第四章「近すぎる距離」
今回は、直人が「文研をもう一度楽しい場所にしたい」と思って動き出した、その先のお話です。
少しずつ変わっていく関係と、変わっていく自分。
その中で、うまくいきそうだったはずの時間が、どうしてかうまくいかなくなっていく。
そんな一日を書いています。
土曜日の朝。
目を覚ましたとき、今日はなんとなく楽しみな日だった。
特に大きな理由があるわけじゃない。
ただ、久しぶりに誰かと出かける予定がある、というだけで、少し気分が軽くなる。
ベッドから起き上がって、クローゼットを開ける。
「……まあ、これでいいかな」
適当にTシャツとジーンズを取り出して、そのまま着替える。
動きやすいし、別に問題ないはずだ。
鏡の前で軽く髪を整えていると、後ろから声がした。
「直人、出かけるの?」
「うん」
振り返ると、姉の美和がドアにもたれてこちらを見ていた。
「慎太郎と、水族館に遊びに行くんだよ」
そう言った瞬間、美和の表情が止まった。
「……は?」
「え?」
「いやいやいや、それって」
美和は一歩近づいてきて、僕の格好を上から下までじっと見る。
「なにその服」
「え、普通だけど」
「普通じゃない」
即答だった。
「それで水族館? 慎太郎くんと?」
「うん」
「……それ、デートでしょ」
「いや、違うと思うけど」
「違わないから」
なぜか強めに言い切られた。
「最近遊びに来なくなったあの慎太郎くんが、わざわざ二人で水族館に誘ってきたんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「それをデートって言うの」
「そうなの?」
いまいちピンとこない。
ただ、美和はもうそれどころじゃないらしく、ため息をついたあと、僕の腕を掴んだ。
「ちょっとこっち来なさい」
「え、ちょっ」
そのまま引きずられるように部屋に戻される。
「はい、これ」
目の前に差し出されたのは、淡い色のワンピースだった。
「……これ着るの?」
「当たり前でしょ」
「いや、ちょっと待って」
「待たない」
有無を言わせない声だった。
「せっかくの機会なんだから、ちゃんとした格好しなさい」
「でも、別にそんな大げさな……」
「いいから」
押し切られる形で、結局着替えることになった。
鏡の前に立つ。
「……なんか」
見慣れない。
さっきまでの自分と、少し違う気がする。
「似合ってるじゃん」
後ろから美和が満足そうに言う。
「そうかな」
「うん。普通にかわいい」
「……動きにくいな、これ」
「そこじゃないのよ」
軽くため息をつかれる。
「まあいいや。時間大丈夫なの?」
「そろそろ行かなきゃ」
「いってらっしゃい。……あと」
「なに?」
「楽しんできなさいね」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
でも、深く考える前に、僕は家を出た。
電車を降りて、水族館のある駅に出る。
駅前で慎太郎と合流した。
「お、おう」
顔を合わせた瞬間、慎太郎が少し固まった。
「どうしたの?」
「いや……その」
言葉に詰まる。
「なんか、いつもと雰囲気違うなって」
「そう?」
自分ではよく分からない。
でも、慎太郎もいつもと違う、少しきちんとした服装だった。
Tシャツにジーンズじゃなくて正解だったかも。
美和の「デート」という言葉が頭をよぎる。
これは、デートなの?
水族館は思っていたより人が多かった。
「けっこう混んでるね」
「土曜だしな」
入り口の横にある売店を見て、僕は足を止めた。
「ねぇ、お土産やさんあるよ。ちょっと見てもいい?」
「いいけど」
中に入ると、ぬいぐるみやキーホルダーが並んでいる。
サメにペンギン、これはなんだろう、ハリセンボン?
