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現実世界が舞台の作品

雨上がりの仲直り

掲載日:2026/08/23

「現実世界恋愛」の作品です。

「行ってきます」


 そう言って彼は今日も朝ごはんを食べず、私が淹れたコーヒーを一気に飲み干して慌ただしく出かけていく。


 バタンッ、と玄関のドアが閉まる無機質な音を聞くたびに、私の心も凍りついていくようだ。


 毎朝のこの光景が当たり前になってしまってから、もうどれくらい経つだろう。


 彼が、仕事で大きなプロジェクトを任されることになった、と嬉しそうに話してくれたのは半年前のこと。


 奮発して買ったワインを飲んでふたりでお祝いしたのも束の間、すぐに忙しくなっていった彼は朝早くに出て夜の帰りも遅くなり、出張もしばしばで、そんな多忙な生活を私は心配しつつも応援していたはずなのに、今は心から支えてあげることができなくなっていた。


 私と彼は同い年で、大学時代からの付き合いになる。


 お互い大学を卒業し、就職してからも関係はずっと続いていて、そのまま自然と同棲を始めた。 


 あの頃の私は一緒にいたいからという言葉が素直に言えなくて、代わりに「家賃を抑えられるしね」なんて言って軽い感じで同意するふりをした。


 でもあとで、彼も同じような本心が言えずいたことを知り、「素直じゃないね」とふたりで笑い合った。


 コーヒーがとくに好きな彼は、付き合う前から私を美味しいコーヒーを出すカフェにあちこち連れて行った。


 私はコーヒーよりも紅茶派だったけど、彼のことが好きだったからそのことをずっと言い出せずにいた。


 でも付き合うようになってからは気づけば、好んで紅茶よりもコーヒーを選ぶことが多くなっていて、コーヒーを飲むたびに私は彼のことをもっと好きになっていった。


 私達のデートはどこで何を楽しんだとしても、その日の終わりにはいくつかあるお気に入りのうちのひとつのカフェに寄ることがお決まりの流れになっていた。


 コーヒーを飲みながら、いつもたわいのない話をした。


 大学生の頃は友人のことや難しかった講義のこと、観たばかりの映画のこと、気に入った音楽のこと。


 社会人になってからは、お互いの仕事の話を多くするようになった。


 彼は大手広告代理店の会社員、私は雑貨好きが高じて買い付けなども行う雑貨屋の店員として働き始めた。


 お互い慣れない社会人生活に苦戦しながらも愚痴を言ったり、励まし合ったり、ときに意見が合わず喧嘩もしたけど、ふたりで支え合って前に進んでいる気がしていた。


 慣れ親しんだコーヒーのほろ苦い香りが漂う中、ふっと会話が途切れるとき。目の前の彼を見つめれば、カップを傾ける彼の瞳の中にははにかむ私が映る──。


 日常にふと訪れるささやかで満ち足りた、胸がぎゅっと温かくなるこのときが、私は何よりも大切だった。


 でもそれももう、だめなのかもしれない。




 きっかけは何だっただろう。


 その日の彼はいつもより帰宅が早く、私は久しぶりに彼の顔を見ることができて嬉しかったはずなのに、気づけば会話ではなく口論になっていた。


 私はそれまで抑え込んでいたすれ違いの日々への不満が(せき)を切ったように止まらなくなり、普段なら言わないような言葉を吐いてしまった。


『……ちょっとお互い頭を冷やそう』


 彼は濃い疲労がにじむ顔を片手で覆いながら、憤りのため息を漏らしそう言うと、振り返ることなくドアが閉まる無機質な音だけを残して出て行った。


 そのまま夜中をどれだけ過ぎても、彼は帰ってこなかった。


 翌朝起きてもベッドは冷たいままで彼の姿はなく、でも一度着替えに帰ってきたのか、昨日着ていたシャツなどが部屋の隅に残されていた。


 自分の気配しかない部屋の中で、キッチンに立った私はいつもと同じようにコーヒーを淹れようと豆を挽くミルのハンドルに手をかける。


 コーヒー好きな彼は豆から挽くことにこだわりを持っていて、教えてもらううちに彼よりも出勤時間が遅い私が朝は淹れるようになっていた。


 私の手がすぐに止まる。気づけば、紅茶のパックを手に取っていた。


 熱いお湯をカップに注ぎ、柔らかな色合いのミルクティーをこくりと口に含む。


 とたんにまったりとした濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。


 私の好きな味だ。


 ぽたり、とカップの中に雫が落ちる。気づけば涙があふれていた。


 彼のことを嫌いになったわけじゃない。


 でも一緒にいる意味が見出せなくなっている。


 どうしたらいいのかわからない。


 ただただ涙が止めどなくあふれて、口の中からはもうミルクティーの甘い味は消えていた。





  ◇ ◇ ◇





「あ、雨……」


 空を見上げると、どんよりとした曇からぽつぽつと大きな雨粒が落ちてきていた。


 泣き腫らした今朝、腫れたまぶたを急いで冷やし、何とかメイクで誤魔化して勤めている雑貨屋へ出勤した。


 午後になり、客足がいったん途切れたタイミングで店長からお使いを頼まれ、その帰り道だった。


 私はさっと辺りを見回す。


 お使いを済ませたあとはそのまま遅い昼休憩に入っていいと言われていたこともあり、雨宿りついでに入れるお店を探す。


 ちょうど道沿いの先、住宅街にひっそりと佇むカフェらしきお店が見えた。


