第三章「戻したいのに」
今回は少し雰囲気が変わる回です。
女性になったことで変わってしまった部室の空気を、直人は元に戻す決意をします。
本人は良かれと思って、奮闘するものの周りの反応はどうなるのか――
そんな“ズレ”を楽しんでもらえたら嬉しいです。
その翌日も、教室の空気はどこか微妙だった。
授業中、黒板を写しながら、僕は昨日のことをぼんやり思い出していた。
――“普通に一緒にいる”って、それが一番危ないやつじゃん。
姉の言い方は軽かったけれど、妙に頭に残っている。
それからもうひとつ。
――“知ってること”と“感じること”って、別じゃない?
あれは結局、どういう意味だったんだろう。
相手がどう思うかは、自分が決めることじゃない。
それはまあ、そうなのかもしれない。
でも、それとこれとは別じゃないだろうか、とも思う。
だって、ついこの前まで普通に男同士で話していた相手だ。
しかも、そのことを相手も知っている。
そんな状態で、急に恋愛だとか、好きだとか、そういうふうになるものなんだろうか。
よく分からない。
分からないけど、昨日からずっと胸の奥に何かが残っていた。
慎太郎も、今の部活の空気に違和感を持っていた。
僕も同じことを思っていた。
だったら、あの空気をなんとかすればいいだけなんじゃないか。
考えれば考えるほど、答えは単純な気がしてきた。
みんなが変に遠慮しているから、おかしくなっている。
だったら前みたいに、普通に話せばいい。
前みたいに、くだらない話をして、好きなものの話をして、変に気を使わなければ、きっと少しずつ戻っていくはずだ。
黒板の文字を写しながら、僕はひとりで小さくうなずいた。
うん。
やってみよう。
その瞬間だけは、なんだか少しすっきりした気分だった。
休み時間になっても、教室の空気はやっぱりどこか変だった。
話している人はいる。
笑い声もある。
でも、あくまでそれぞれの輪の中だけで完結していて、以前みたいな雑な広がり方がない。
少し前なら、誰かの一言から関係ない話題に飛んで、教室のあちこちを巻き込んでいくような勢いがあった。
今は、みんなそれぞれに“余計なところへ踏み込まない”ようにしているみたいだった。
ふと、前の席の男子がスマホで新作ゲームの記事を見ているのが目に入った。
「あ、それ面白そうだよね」
何気なく声をかけると、その男子は一瞬だけ目を丸くした。
「え、ああ……うん」
「前作ちょっと気になってたんだよね。今回は結構変わってるのかな」
「た、たぶん……そうなんじゃない?」
そこで会話は止まった。
別に嫌な感じではなかった。
でも、続きそうで続かない。
「あ、そっか」
僕がそれ以上言わずに引くと、相手もどこかほっとしたような顔をした。
その反応に、少しだけ胸の奥が引っかかる。
前なら、もっと普通に話せたはずなのに。
そのまま視線を落とすと、机の上に置いた手が、自分でも少し気になった。
指先の置き方とか、肘のつき方とか、前とは少し違う気がする。
言葉にしづらいけれど、前みたいに雑ではなくなっている。
隣の席の女子とノートを見せ合っていたときもそうだった。
自然に顔を寄せて、小さな声で話して、相手が何か言うと一緒になって笑っている。
前からそうだっただろうか、と考えて、すぐに分からなくなった。
気にしすぎなのかもしれない。
でも、昨日の姉の言葉を聞いてから、なんとなく自分の振る舞いを意識してしまう。
そんなことを考えているうちに、また彩香と目が合った。
彩香は一瞬だけ「なに考えてんの」とでも言いたげな顔をしてから、小さく肩をすくめた。
たぶん、いろいろ見抜かれているんだろう。
それがちょっと悔しい。
でも、今はそっちじゃない。
問題は、部活だ。
放課後になるころには、僕の中で作戦めいたものがほとんど形になっていた。
やることは簡単だ。
前みたいに、普通に話す。
変に気を使わない。
好きなものの話をする。
それだけでいい。
そう思うと、逆に肩の力が抜けた。
難しく考えすぎていたのかもしれない。
元に戻すというより、“前みたいにやる”だけだ。
鞄を持って立ち上がる。
自分でも分かるくらい、ちょっと気分が軽かった。
教室を出て廊下を歩きながら、僕はひとりで小さく息を吐く。
「よし」
自然に声が漏れた。
今の僕なら、なんとなくいける気がした。
何を根拠に、とは自分でも言えない。
でも、とにかくそう思った。
部室の前まで来て、一瞬だけ立ち止まる。
ドアの向こうから、話し声は聞こえない。
それでも僕は、そのままノブに手をかけた。
大丈夫。
普通にやればいい。
そう思って、ドアを開ける。
「お疲れ様です」
部室の中には、いつもの三人がいた。
西園寺先輩。
慎太郎。