「これカワイイね」
手に取ったのは、小さなイルカのストラップだった。
「似合いそう」
「え?」
「いや、その」
慎太郎が視線を逸らす。
「……なんでもない」
よく分からないけど、とりあえず元の場所に戻した。
館内に入ると、青い光に包まれた世界が広がっていた。
壁一面の大きな水槽の中を、魚の群れがゆっくりと流れていく。
「すごいな」
「うん……これなんていう魚かな」
ガラスの下に写真付きの説明書きがあったけど、どれのことなのかいまいち分からない。
「たぶん、このへんじゃないか?」
「え、どれ?」
「いや……なんとなく」
「適当じゃん」
思わず少し笑ってしまう。
でも、色鮮やかな模様が動いているのを見ていると、不思議と心が落ち着いた。
「こういうの、ずっと見てられるね」
「……ああ」
少し間を置いて、慎太郎が答える。
「なんか、時間ゆっくり流れてる感じする」
「それ、分かる」
同じものを見ながら、同じようなことを考えている。
それが、少しだけ嬉しかった。
「ねぇ、こっちにウミガメもいるよ」
「ホントだ……でかいな」
ゆっくりと水の中を泳ぐ姿に、思わず見入ってしまう。
「なんかさ、余裕ある感じするよね」
「余裕?」
「うん。こう、急がなくてもいいみたいな」
「……ああ」
慎太郎は少しだけ考えるようにしてから、うなずいた。
自然と横に並んで、同じ方向を見る。
言葉は少なかったけれど、不思議と気まずくはなかった。
頭上を水槽が通っているエリアに入る。
「上、見てみろよ」
「え?」
顔を上げる。
光が揺れて、水面がそのまま天井に広がっているみたいだった。
「すごい……」
思わず立ち止まる。
「こういうの、ちょっと現実感なくなるな」
「わかる。なんか、外と切り離されたみたい」
そう言いながら、もう一歩だけ前に出る。
急に目の前を大きなタコが通り過ぎていく。
その瞬間、少しだけバランスを崩して、慎太郎に近づきすぎた。
「……あ」
顔が近い。
ほんの一瞬だけ、目が合う。
「ご、ごめん」
「いや、別に――」
でも、それもほんの一瞬で、すぐに視線を上に戻した。
ゆらゆらと揺れる水面の光に包まれて、なんだか不思議な感じがした。
「すごいね、これ」
「ああ……」
横を見ると、慎太郎の顔が少し赤い気がした。
館内を進んでいくと、少し開けた場所に出た。
前の方に人だかりができている。
「おっ、イルカショーやってるみたいだぞ」
「え、ほんと?」
少し背伸びをすると、水しぶきが上がるのが見えた。
「見ていくか?」
「うん、見たい!」
空いている場所を見つけて、二人で並んで立つ。
プールの中央で、飼育員がボールを掲げる。
次の瞬間、水面を切ってイルカが飛び上がった。
「すご……!」
思わず声が出る。
ボールにぴたりと鼻先を合わせて、そのまま水中へと戻っていく。
「今の見た?」
「見た見た」
「タイミングぴったりだったよね」
「ああ、すごいな……」
次々と芸が続く。
ジャンプ、回転、水しぶき。
気づけば、完全に見入っていた。
「これ、思ってたより面白いかも」
「だろ?」
そのときだった。
イルカが水面に勢いよく体を叩きつけた。
――バシャッ!!
予想以上の水が飛んできた。
「うわっ――」
とっさに目をつぶる。
でも、思っていたほど濡れていないことに気づいて、ゆっくりと目を開けた。
「……あれ?」
すぐ近くに、慎太郎の背中があった。
「大丈夫か?」
振り返った慎太郎は、前髪から水を滴らせていた。
シャツもかなり濡れている。
「え、ちょっと……すごい濡れてるじゃん」
「まあ、これくらいなら」
軽く笑って、手で水を払う。
一瞬だけ、胸の奥がぎゅっとした。
「ごめん、僕――」
「いや、気にすんなって」
あっさりとした言い方だった。
でも、その様子が少しだけおかしくて。
「……ふふ」
思わず、笑ってしまう。
「なに笑ってんだよ」
「だって……なんか、すごいことになってるし」
髪もシャツも、思っていた以上にびしょ濡れで。
それでも気にしていないみたいな顔をしているのが、なんだか可笑しかった。
「ほんと、大丈夫?」
「平気だって」
そう言いながら、少しだけ視線を逸らす。
「……ありがと」
小さくそう言うと、慎太郎が一瞬だけ言葉に詰まった。
「……あぁ」
そっけない返事だったけれど、その顔は少しだけ赤かった。
少し濡れたまま、館内を歩く。
次は不思議な海の生物が並ぶエリアだった。
ウミウシやイソギンチャク、カブトガニなんかもいる。
ふと、タツノオトシゴの水槽の前で立ち止まった。
「これ、オスが子ども産むんだよね」
「へえ、そうなんだ」
「なんか不思議だよね」
水槽の中でゆっくり動く姿を見ながら、ぼんやりとそう思う。
「でも、ちょっと楽そうかも」
「楽?」
「うん。なんか……役割分担できてる感じで」
「……まあ、そうかもな」
慎太郎が少しだけ曖昧にうなずく。
そこで、ふと口をついて出た。
「慎太郎ってさ」
「ん?」
「将来、子どもとか欲しい?」
一瞬だけ、間があいた。
「え、なんで急に」
「いや、なんとなく」
特に深い意味はない。
ただ、今の流れで出てきただけだった。
「……まあ、できたらいいかな、くらい」
「ふーん」
そこで今度は、逆に聞かれる。
「直人は?」
「え?」
「子ども」
少しだけ考える。
「うーん……どうだろ」
自分でも、あまり考えたことがなかった。
