36.嵐の前
会議室を出たわたくしは、クリスたちを客間に案内すると自室に戻りました。本当はカティたちの手伝いをしたかったのですが、「まずは体をしっかり休めてからです」と一蹴されてしまいました。なので仕方なく、こうして自室でおとなしく休んでいるのです。
ここを旅立ってからどれだけの日にちが経ったのでしょうか。ほんの少しの間に、驚くほど色々なものが変わってしまいました。
あれだけ必死で魔界から排除しようとした勇者は、今では魔王城の客人になっていますし、わたくしは一生会うことなどなかったであろう人間界の宰相に会おうとしています。
ずっと囚われていたシャトとカティは解放され、親子揃って宰相に会うための手はずを整えるのに余念がありません。カティのあの聡明さはシャト譲りだったらしく、彼らが二人しててきぱきと情報を処理している様は圧巻でした。
そんなことを思いながらテラスで風に吹かれていると、部屋の扉が控えめに叩かれるのが聞こえました。どうぞ、と声をかけると、扉を開けてカティが入ってきました。彼はそのままテラスまで出てきます。
「まだお休みではなかったのですか、リュリ様」
「実は、こうやってゆっくりするのが久しぶりすぎて、何だか落ち着かないのです」
「そんなことだろうと思いましたので、こちらをお持ちしました」
そう言って彼が掲げたのは一瓶の果実酒でした。汁気の多い小さな実をふんだんに使ったもので、さわやかな酸味と濃厚な甘みが特徴です。彼は用意していたらしい杯にそれを注ぐと、しなやかな手つきで差し出してきました。
杯を受け取って一口飲むと、口内に果実のかぐわしい香りが広がりました。その味に、かつて人間界でクリスがくれた果実を思い出して、つい笑みがこぼれます。
「思い出し笑いですか、リュリ様」
カティはそう言って苦笑しました。
「少しお会いしない間に、貴女はずいぶんと変わられましたね。今の思い出し笑いもそうですが、とても楽しそうにしておられます」
「そうでしょうか?」
「ええ。以前の貴女は何につけ穏やかで、おっとりとされていました。けれど今のリュリ様はとても楽しそうにしておられるように思えるのです。きっとあの勇者……クリスの影響なのでしょうね」
傍から見て分かるほど、わたくしは変わってしまったのでしょうか。自分ではよくわからないのですが。
「ああ、それに意思の強さもですね。ベル殿相手に怒鳴りあうリュリ様など、とても想像がつきません」
「あの時は必死だったのです。クリスがウンディーネ族にさらわれかけた直後でしたから」
「その節は申し訳ありませんでした。勇者を捕らえよという通達はもう取り消してあるので、ご安心ください」
「いいのです、その通達もわたくしの身を案じてのことだったのでしょうから。それに通達が取り消されたのであれば、もう安心です」
わたくしがそう言うと、カティは明らかにほっとした様子で胸をなでおろしていました。
「そう言えば、あなたに謝っておかねばと思っていたのです。あなたの母のことも、その首飾りのことも知らず、ずっとあなたが一人で苦しんでいるのに何もしてあげられませんでした。気づいてあげられなくてごめんなさい」
「謝らないでください。気づけなくても仕方のないことでした。私はそれらをひた隠しにしていたのですから。それに、もしリュリ様が気づかれたとしても、王都の宰相の館に囚われている母を救い出すことなど不可能だったでしょう」
言われてみればその通りかもしれません。けれどわたくしは、彼のこれまでの苦しみを考えると、とても黙っていることなどできませんでした。
わたくしのやり場のない思いを感じ取ったのでしょう、カティが明るく微笑んで話を続けました。
「それにしても、今回母が救われたのは奇跡と言っていいような偶然の結果でした。貴女が私と離れて勇者と行動を共にし、その勇者が宰相に追われ、真実を知るために宰相に会いに行こうと考えた。これらのうちどれか一つでも欠ければ、今のこの状況はなかったでしょう」
彼は指を一本ずつ立てながら理路整然と説明しています。そして彼は、手を胸の前で組むと静かに頭を下げてきました。
