5.平和な旅の一日
天幕での目覚めは思いのほか良いものでした。天幕全体には水を弾く魔法をかけた敷布を敷きつめ、寝床には魔界羊の毛皮が敷かれていました。
魔界羊は一年中雪と氷で閉ざされた山に生息する獣で、防水性に優れた長くて柔らかい毛が密に生えた毛皮を持っているため、最高級の防寒具として重宝されているのです。普段魔王城で生活する分にはここまでの防寒具は必要ないので、魔界羊の毛側には初めて触りましたが、聞いていた以上に暖かでした。むしろ少し暑いくらいです。
わたくしとパーシェはその毛皮の上に寝ころび、やはり最高級の柔らかい手織りの毛布をかぶって眠りについたのです。いつもの寝床より少々固いですが、それでもわたくしたちはゆっくり眠ることができました。パーシェにいたってはまだ眠っています。
こうしていると、本当に旅に出たんだなという実感が湧いてきます。前のわたくしはそもそも王宮から出られませんでしたし、今のわたくしも魔王城から日帰りできる距離までしか出かけたことがありません。実は密かに憧れていた泊りがけの旅をする夢が、こんなことでかなうなんて。勇者に感謝するべきかもしれません。
もう少しこのまま感傷に浸っていたくもありますが、そろそろ朝の支度をした方がよさそうです。まずはパーシェを起こさなくては。
「ほらパーシェ、朝ですよ」
「んーあと少し……あったかい……ここから出たくない……」
「レッガはもう朝食を作り始めているようですよ?」
そう指摘すると、さっきまで目を閉じてむにゃむにゃと何事かつぶやいていたパーシェが勢いよく飛び起きました。危うくぶつかるところでした。
「あー本当だ、朝ごはんのにおい! あ、リュリ様おはようございます」
目覚めたと同時にいつもの元気いっぱいな様子に戻った彼女を連れて、わたくしは天幕を出て朝食の席につきました。
レッガの手による朝食もまた、昨日の夕食に劣らず美味なものでした。材料は魔王城の食糧庫から持ってきたものなので、この素晴らしいできばえは純粋にレッガの腕によるものなのでしょう。この旅が終わったら彼を魔王城に招くことを真剣に検討しようと思います。
普段は冷静沈着であまり感情を表に出さないカティですら、この食事には感動しているようでした。顔には出ていませんが青灰色の尻尾がぴんと立っています。
カティの場合、尻尾に一番感情が出るのです。瞳の大きさでも感情を推し量ることは可能ですが、これは彼にかなり近づかないとよく見えませんので、やはり尻尾で判断するのが簡単です。
そうしてわたくしたちが朝食を終え野営の後片付けをしていると、草原の少し離れたところでくつろいでいたルーがとことことこちらへ歩いてきました。と言っても彼はちょっとした小山くらいの大きさなので、彼が歩くたび地面がわずかに揺れている気がします。
ルーはわたくしたちの前まで歩いてくると、地面に伏せました。
『おはようございます。きょうもがんばってとびますね』
今日もよろしく、と大きな嘴を撫でてやると彼はクゥ、と一声鳴きました。彼からすれば小さな声だったのでしょうが、間近にいたわたくしは風圧で少しよろめきました。本当にルーは大きいですね。
ルーの背中に乗って移動するのも二日目、昨日はみな不慣れな様子で大人しく座っていましたが、今日はもうすっかり慣れたようでそれぞれ好き勝手にくつろいでいます。
カティは昨日と同じでルーの首のあたりに座り、方向を指示したり斥候たちと連絡をとったりしているようです。わたくしには手伝えそうにもないので、少し申し訳なく思いながらもそっとしておきます。
兄様は寝ています。落ちないようルーの羽毛を腹のあたりにくくりつけ、そのまま仰向けになってお昼寝中です。昔から兄様は時間があるとお昼寝をしていました。
パーシェはまた魔法の道具をいじっています。使い方の復習をしているようですが、たまに間違えて小さな炎や氷が妙な具合に飛び出しています。実戦ではしくじらないでくださいね。
