第五章「前みたいには戻れない」
いつも読んでいただきありがとうございます。
オタサー姫2、最終話となります。
水族館の出来事を経て、少しずつ揺れていく直人と、変わりきれない部室の空気。
その中で、直人がどんな言葉を選ぶのか――。
最後まで、見届けていただけると嬉しいです。
日曜日の夜は、なかなか寝つけなかった。
布団に入って目を閉じても、水族館の光景ばかり思い出してしまう。
売店で見た小さなイルカのストラップ。
大きな水槽の前で並んで立ったこと。
イルカショーで慎太郎が水をかぶって、それを見て思わず笑ってしまったこと。
楽しかったはずなのに。
最後に思い出すのは、やっぱりクラゲのエリアだった。
暗い通路。
淡い光。
近すぎた距離。
あのとき、自分はたしかに受け入れようとした。
嫌じゃないとも思った。
でも、できなかった。
それがどうしてなのか、まだ分からない。
何が怖かったのかも、何が嫌だったのかも、うまく言葉にできない。
そもそも、本当に怖かったのかすら怪しい。
ただ、気づいたら泣いていた。
「……なんなんだろう」
小さく呟いても、答えは返ってこない。
天井を見上げたまま、僕はため息をついた。
明日、学校で慎太郎と顔を合わせる。
そのことを考えるだけで、胸の奥が少し重くなった。
会ったら、何を言えばいいんだろう。
昨日のことを謝るべきなのか。
それとも何もなかったみたいに振る舞うべきなのか。
どっちが正しいのか分からない。
でも、それ以上に。
部室のことも、まだそのままだ。
僕がなんとかしようとして、逆に変なことになって。
それでも何もしないままでいるのも嫌だった。
前みたいに戻したい。
でも、どうすればいいのか分からない。
考えれば考えるほど、頭の中でいろんなことが絡まっていく。
結局その夜は、眠ったのか眠っていないのか分からないまま朝になった。
月曜日の朝。
制服に着替えて、ぼんやりしたまま髪を整えていると、部屋のドアが開いた。
「おはよう」
美和だった。
「……おはよう」
「なに、その顔。寝てないでしょ」
「ちょっと」
美和は軽く笑いながら、僕の後ろに回って髪をまとめる。
「で? どうだったの、水族館」
その言い方は、あくまで軽かった。
でも、たぶん何かを探っている。
「……楽しかったよ」
嘘ではない。
実際、楽しかった。
でも、そこで言葉が止まってしまう。
「ふーん」
美和の指が、僕の髪を整える手を少しだけ止めた。
「それで?」
「……それで、って」
「なにかあったんでしょ?」
振り返らなくても分かる。
きっと、察している顔をしている。
「別に……」
「別に、って顔じゃないんだよね」
美和はそれ以上強く聞いてこなかった。
ただ、鏡越しに僕を見て、少しだけ息をつく。
「まあ、言いたくないならいいけど」
「うん」
「でも、変に一人で抱え込むタイプだから、あんた」
「そんなことないよ」
「あるよ」
即答だった。
思わず少しだけ口を尖らせる。
そんな僕を見て、美和はくすっと笑った。
「ほんと、分かりやすい」
最後に髪を軽く整えてから、ぽんと肩を叩かれる。
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
部屋を出る直前、後ろからもう一度声がした。
「無理にちゃんとしなくていいからね」
その言葉が、少しだけ残った。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板の文字を追っているつもりでも、ふとすると別のことを考えている。
慎太郎のこと。
部室のこと。
自分のこと。
気づけば、ノートの端に同じ線を何本も引いていた。
昼休みになってしばらくしてから、机の横に影が落ちる。
「またボーっとしてる」
顔を上げると、彩香がパンを片手に立っていた。
「してない」
「してるよ」
あっさり否定される。
彩香はそのまま僕の前の席に腰かけて、封を開けたパンを一口かじった。
「朝からずっと上の空じゃん」
「そんなに分かる?」
「分かる。分かりやすすぎ」
そう言って、少しだけ面白そうに目を細める。
「……なんかあった?」
「なんかっていうか……」
そこで言葉に詰まる。
言いたいような、言いたくないような。
でも、何も言わないままでいるのも苦しい。
「人を好きになるって、よく分かんないなって思って」
結局、出てきたのはそんな曖昧な言い方だった。
彩香が一瞬だけ動きを止める。
「へえ」
すぐに、ニヤッと笑う。
「なにそれ。やっとそこ考えるようになったんだ」
「いや、別にそういう意味じゃなくて」
「どういう意味でも似たようなもんでしょ」
パンをもう一口かじりながら、彩香は僕を見る。
