6.湖のほとりで
その後わたくしたちが昨日と同じように野営の準備をしていると、人魚のような姿をしたウンディーネ族の一人が近づいてきました。魚の下半身は歩くのには向いていませんので、両腕を使って上手に這っています。わざわざそうやってこちらまで来たということは、何か用があるのでしょうか。
今一番手が空いているわたくしが湖を見ないようにそろそろと近づくと、そのウンディーネ族は這うのをやめ、わたくしを見上げました。
「魔王様、良ければ少し話さない?」
見ると、それは先ほど別れたウンディーネ族の一人で、わたくしと同年代の見た目の女性でした。細かく縮れた金髪と、黒目がちの切れ長の目が魅力的な方です。
「ええ、何を話しましょう?」
魔族たちと交流するのはわたくしの仕事の一つですので、わたくしは即座に了承しました。彼女はにっこりと笑い、さらにわたくしの顔を覗き込んできます。
「聞きたいことがあったの。魔王様、さっきからずっと湖を見ないようにしているでしょう? どうしてなのかなって思って」
やはりばれていましたか。しかし前のわたくしの話はあまり大っぴらにはできないので、そっとぼかしておきます。
「実は、水が少し苦手なのです。わたくしは飛べる分、泳ぐことがなくて」
「それは残念ね。水の中も楽しいのよ? 今なら時間があるでしょう、私が案内するわ」
そう言うと彼女はくるりと方向を変え、ぺたぺたと跳ねながら水際へ這っていきました。
せっかくのお誘いなので、恐ろしくはありますが彼女についていくことにします。魔族たちと交流するのはわたくしの仕事です。義務です。個人的な感情は排除です。
水中に下半身を沈め笑顔で手招きする彼女の手をとり、わたくしは意を決して湖に足を踏み入れました。飛ぶときと同じ要領で風の膜で全身をすっぽりと覆っていますから、濡れることも窒息することもありません。そもそも水の感触を感じることもありません。
それでも恐ろしいのです。前のわたくしの最期の記憶、夜の湖に沈んでいった時の感触を思い出しそうになってしまいます。今のわたくしには不要な記憶ですのに。
恐怖に震えそうになるのを必死でこらえていると、肩をとんとんと叩かれました。わたくしの手を引いている彼女が、わたくしの様子がおかしいことに気づいて心配していたようです。
わたくしは魔王。この程度で怖がっていてはいけません。水中の魔族たちとも親交を深めなければなりません。
そろそろと顔を上げ、恐る恐る辺りを見回したわたくしは思わず感嘆の声を上げました。
透き通った水中に月の光が差し込み、水の流れにゆらゆらと揺らめいています。闇をはらんだ暗い青と月光に照らされた明るい青とが交互に入れ替わりながら複雑な模様を描くさまは、それだけで息を飲むほど美しい光景でした。
ときおり不安がよみがえりそうになりますが、その度にわたくしに触れている彼女の感触が大丈夫だと告げてきます。
水の中に慣れてきたわたくしは、少しずつ遠くに目を凝らしてみました。すると、その青の中を様々な姿のものたちが泳いでいることに気づきました。
長いひれを優雅にたなびかせている大きな魚や、軽やかに泳ぐ人魚たち、形を変えながら気ままに流れる透明で不定形の水魔たち。彼らが泳ぐ様はとても幻想的でした。
わたくしに気づき手やひれを振って挨拶する彼らに応えて手を振り返しているうちに、わたくしは自分の中の恐怖心が薄れていることに気づきました。隣でふわふわと浮いているウンディーネ族の彼女もそれに気づいたらしく、満足そうな顔をしています。そして彼女は魔法で話しかけてきました。
『ね、水の中も楽しいでしょう?』
『本当ですね。ありがとう、こんな素敵な世界を教えてくれて』
『どういたしまして、魔王様。明日もよろしくね』
そう言う彼女は、小首をかしげてにっこりと笑いました。今日、彼女に会えてよかった。わたくしは心からそう思いました。
水中から戻り彼女と別れて夕食をとった後、わたくしは転移の門に近づいてみました。わたくしの膝の高さから顔の高さの辺りの空中に、まるで油の膜のように揺らめく虹色の平面が浮かんでいます。ちょうど一人が通り抜けるのにちょうどいい大きさです。
