30.空の上の逃避行
ただひたすらに上を目指して飛び上がると、じきに雲の上に出ました。三つの月が眩しいほどに明るく輝いています。
あまりに突然のことについていけないのか、みなが黙りこんでいます。その沈黙を破り、兄様が重い口を開きました。
「で、湖の中で一体何があったんだ。お前らが湖から出てきた後も、水柱がこちらを狙っていたように思えたんだがな」
「待ってください、その前に一つだけ確認したいことがあるのです」
わたくしは急いで魔法の耳飾りに手を当て、もう一度だけカティに呼びかけました。きっと答えはないのだろうと確信しながら。耳飾りは沈黙していました。思った通り彼の返事はありません。
「カティ……どうしてこんな……」
できることなら今すぐ彼に会って、一体何が起こっているのか、彼が何を考えているのかを聞きたいと思いました。けれどそれはかないません。
わたくしは覚悟を決めて先ほどのことをみなに話すことにしました。人魚の彼女が言っていたことが本当であれば、もうわたくしたちに逃げ場はありません。それにその事実をみなに隠し通すことは不可能でしょう。
そうやってわたくしが話し続けると、どんどんみなの顔色が悪くなっていきます。特にクリスはこちらが不安になるほど青ざめていました。
全て話し終えた途端、兄様の怒号が空の上に響き渡りました。
「馬鹿野郎!! それでウンディーネ族から力づくでそいつを奪い返してきやがったのか!? 今からでも遅くねえ、そいつを魔王城に連れて行ってカティのやつを説得しろ!!」
「無理です! カティのことはよく知っています、彼がわたくしに反旗をひるがえしたのであれば、目的を達成するまで彼は決して止まりません! 彼なりに覚悟があっての行動でしょうから!」
「だったら目的を達成させてやればいいだろうが!!」
「クリスを見殺しにしろと!?」
「おうよ!! そいつはこないだ会ったばかりの赤の他人、しかも人間で勇者だ!! お前がそんな奴のために苦労する必要なんかどこにもねえだろ!!」
「それでも、見殺しにするのは絶対に嫌です!!」
わたくしと兄様が全力で言い合っていると、横合いからクリスがそっと声をかけてきました。彼にしてはひどく落ち着いた、低い声でした。
「リュリ、ありがとう。でももういいんだ。俺のせいで君が魔族の敵になったり、君と兄さんが言い争ったりするのは嫌だから」
そう言ってわたくしを見る彼の目は、何かを諦めてしまったような色を浮かべていました。青空のようだった瞳は、暗くよどんだ青に変わっていました。ずっと昔のあの日、わたくしを飲み込んでしまった夜の湖のように。
「駄目ですクリス、どうか諦めないで」
「いや、俺は人間界だけでなく魔界でも追われる身になってしまったようだし、これ以上君に迷惑をかけたくない」
「逃げるな、クリス」
わたくしとクリスの不毛なやり取りに割って入ったのは、意外にもイヴァンでした。
「リュリ殿は、魔王としての立場を危うくしてまでお前を守ろうとしている。それなのにお前は生きることから逃げようとしている。お前はリュリ殿の覚悟を軽んじているのか」
「そんなことは、ない……」
「ならば生きろ。あがけるだけあがけ。それがリュリ殿に報いる唯一の方法だ。お前には返さなくてはならない恩も山のようにあるだろう。お前にはリュリ殿の意思に反して死ぬ自由はない」
イヴァンの言葉は鋭く、冷たくすら感じるものでしたが、クリスを思いやってのものであることは強く感じられました。クリスもそれには気づいていたらしく、少しずつ目に光が戻ってきました。
彼は少し考えた後、わたくしに向かって言いました。まだ声はかすれていましたが、先ほどのような暗さは薄れていました。
「……イヴァンの言う通りだ。ここで俺が逃げたら、今までの君の努力が水の泡になってしまう」
まっすぐにわたくしを見つめたその瞳は、また青空の明るさを取り戻し始めていました。
「だから俺は生きる。生きることで君へ恩返しをする。それでいいかな、リュリ」
「ええ」
だからわたくしは笑って答えました。それと同時に、短い言葉だけでここまで彼を立ち直らせてしまったイヴァンに、ほんの少しだけ嫉妬を覚えました。
そうやってわたくしたちが話し込んでいると、いつの間にか周囲を偵察していたらしいパーシェの声が響きました。
「あー、ほらあっち、ルーが来てますよ!」
「俺とパーシェにはカティの通達が来てなかった。おそらくレッガのやつも同じだろうし、大丈夫だとは思うが……」
「まずは、わたくしがレッガと話してみます」
兄様が苦虫をかみつぶしたような顔をしています。わたくしはルーの背中にいるだろうレッガに魔法で話しかけました。
『レッガ、聞きたいことがあるのですが』
『おお魔王様、お久しぶりですな。どうなされました?』
『あなたは勇者を捕らえよ、とのカティの通達について聞いていますか?』
『いいえ、知りませんな。一体何が起こったのでしょう?』
『そうですか。それではひとまず合流しましょう、それからお話しします』
ここでわたくしはレッガとの会話を打ち切ると、みなを促してルーの背中に乗ることにしました。こんな状況ではありますが、クリスたちがルーの大きさに目をむいていたのが微笑ましく感じられました。
『おひさしぶりです、まおうさま』
