大な赤い正円。まるで百雷山を飲み込むかのように、羅睺の門はその口を開けている。通常の羅睺門に比べ、径は百倍以上もありそうだ。
その赤い、光の円の内から。
百雷の白い峰を穢すように──どろりと黒い粘液が落とされる。
五十槻は身構えた。通常、門から排出された粘液は、すぐに分化し、禍隠の群体を形成することがほとんどだ。
しかし今回、大量に垂らされた黒い液体は。
分化せず、ただ一個の個体を成し始める。麓からせり上がるようにして、それは屹立した。
「猿!」
それは一匹の巨大な猿である──天を衝くほどに、巨大な。
猿は山の麓に両の足を置き、にたにたと嘲笑うような調子で歯を見せている。山の頂に届くその目線は、間違いなく五十槻へ向けられている。思わず八朔の神籠の喉から「ははっ」と好戦的な笑声が漏れた。
「上等だ……我こそは八朔の神籠。我こそ祓神鳴大神の──八朔累代の英霊の、耀かしき大御稜威と荒御魂を継ぐ者である!」
そして百雷山に再び稲妻が起きる。
やはり五十槻は、心の底から八朔の神籠である。
いま再び、少女の血潮に迅雷が駆け巡っている──。