その虹色の平面に手を押しあてると、何の抵抗もなく腕まで突き抜けました。今、わたくしの腕は人間界に出ているはずです。人間界側から見ると、空中に浮かんだ虹色の平面から腕が一本にゅっと生えているように見えているのでしょう。
人間界。前のわたくしがいた場所です。特に懐かしさは感じませんが興味はあります。ちょっと見てみるくらいはいいですよね。
そう思ってそろそろと体を門に滑り込ませようとしていたところ、カティに見つかってしまいました。いつもより低い声でカティがじりじりと迫ってきます。
「何をなさってるんですか? 昨晩といい今といい、どうもリュリ様は浮かれていらっしゃるようですね」
どうやら昨日に続きお説教になりそうです。今の行動は本当に出来心でしかないので、潔く叱られるとしましょう。
そんなわたくしの決意とは裏腹に、カティはすっと真顔になると静かに言いました。
「リュリ様、あなたは人間界に行きたいと本当にお考えですか?」
「興味はあります。ですがわたくしは魔王、うかつに人間に関われば何が起こるか分かりません。……先ほどの行動は、ちょっとした出来心です」
「そうですか、安心しました。どうか軽はずみな行動は慎んでくださいね」
そう答えたカティは複雑な表情をしていました。安心と不安の両方を表すかのように、瞳が揺らいでいます。疲れているのでしょうか。大事でなければよいのですが。
次の日の朝食後、わたくしは昨日のウンディーネ族たちと共に転移の門の封鎖を始めました。実はわたくしも門を封鎖するのは初めてなのですが、手順は意外と簡単です。障壁の魔法を発動させ、それを虹色の平面に重ねて固定すれば完成です。
まずはわたくしが障壁の魔法を発動します。大きさは虹色の平面をすっぽりと覆うくらい。この障壁の魔法の使い手が意外に少なく、ウンディーネ族には十分な大きさの障壁を作れる者がいなかったのだそうです。そのため、わたくしたちの到着を待っていたのだとか。
次にこの障壁を転移の門に重ね、手で触れながら固定の魔法を少しずつかけていきます。この固定の魔法を使うにはそこそこ高い魔力が必要になりますので、わたくしとウンディーネ族以外は見学です。カティもぎりぎり参加できるくらいの魔力はあるのですが、彼はルーの操縦など仕事が多いので、ここは見学にまわってもらっています。
そういう訳で、わたくしたち四人はひたすら障壁を固定していました。両手で固定の魔法を発動させながら障壁と転移の門に触れると、触ったところの虹色が薄くなり銀色に輝き始めます。全体をまんべんなく触り、虹色が見えなくなるまで続けます。
……とても地味な作業です。とても繊細で高度な技術だというのに、はたから見れば子供が壁に泥の手形をつけて遊んでいる様と大差ありません。
ひたすら固定の魔法を発動し続け、転移の門の封鎖が完了したころには昼近くなっていました。
ウンディーネ族は地上では這って移動しますので、転移の門の下半分にしか手が届きません。そのため、わたくしはずっと腕を上げて上方を触り続けることになり、おかげですっかり腕が疲れてしまいました。
ずっと同じ動きを続けていると無の境地に至れるということを知ることができたのが本日の収穫です。
そして転移の門を封鎖する作業は動きこそ地味ですが、意外と魔力を消耗します。転移の門の封鎖自体が初めてだったこともあって、疲れてしまったわたくしは次の門へ向けてルーに乗り込むが早いか、そのまま眠ってしまいました。ルーの背中は、少し硬いですが羽毛が気持ちよく、中々に良い昼寝場所でした。
うとうととしながら薄く目を開けると、目の前に兄様の胸板がありました。わたくしを守ろうとしているのか、単にいつものお昼寝なのか。
そして肩のあたりにはルーのものとは違う羽の感触があります。寝返りを打つと、今度はパーシェが目の前で寝ていました。わたくしは彼らに挟まれて眠っていたようです。
信頼できる護衛たちに守られている安心感とともに、わたくしは改めて深い眠りに落ちていきました。