「で、あんたはどうしたいの?」
「どうしたいって……」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
それが恋なのかどうか、好きなのかどうか、そんなことより先に頭に浮かんだのは、部室のことだった。
「部活がさ」
「うん」
「このままなの、やっぱり嫌なんだよ」
彩香は何も言わない。
「なんか、みんな変に気を使ってて。僕が何かやろうとすると余計おかしくなって。もう、何が正解なのか分からなくて」
言いながら、自分でもズレている気がした。
でも、今いちばん苦しいのは本当にそっちだった。
彩香は少しだけ黙ってから、肩をすくめた。
「逃げてるだけじゃない?」
「え?」
「好きとかそういう話になると困るから、とりあえず部活の問題にしてるだけに見える」
ぐさっと刺さる言い方だった。
「……そんなこと」
「ないって言い切れる?」
そこで言葉が止まる。
言い切れなかった。
彩香はその反応を見て、小さく笑った。
「ま、別にいいけど」
「いいんだ」
「でも部活をどうにかしたいっていうのは本当なんでしょ?」
「それは、本当にそう」
即答できた。
彩香は少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあ、中途半端にやるのやめなよ」
「中途半端?」
「前みたいにしたい、じゃなくてさ。今のまま、ちゃんと話せばいいじゃん」
「……今のまま?」
「そう。前に戻るとか、もう無理でしょ」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
でも、否定できない気もした。
「ちゃんとやりたいなら、ちゃんとやれば?」
最後にそう言って、彩香は立ち上がる。
「ま、頑張って」
「軽いなあ」
「重く言ってほしいの?」
「それも嫌だけど」
「でしょ」
彩香は笑って、そのまま教室を出ていった。
残された僕は、しばらく机の上を見つめたままだった。
前に戻るとか、もう無理。
その言葉が、昼休みの終わりまでずっと頭の中に残っていた。
放課後。
部室の前に立つと、いつもより少しだけ息が詰まる感じがした。
ここを開ければ、またあの空気がある。
水族館のことも、今日の昼のことも、全部そのまま持ち込まれる。
それでも――逃げるわけにはいかなかった。
ドアに手をかける。
「お疲れ様です」
できるだけ普通の声で、そう言って中に入る。
「おう」
「お疲れ」
「お疲れ様」
西園寺先輩と長谷川と、慎太郎がいた。
いつも通りの返事。
でも、どこか少しだけぎこちない。
僕は鞄を置きながら、少しだけ明るく言った。
「なんか今日も静かだね」
「まあ、そんなもんじゃない?」
長谷川が軽く返す。
そのまま会話が途切れそうになる。
――だめだ、このままだとまた同じだ。
「長谷川、今日は何読んでるの?」
「え? ああ、この間と同じやつ……」
長谷川がスマホを取り出して、画面を見せる。
前にも見たような、ラノベのコミカライズだった。
「これ、やっぱりヒロインがちょっと都合よすぎるのかな?」
「あー、一度助けられただけで主人公にベッタリなヒロインね」
できるだけ自然に返す。
前みたいに、軽く乗る。
でも。
なんとなく、会話が続かない。
「そう、なんかさ、主人公だけに距離近すぎるんだよね」
長谷川が言う。
「他のやつには普通なのにさ」
「……ああ」
そこで慎太郎が、短く相槌を打った。
でも、視線はこっちを見ていない。
少しだけ、胸の奥がざわつく。
「まあ、そういうのがいいんじゃないの?」
軽く笑ってみせる。
でも、うまく笑えている気がしなかった。
西園寺先輩が、そのやり取りを黙って見ている。
たぶん、分かっているのかも。
僕が、無理にやっていること。
それでも、止めない。
――なら。
僕は少しだけ身を乗り出した。
「でもさ、今のってさ」
言葉を続ける。
「結局、そういう現実ではありえないキャラがいるから、盛り上がれるわけじゃない?」
「まあ、現実にはあんまりいないよな」
「だよね」
頷きながら、さらに続ける。
「でも、この間もこのヒロインの話を途中で止めたじゃん?」
少しだけ間を置く。
「別にさ……ああいうのって、そこまで気にして止めるような話でもなくない?」
その瞬間。
空気が、ほんの少しだけ止まった。
――やってしまった、と思った。
でも、もう止められなかった。
「変に気使ってる感じ、ちょっと嫌じゃない?」
誰もすぐには返さない。
長谷川が少しだけ困ったような顔をする。
慎太郎は、相変わらずこっちを見ない。
西園寺先輩だけが、少しだけ目を細めて静かにこちらを見ていた。
僕は、慌てて言葉を足す。