それから、同じクラスの長谷川。
西園寺先輩は机の端で本をめくっていて、長谷川はスマホを見ながら何かのページをスクロールしていた。
慎太郎は、ラノベを開いている。
「おう」
「お疲れ」
「お疲れ様」
三人とも普通に返してくれる。
でも、その“普通”が、やっぱり少しだけきれいすぎる。
雑な広がりがない。
僕は自分の席に鞄を置いてから、わざと明るめの声で言った。
「今日はなんか、みんな静かだね」
長谷川が少しだけ顔を上げる。
「そう?」
「そうだよ。なんか最近ずっとこんな感じじゃない?」
言いながら、僕は慎太郎の方を見る。
慎太郎は少しだけ苦笑した。
「……まあ、そうかも」
その返事に、僕は少しだけ勇気をもらった。
「たまには前みたいに、適当に好きなものの話とかしようよ」
「適当にって」
長谷川が小さく笑う。
「そこ適当でいいのかよ」
「だって、その方が文研っぽいし」
自分で言って、少しだけ楽しくなる。
うん、こういう感じだ。
こういうのが、前の部室だったはずだ。
長谷川が見ていたスマホを、僕は自然に覗き込んだ。
「なに見てたの?」
「ああ、これ。新作ラノベのコミカライズ」
「へえ」
画面のサムネイルには、ちょっと男性向け寄りの派手な表紙が並んでいた。
前なら、僕はこういう話題にここまで自然には入っていかなかったかもしれない。
でも今は、不思議とあまり抵抗がない。
「これ、結構絵うまいね」
「だろ? 内容はかなりアレだけど」
「アレって?」
「いや、その……」
長谷川が少しだけ言葉に詰まる。
たぶん、僕が女の子の姿だからだろう。
でも、ここで引いたらまた同じだ。
「いいよ別に。普通に言って」
「え?」
「漫画の話なんだし」
そう言うと、長谷川は少しだけ目を丸くしたあと、慎太郎と西園寺先輩の顔を見た。
二人とも、何とも言えない顔をしている。
「あー……じゃあ言うけど、ヒロインがちょっと都合よすぎるっていうか」
「都合よすぎる? 主人公の男の子に?」
「このヒロインさ、最初は普通なんだけど」
「うん」
「主人公に助けられたあと、なんか一気に懐くんだよな。
で、そのあとずっと主人公の横にいてさ」
「そうなの?」
「しかもあっちから普通に来るんだよ。
別に狙ってるわけじゃないのに、なんかその気にさせることばっか言うし、
他のやつには普通なのに、主人公にだけ距離おかしいんだよ」
「でもそれ、キャラの性格的にはありじゃない?」
僕はスマホの画面を見ながら言った。
「こういう世界観なら、わりと成立してると思う」
「……えっ」
長谷川が、本気で驚いた顔をする。
「そこ乗ってくるのか」
「なんで?」
「いや、なんでもない」
でも、その“なんでもない”の中に、少しだけ空気の揺れがあった。
前ならここで、もっといろんな意見が飛んだと思う。
僕はその流れを待っていたけれど、なかなか続かない。
だったら、自分で続ければいい。
「慎太郎はどう思う?」
僕はそう言いながら、慎太郎の隣まで移動した。
机の上に開いてあったラノベを、横から覗き込む。
距離が少し近かったかもしれないけれど、たぶん前もこんな感じだったはずだ。
「え?」
「いや、この話」
僕はそのまま、慎太郎の肩越しにスマホを見せるような形になる。
「このヒロイン、都合よすぎるって」
「ああ……」
「距離近すぎてさ。
普通、そこまで来るか?って」
慎太郎は少しだけ固まったあと、視線をスマホに落とした。
「まあ、たしかにそういう見方もあるけど……」
「でも、それがかわいいって思う人もいるよね。
なんか……その気にさせるっていうか」
そう言ってから、自分でも少しだけ引っかかった。
今の言い方、前の僕ならたぶんしなかった。
“かわいい”とか、“好き”とか、そういう感覚の話を、前より自然に口に出している気がする。
でも、その違和感はほんの一瞬で消えた。
「こういうタイプ、好きな人多いと思う」
僕が続けると、慎太郎はちらっとこっちを見た。
「……直人は?」
「え?」
「そういうの、好きなのかって」
「うーん……どうかな。
でもそれってさ、その子は普通にしてるだけなんじゃない?」
少しだけ考える。
「でも、優しいタイプはいいよね。ちゃんと話聞いてくれる感じの」
それを言ったあと、慎太郎の肩がわずかに揺れた気がした。
「……そういうの好きなんだ」
「うん。安心するでしょ、ああいうの」
そこで長谷川が咳払いをした。
「あー、なんか急に話の方向変わってない?」
「そう?」
僕は不思議そうに振り向く。
「変わってるって」
長谷川は、明らかに困った顔をしていた。
でも、ここで変に引く方が変だと思った。
「じゃあ長谷川は?」
「は?」
「どういうの好きなの?」
「なんで俺に飛ぶんだよ」