「ありがとうございます、貴女にはどれほど感謝してもしきれません。そして不本意ではありますが、私は勇者にも感謝すべきなのでしょう」
そう言いながら顔を上げたカティは、ほんの少し眉をひそめていました。そんなに不本意なのでしょうか。それがおかしくて小さく笑うと、彼はそれを見とがめてきました。
「リュリ様、笑わないでください。そもそも勇者は魔王の敵なのですから、私が彼に複雑な思いを抱くのは仕方がないのです」
「それでも、きっとあなたとクリスたちは友人になることができると思うのです。パーシェたちは、もうすっかり彼らと打ち解けましたし」
「私には立場がありますし、パーシェたちのようにはいきませんよ」
「立場というなら、わたくしはどうなるのですか」
そこまで言って、わたくしはこらえきれずに笑いました。つられてカティも笑います。彼にしては珍しい、子供のような笑みでした。
次の日、朝食後すぐにわたくしたちはカティに会議室に集められました。どうやらカティとシャトは、あれからずっと今後について検討していたようでした。けれど二人とも疲れは全く見せず、軽やかな足取りで資料を広げると説明を始めました。
「現在、宰相に連絡をとっているところです。私が魔界に送られる時に非常用の連絡手段として渡された魔法の道具がありましたので、それを使いました」
カティはそう言うと、机の上に広げた大きな地図の一点を指しました。
「宰相と会う地点としては、この門を指定しています。この門は魔王城から一番近くにありますが、それゆえに宰相と戦いになった場合であっても、魔界の他の地域への被害を小さくできます」
「あの男は、目の前の勇者を手にするためなら実力行使もためらわないでしょう。素直に勇者を渡さなければ、まず戦いになるでしょうね」
この中で最も長く宰相の近くにいたシャトが断言します。カティも小さくうなずくと、また話を続けました。
「ですので、こちらも戦力を揃えて話し合いに臨みます。ただしこちらの戦力は宰相の兵の無力化を目的とした編成とし、かつ宰相側が攻めてくるまでは全員身を隠して一切手を出さないものとします」
人間をできるだけ傷つけない。それはクリスの望みでもあり、わたくしの望みでもあります。カティはこちらをちらりと見ると、またみなを見渡して続けました。
「もしも戦いになったとしても、それが人間側から手を出してきたのであれば、私たちは身を守るために戦っただけなのだという正当な理由ができます。そしてできるだけ人間側の被害を小さくできれば、戦いが終わった後に人間側と交渉できる可能性を高くできます」
二人はそこまで説明すると、今度はくるりとわたくしの方に向き直りました。
「これが宰相と会うための方策です。そして実際に宰相と話す役目ですが、それは私に任せてもらえませんか」
カティの思いもしない申し出に、わたくしは目を丸くして彼を見返しました。
「貴女が宰相と話をしたいという気持ちは分かります。けれど貴女は人間界では邪悪であり討つべきものとされています。宰相はそれが虚偽であることを知っていますが、彼の周囲の人間は違います。貴女が魔王として彼らの前に姿を現せば、人間たちの間に余計な混乱を招きかねません」
「それは……」
「それに、私は宰相の協力者でした。今は首輪が外れてしまいましたが、母が解放されたことはまだ宰相は知らないはずですし、私が今も宰相に協力していると、彼は考えているでしょう」
ここで彼は一度目を伏せると、また顔を上げてわたくしを見ました。とても力強い目がまっすぐにわたくしを射抜きました。
「私はずっと貴女を裏切っていました。もちろんそれは母を人質に取られていたからですが、それでも私が裏切っていたという事実に変わりはありません。自由になった今、どうかその分の償いをしたいのです。お願いしますリュリ様、ここは私に任せてください」
「……分かりました。あなたはわたくしが頼りにしている臣下です。だから、このことについて任せても大丈夫だと、わたくしは信じています」
わたくしがそう言うと、カティはにっこりと笑ってうなずきました。昨日からカティはよく笑うようになりました。それが嬉しくて、わたくしも笑顔でうなずきかえしました。