 カラン、と軽やかなベルの音が鳴るドアをそっと開け、店内へと入る。


 あ──、と思った瞬間、慣れ親しんだほろ苦い香りが吸い込んだ空気とともに通り抜ける。


 コーヒーのにおいだった。


 ぐるりと店内を見回せば、重厚な梁がめぐらされた吹き抜けの天井に、アンティーク調のテーブルや椅子が配置された温かみのある雰囲気──。


「いらっしゃいませ」


 声がしたカウンターの向こうに目をやると、端正な顔立ちをした若い男性が微笑んでいた。


 自分と同じ二十代くらいにも思えたが、品良く着こなされた白いシャツに黒いネクタイという落ち着いた身なりは、もっと年上にも感じさせた。


 濃い茶色の色合いをしたウォールナットのカウンター上には、コーヒーを淹れる道具であるサイフォンがいくつも並んでいる。


 誘われるように、私はカウンターの前の席へと座る。


 店内には私のほかにも常連客らしき中年の男性が何人かいて、聞こえてくる会話からこのカウンターの中の男性が店のマスターなのだと知る。


「おすすめはありますか?」


 私はメニューを一通り見たあとで、マスターの男性に尋ねる。


 彼は柔らかい笑みを浮かべると、説明を交えて丁寧に教えてくれる。


 私はそのおすすめコーヒーと一緒に、ホットサンドも注文した。


 どうやらおすすめのコーヒーはサイフォンを使って淹れてくれるらしい。


 マスターの流れるような動作に興味をそそられて眺めていると、何かきらりと淡く光るものが視界の端に映る。


 見れば、彼の黒いネクタイについているネクタイピンだった。


 いくつかの色の異なる宝石がついたそれは、それぞれの宝石の頭文字をつなげると〝REGARD《敬愛》〟などの言葉になるリガードジュエリーだろうか。


 アンティークのような年代を感じさせる良い品で、雑貨好きでもとくに古いものに目がない私としてはつい気になって凝視してしまう。


 そのとき、カランッと店のドアが開いた音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 マスターが声をかける。


 私は何の気なしにそちらに顔を向ける。その瞬間、目を瞬かせた。


 そこにいたのは、昨夜出て行ってしまった彼だった。


 彼のほうも、私がいることに驚いているようだった。


 しばらく硬直したままの私と彼を見て知り合いだと推察したのか、マスターが気遣ってくれるように「お席、移動されますか?」と声をかけてくれる。


 促されるまま、私たちはテーブル席に無言のまま腰を下ろす。


 道路に面した窓には、雨粒がぽつぽつとついている。


 カウンター上のサイフォンから聞こえるコポコポとお湯の沸騰する音が、やけに大きく耳に響く。


「……どうしてここに?」


 ずいぶん経ってからそう彼が尋ねてくれたのをきっかけに、私は仕事のお使いの帰りで雨宿りしようとたまたま立ち寄ったことを小さく告げる。


 そして随分と時間がかかったあとで、私は掠れた声で謝った。


「昨日は、ごめんなさい……」


 彼は少し(くま)の残る顔を横に振る。


「俺もごめん。……本当は今度、ここに連れてこようと思ってたんだ」


 そう言って、ちらりと店内に目をやる。


 聞けば、彼がこのお店に来たのは二回目で、最初は偶然見つけて気に入ったようだった。


 今日は私と同じく仕事の外出途中、近くを通りがかったときに雨が降ってきて寄ったらしい。


 彼は落ち着かない様子でもぞもぞと体を動かし姿勢を正してから、任されていたプロジェクトが一区切りついたこと、突然の退職が重なり人手不足だったが人員が補充されたことなど、私の好きな心地良い重低音の声でゆっくりと話してくれた。


 私はテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめる。


 そんな大変なときだったなんて、全然知らなかった。


 彼を気遣えなかった自分の至らなさが悔しかった。


 そんな私に彼は、「俺もいっぱいいっぱいだったから、ごめん……」と優しく謝ってくれた。


 ふっと彼の口元が柔らかく緩み、私も少しだけ潤んだ目で微笑む。


「お待たせいたしました」


 マスターがコーヒーを運んでくれる。


 湯気とともに芳醇な匂いが漂う。


 美しい花のブーケが描かれたアンティーク調のカップをそっと手に取り、淹れたてのコーヒーを口に含む。


 マカダミアナッツのようなほのかな甘さに、メロン果汁のような酸味が口いっぱいに広がり、飲み込んだあとに残るのはさわやかな清涼感──。


「……おいしい」


 思わず、私はほうと息を吐く。


「今後は休みの日にゆっくり来たいね」


 正面に座る彼が、コーヒーを味わいながら穏やかに微笑む。そんなにゆったりとした表情を見るのは、本当に久しぶりだった。


 窓の外を見ると、雨はもうすっかり上がっていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございます(*ˊᵕˋ*)

なろうさんでは異世界の作品をメインで投稿していますが、今回は現実世界の作品でした。


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ほかにも短編・連載作品投稿しています。こちらも楽しんでいただけると嬉しいです!

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