「久しぶりですね、ルー。実はお願いがあるのです。このまま急いで辺境まで飛んでくれませんか?」
『まおうじょうにかえるんじゃなかったのですか?』
「事情があるのです。あなたが飛ぶのを魔法でお手伝いしますから、どうかお願いします」
『はーい、わかりましたー』
用意周到なカティのことですから、既に魔界の広い範囲に通達を出しているでしょう。ですが魔王の統治下にない辺境であれば、まだ通達が来ていない可能性があります。ひとまずそちらに逃れるのが賢明でしょう。
わたくしとルーがそうやって行先について話し合っている間に、ルーの背中ではひと悶着ありました。ルーに乗っていたのはレッガだけではなく、ガラントもだったのです。
勇者から逃げ回っている間に負った傷と疲労がすっかり癒えた彼は、報告のため魔王城に向かっている途中でレッガと再会し、そのまま一緒にルーに乗せてもらうことになったのだそうです。ちなみにルーとガラントも、通達については知りませんでした。
ガラントとクリスたちはお互い微妙な表情をしていました。かつてクリスたちは彼が魔王だと思い込まされていましたし、ガラントはガラントで、かつて彼らに飛行の魔法まで使って追い掛け回された記憶はまだ新しいのです。
色々と問題はありますが、まずはレッガたちに状況を説明しておかないといけません。わたくしの説明を聞いた彼らは難しい顔になりましたが、
「ふむ、魔王様は孤立無援なのですな。ならばわしの備蓄物資が役に立ちましょうな」
「それがし、かつて勇者と死闘を繰り広げましたが、勇者そのものは悪しきものとは思えず、また勇者個人に恨みもござらん。彼らを穏便に人間界に戻せるのであれば、それに越したことはないでしょうな。有無を言わさず処刑というのは到底認められませぬ」
『ゆうしゃはまおうさまのおともだちなんですよね? ぼくはまおうさまのおともだちだから、ゆうしゃともおともだちなのです』
と、三者三様ながらわたくしたちに協力してくれるようでした。いきなり魔族を敵に回してしまった身としては、たった三人であっても味方が増えるのはとても嬉しいことでした。
そうして全員でルーの背中に乗り、これからどうしようかと考えていた時、不意にエスメラルダが口を開きました。湖を脱出してから、ずっと彼女は難しい顔をして考え込み続けています。
「……どう考えても何かがおかしいわ。何かが引っかかるのよね」
彼女はそうつぶやくと、眉間にしわを寄せたままわたくしに向き直りました。
「ねえ貴方、カティっていうのは荒っぽい解決手段を遠慮なく取る人なの?」
「いいえ。彼は穏便で、争いは好みません。勇者のことはあまり好ましく思っていないようでしたが、それでもわたくしの願いを聞いて、出来るだけ事を荒立てずにクリスを人間界に戻すことに同意してくれました」
そう、彼自身はわたくしが勇者に関わることをよく思っていなかったのに、それでもわたくしの我がままを聞いてくれていました。
「彼はそうやっていつもわたくしの意見を尊重して、わたくしのために動いてくれていました。……だから、今回の通達はとても信じられなくて」
「そうそう、リュリ様が何も言わなかったら、クリスは適当に縛って門から放り出されてたはずだもん。勇者を手荒に扱うのは駄目だってリュリ様が主張したから、ああやってクリスはリュリ様と旅をすることになったんだよお」
「今にして思えば、こいつが何を言おうと勇者はふん縛っとくべきだったな」
わたくしの説明に、パーシェと兄様が補足を入れます。それらを聞いたエスメラルダは、さらに難しい顔になりました。
「つまり、リュリはクリスを守りたいと望んでいて、カティはそれを知ったうえでクリスを害するような通達を出した。いつものカティであれば、リュリの意思を踏みにじるようなことはまずしない。これで合ってるかしら」
わたくしは黙ってうなずきました。パーシェと兄様も同じようにうなずいています。
「そしてカティがどうしてこんなことをしたのか貴方たちには見当がつかない。リュリに逆らうなんてよほどのことがあったとしか思えない。そういう事なのね」
その言葉を最後に、エスメラルダは眉間に深くしわを刻み腕組みをしたまま、ぴくりとも動かなくなりました。
そんな彼女を心配したのか、パーシェがどこからか取り出した小さな水晶玉を取り出してエスメラルダに差し出しました。水晶玉には何かが映っているようです。
「ねえ見てエスメラルダ、これがカティ様だよ。門を封鎖する旅の途中に、こっそり隠し撮りしたやつだけど」
「お前、いつの間にそんなもん撮ってたんだよ」
「旅の思い出になるかなあって」
「それでも、隠し撮りはどうかと思いますよ」
そうやって言い合うわたくしたちをよそに、エスメラルダは目を極限まで見開きました。信じられないものを見たという目で水晶玉を凝視したまま硬直しています。
やがて彼女は独り言をつぶやきながらうろうろと歩き回り始めました。口元に手を当てて宙を見つめています。
「どうしよう、ものすごく胸糞悪い仮説が立ってしまいそう」
大きなため息をついた彼女は、明後日の方向を向いたまま目線を落とし、暗い声で言いました。
「もしかしたら、なんだけど……人間界と魔界の動きはつながっているかもしれない。クリス、貴方はきっとずっと前から、人間に命を狙われていた」