レッガは収納していた食材を取り出し、下ごしらえを始めました。ルーの背中はそれなりに揺れていますが、彼はこの状況でも危なげなく下ごしらえを続けています。ここで彼を手伝うのはわたくしには無理ですね。手を切るどころでは済まないでしょうし。
わたくしも少し暇になってきたので、収納魔法で持ってきた本を取り出しました。わたくしも一応は収納魔法を使えるのです。レッガのように旅道具一式を丸ごと収納するのはさすがに難しいですが。もしかしたら暇つぶしが必要になるかもしれないと思って持ってきたのですが正解でした。
ぱらぱらと本をめくっていると、それを目ざとく見つけたパーシェが近づいてきました。
「リュリ様あ、その本ってもしかして」
「ええ、この間出た新刊ですよ」
「ああ、それ続きが気になってたやつです!」
「読み終わったら貸しましょうか?」
「ぜひお願いします!」
私が読んでいたのは魔界きっての売れっ子作家の最新作でした。作者の正体は謎に包まれており、それがまた作品の魅力を増しているとも言われています。この作者は思わず涙がこぼれるような悲恋ものを得意としており、魔界の乙女たちに絶賛されています。
「恋愛小説なんか何が楽しいんだ?」
わたくしたちが騒いでいたせいか、兄様が起きてこちらを見ています。
「このお話、とっても素敵なんですよお。ドライアド族の乙女とサラマンダー族の青年の許されざる恋! あの人と出会わなければこんな悲しい思いをしなくて済んだのに、って言ってヒロインが一人静かに泣く場面とか、もう涙なしには読めないんですってば!」
パーシェがくねくねと身をよじりながら熱く説明しています。涙にくれるヒロインの演技をしているのでしょうか。
兄様はそんなパーシェを見てうんざりしたような顔になると、わたくしの方に目線を動かしました。
「で、お前もそういう悲恋にあこがれたりするのか?」
「あこがれ……どうでしょうか。このような恋はとても美しく、胸を打つものですけれど……わたくしは最後には幸せになれる恋が好きですね、物語であっても」
「えーっ、悲恋は悲恋のままで終わる方が素敵だと思いまーす」
パーシェ、この点についてはわたくしたちは分かり合えないようですね。
そのままわたくしたちは転移の門につく直前まで、興味を覚えたらしい兄様を加えて恋愛小説の話に花を咲かせたのでした。
さて、最初の転移の門です。覚悟はしていましたがすぐそばに湖があります。暗く澄んだ水面を見つめていると気が遠くなりそうです。ああ、めまいが。
思わずよろめいたわたくしを兄様が抱きとめて、そのまま肩の上に担ぎ上げてくれました。兄様の力が強いのは知っていましたが、片腕でわたくしを持ち上げたのには驚きました。
「この辺りにウンディーネ族が来ているはずですが」
カティが水際に立って湖の方を見ています。水精族ことウンディーネ族は魔界の水中に住む種族で、姿形も能力も様々です。本来ならばもっと細かくいくつかの種族に分かれるべきなのでしょうが、本人たちが全員で一つの種族であると主張しているため、そのままになっています。
できるだけ湖を直視しないように遠くを見ていると、カティのすぐ前の水面が揺れ、中から人のような上半身が生えてきました。それも三つも。わたくしは動揺を隠すのに精一杯です。
しかしよく見ると水中に魚のような下半身が見えていますし、鱗で覆われた腕にはひれも生えています。彼らは溺れかけの人ではなく半人半魚の人魚ですね。ええ、分かっています。分かっていますとも。
「リュリ様、彼らはウンディーネ族の中でも特に魔法に優れた者たちです。彼らがこちらの門の封鎖をお手伝いします。今日はもう遅いので、明日改めて封鎖に取りかかってください」
「わかりました。みなさま、明日はどうぞよろしく」
実はわたくしはまだ湖を直視しないよう頑張っているのですが、幸運なことに彼らには気づかれなかったようです。