「いや、そんな深い意味じゃなくてさ」
「ただ、なんか……普通に話せたらいいなって」
「……してるだろ、一応」
長谷川が小さく言う。
「してるけど、なんか違うじゃん」
その一言で、また空気が固まる。
分かっていたのに。
こうなるって、分かっていたのに。
どうしても止められなかった。
沈黙。
喉が詰まる。
「……僕」
一瞬言葉に迷ってから、
「ちゃんとやりたかったんだよ」
気づいたら、そんな言葉が出ていた。
「前みたいにさ、変に気を使わなくてもいい場所にしたくて」
視界が少し揺れる。
「でも、なんか全部ずれてて……」
言葉がうまく繋がらない。
「やろうとすると、余計変になって」
息が乱れる。
「僕がいるから、変になってる気がして……」
そこで、一度言葉が途切れた。
誰も何も言わない。
それが、余計につらかった。
「……違う、そうじゃなくて」
うまく言えない。
言いたいことがあるはずなのに、言葉にならない。
「なんか……」
声が震える。
「ちゃんとやりたくて……」
それでも足りない。
何かが足りない。
胸の奥にあるものが、そのまま出てこない。
もどかしくて、苦しくて――
「……僕、なんか楽しくなくて」
その瞬間、全部がこぼれた。
ぽろっと、涙が落ちる。
自分でも驚くくらい、あっさりと。
「……え」
長谷川が小さく声を出す。
でも、それ以上何も言えない。
僕も、もう続けられなかった。
「ごめん……」
また、それしか言えない。
何に対してなのかも分からないまま。
そのとき。
「……無理すんな」
すぐ近くで、慎太郎の声がした。
初めて、こっちを見た気がした。
でも、それ以上は何も言わない。
ただ、それだけだった。
西園寺先輩が、軽く息をつく。
「はいはい、ストップな」
穏やかな声だった。
「今日はもう、そこまででいいだろ」
そう言って、少しだけ笑う。
「いきなり全部解決しようとすんなって」
長谷川が、ほっとしたように肩の力を抜く。
「……まあ、そうっすね」
「とりあえず今日は普通にやろうぜ」
その一言で、少しずつ空気が戻っていく。
ぎこちないけど、止まってはいない。
僕はしばらく俯いたままだった。
顔を上げるのが、少し怖かった。
でも。
誰も、責めてこなかった。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
帰り支度をして、部室を出る。
廊下を歩いていると、後ろから声がした。
「直人」
振り返る。
慎太郎だった。
「……帰るか」
それだけ。
いつもと同じ言い方だった。
「うん」
小さく頷く。
二人で並んで歩き出す。
最初は、何も話さなかった。
足音だけが、静かに響く。
気まずい、というよりは――
どう話していいか分からない、そんな感じだった。
しばらくして。
「……今日さ」
慎太郎が口を開く。
「ちゃんとやってたと思うけど」
その言い方は、あくまで軽かった。
でも、ちゃんと気にしているのが分かる。
「……そうかな」
「うん」
短い返事。
それ以上、何も言わない。
でも、それで十分だった。
少しだけ、胸の重さが軽くなる。
「……ありがと」
自然に、そう言えた。
慎太郎は、少しだけ視線を逸らしてから、
「あぁ」
とだけ返した。
それ以上、会話は続かなかった。
でも、無理に続ける必要もなかった。
駅の前で立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「うん」
それだけ言って、別々の方向に歩き出す。
少しだけ振り返りそうになったけど、やめた。
まだ、分からないことばかりだ。
自分のことも。
慎太郎のことも。
でも。
完全に終わったわけじゃない。
そう思えただけで、少しだけ楽だった。
夜の空気を吸い込みながら、僕はゆっくりと家への道を歩いた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
オタサー姫2は、「空気を変えることの難しさ」と「変わってしまった関係」をテーマに書いてきました。
大きな事件が起きるわけではなく、少しずつズレていく感覚や、どうにもできない距離感みたいなものを描きたかった作品です。
最終的に、何かが完全に解決したわけではありません。
でも、それでも「一緒にいられる関係」は残っている――そんな終わり方にしました。
そして、この続きになりますが、
現在「オタサー姫3」を構想中です。
時期としては、夏頃。
海合宿や水着回をやりつつ、新しいキャラクターも登場させる予定です。
今回とはまた少し違った空気になると思いますので、楽しみにしていただければ嬉しいです。
引き続き、よろしくお願いします。