長谷川が顔をしかめる。
「いや、話の流れで」
「その流れ嫌なんだけど」
そう言いながらも、完全に拒否しているわけではない。
むしろ、どこか落ち着かないだけだ。
僕はそこで、さらに慎太郎の方へ向き直った。
「ねぇ、慎太郎はさ」
慎太郎がびくっとする。
「そういう子、やっぱり、好きになる?」
一瞬、部室の空気が止まった。
「……え?」
慎太郎だけじゃない。
長谷川も、西園寺先輩も、一瞬だけ完全に止まっていた。
「あ、いや」
僕はそこで慌てて言い足す。
「キャラの話だよ? さっきのヒロインの」
でも、たぶんフォローになっていない。
慎太郎は完全に固まっているし、長谷川は「うわ」という顔をしている。
西園寺先輩だけが、少し目を細めてこちらを見ていた。
「……優しい子」
しばらくして、慎太郎が小さく答える。
「え?」
「いや……そういうの、かな」
「へえ」
僕は素直にうなずいた。
「慎太郎っぽいかも」
そう言った瞬間、今度は長谷川が本気で顔をそらした。
なんだろう。
やっぱり何かおかしい。
「……あれ?」
思わず口に出してしまう。
「変なこと聞いた?」
「変っていうか……」
長谷川が言いかけて、途中でやめる。
その代わり、西園寺先輩が静かな声で言った。
「まあ、そのへんにしておけ」
「あ……はい」
その言い方は穏やかだったけれど、はっきりと“止められた”感じがした。
それ以上、誰も話を広げなかった。
長谷川はスマホに視線を落とし、慎太郎は本を開いたまま中身を見ていない。
僕も何を言えばいいのか分からなくなって、自分の席に戻った。
静かだった。
さっきまでより、むしろもっと。
頑張って元に戻そうとしたはずなのに、前より悪くなった気がする。
でも、どこで間違えたのかが分からない。
さっきの会話だって、別におかしなことを言ったつもりはなかった。
たぶん。
いや、でも、みんなの反応を見る限り、やっぱり何か変だったんだろうか。
胸の奥が、少しだけざわつく。
結局その日は、そのあとも大きな会話は起こらなかった。
誰かがぽつりと話題を出して、誰かが短く返して、それで終わる。
前より少しだけ気まずい静けさが、部室の中に残っていた。
部活が終わって帰るころには、外はもう暗くなっていた。
校門を出て少し歩いたところで、後ろから慎太郎が追いかけてくる。
「直人」
「え?」
振り向くと、慎太郎が少しだけ息を切らしていた。
「どうしたの?」
「いや……その」
慎太郎は一度言葉を切って、視線を少しだけ逸らす。
それから、意を決したみたいに言った。
「今度さ」
「うん」
「……二人で、どこか行かないか」
その言葉に、僕は一瞬だけ目をぱちぱちさせた。
「二人で?」
「ああ」
慎太郎の耳が、街灯の下でも分かるくらい赤い。
「別に、その……嫌ならいいんだけど」
なんだろう。
今日は本当に、慎太郎がずっと変だ。
でも、断る理由も特になかった。
「いいよ」
そう答えると、慎太郎は明らかに固まった。
「……え?」
「行く」
僕は首を傾げる。
「どこ行くの?」
「え、あ……」
慎太郎は一瞬だけ視線を泳がせてから、
「水族館、とか」
と言った。
「水族館?」
「だ、ダメか?」
「ううん、いいと思う」
むしろ少し意外だった。
本屋とかゲームショップとか、そういう方向だと思っていたから。
「なんか珍しいね」
「そうかも」
慎太郎は少しだけ笑った。
でも、その笑い方もやっぱりどこか落ち着かない。
僕はそのときも、深くは考えていなかった。
ただ今日一日、部活のことはうまくいかなかったけれど、
慎太郎がこんなふうに自分から誘ってくれるのは少し嬉しかった。
「じゃあ、また決めようか」
「ああ」
短く返して、慎太郎は今度こそゆっくり歩き出した。
僕もその横を並んで歩く。
部室の空気は、結局戻らなかった。
むしろ少し悪くなった気さえする。
なのに、その帰り道だけは、奇妙なくらい落ち着かなかった。
慎太郎との距離も、部室の空気も、自分自身のことも。
何もかもが少しずつ、元の位置からずれていっている気がした。
でも、そのズレが嫌なのかどうかは、まだ自分でもよく分からなかった。
三章を読んでいただきありがとうございます。
今回は直人がいろいろと動いてみた結果、むしろ空気が変な方向に進んでしまう回でした。
本人に悪気はないのに、なぜか状況がこじれていく感じ、書いていて楽しかったです。
そして最後、ついに慎太郎が一歩踏み出しました。
ただ、直人はまったくそのつもりがないままついていってしまうという、ちょっと危うい状態です。
次の四章は、そのままの流れで“デート回”になります。
ここからさらに関係がどう変わっていくのか、楽しんでいただければ嬉しいです。