「なんか、ちゃんと育てられる自信ないかも」
「自信?」
「うん。お金とかもそうだし」
言いながら、なんとなく言葉を探す。
「家族養うって、大変そうでしょ?」
その瞬間、慎太郎が少しだけ止まった。
「えっ?……あ、ああ」
短く返事が返ってくる。
でも、その反応が少しだけ引っかかった。
「なに?」
「いや……なんでもない」
それ以上は続かなかった。
水槽の中では、タツノオトシゴがゆっくりと揺れている。
さっきまでより、少しだけ会話が途切れがちになった気がした。
最後にたどり着いたのは、クラゲのエリアだった。
照明が落ちていて、ほとんど暗い。
水槽の中で、淡い光に照らされたクラゲだけが、ゆっくりと浮かんでいる。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、静かだった。
「……きれい」
思わず、小さな声が漏れる。
「ああ」
隣から、同じくらいの声で返ってくる。
それだけで、また会話は途切れた。
並んで、同じ水槽を見ている。
なのに、さっきまでより距離が近い気がした。
人も少ない。
声もほとんど聞こえない。
水の中で揺れる光だけが、ゆっくりと時間を動かしているみたいだった。
少し歩いて、別の水槽の前に移る。
足元が暗くて、段差に気づくのが遅れた。
「……っ」
一瞬、バランスを崩す。
「危な――」
とっさに、腕を引かれた。
そのまま体が引き寄せられる。
背中が、壁に触れた。
気づいたときには、目の前に慎太郎がいた。
近い。
さっきよりも、ずっと。
逃げようとは思わなかった。
ただ、その距離に少しだけ戸惑う。
「……大丈夫か」
小さな声が、すぐ近くで聞こえた。
「うん……」
顔を上げる。
暗い中で、クラゲの光がわずかに輪郭を照らしている。
目が合う。
少しだけ、時間が止まった気がした。
――あ、これ。
ふと、そう思う。
どういう流れなのか、なんとなく分かる。
でも。
嫌じゃない、と思った。
このままでも、いいのかもしれない、と。
慎太郎が、ほんの少しだけ近づく。
呼吸が、触れそうな距離になる。
体が動かない。
逃げたいわけじゃないのに、どうしていいか分からない。
胸の奥が、ざわつく。
それでも――
目を閉じた。
受け入れられる気がした。
その瞬間。
息が、うまくできなくなった。
胸が締めつけられる。
何かがおかしい。
でも、それが何なのか分からない。
体が固まる。
指先まで、うまく動かない。
――怖い?
違う。
でも、わからない。
そのまま、ほんのわずかに時間が止まる。
「……直人?」
すぐ近くで、慎太郎の声がした。
そこで、はっと目を開ける。
頬に、何かが触れている感覚があった。
気づいて、手でそっと触れる。
濡れていた。
「……あれ」
どうして。
なんで、泣いてるんだろう。
自分でも分からなかった。
嫌じゃないはずなのに。
逃げたいわけでもないのに。
でも、できなかった。
「……ごめん」
小さく、声が出る。
何に対しての“ごめん”なのか、自分でも分からない。
慎太郎は、少しだけ黙ったままこちらを見ていた。
それから、ゆっくりと距離を戻す。
「……いや」
短く、それだけ言う。
それ以上は、何も言わなかった。
クラゲは、変わらずゆっくりと漂っている。
さっきまでと同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。
「……帰ろうか」
慎太郎が言う。
「うん」
小さくうなずく。
それ以上、言葉は出てこなかった。
館内を出ると、外の空気は思っていたより冷たかった。
しばらく、二人とも何も言わずに歩く。
さっきのことを、どう扱えばいいのか分からない。
言葉にすると、何かが壊れそうな気がした。
「……寒くないか」
少しして、慎太郎が言った。
「え?」
「さっき、濡れてただろ」
イルカショーのことだ、と気づく。
「あ、うん……大丈夫」
少しだけ笑ってみせる。
「そんなに気にしてないし」
「ならいいけど」
それだけ言って、また少し沈黙が戻る。
でも、さっきまでの沈黙とは少し違った。
完全に気まずいわけじゃない。
無理に何かを言わなくてもいい、みたいな。
「ねぇ……慎太郎」
思わず、口を開く。
「ん?」
でも、続きが出てこない。
「……なんでもない」
自分でも、何を言おうとしたのか分からなかった。
「そっか」
慎太郎は、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、それだけで少しだけ救われた気がした。
駅までの道を、並んで歩く。
距離は、さっきより少しだけ空いていた。
でも、それが悪いとは思わなかった。
むしろ、そのくらいの方が落ち着く気がした。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は水族館デート回……のはずだったのですが、結果としては少し苦い終わり方になりました。
三章で「距離が近くなっていく」流れをやったので、四章では「それがそのままうまくいくとは限らない」というところを描いています。
直人自身も、受け入れられると思っていたのに、なぜかできなかった。
その違和感が、この先に繋がっていく形になります。
次は最終章、文研を元の空気に戻すための話になります。
この二人の関係も、どういう形になるのか見届けてもらえたら嬉しいです。




