28.魔王の帰還
それからはもう誰にも出くわすことなく、夕暮れには順調に転移の門にたどり着くことができました。森の中のせせらぎのほとりに虹色の平面が静かに浮かんでいます。辺りには人の気配はなく、追っ手はまだここまで来ていないようでした。
転移の門を見たみなの顔には、一斉に安堵の表情が浮かびました。この中では体力に劣るらしいエスメラルダも、疲れているようでしたが、昨日のようにぐったりしてはいませんでした。
思えば昨日は、味方であるはずの王国兵に追われているという事実が、彼女を打ちのめしていたのでしょう。
わたくしたちが門の前に立つと、まずパーシェが進み出ました。
「たぶん何事もないとは思いますけど、まず向こう側を確認してきますね。あと、あっちにはベル様がいるはずなので、ちょっと先に状況を説明してきます。私が戻ってくるまでここで待っててくださいねえ」
そう言ってパーシェが門をくぐり、残されたわたくしたちはおとなしく待つことにしました。けれど中々彼女は戻ってきません。彼女に何かあったのかもしれませんが、門の向こうにいる彼女には、魔法で話しかけることもできません。
仕方なくさらに待つことしばし、大きな影がものすごい勢いで門から飛び出してきました。
「ようやっと戻ってきやがったな、リュリ!」
その影は飛び出すなりわたくしを思いっきり抱きしめました。何が起こったのか分からないクリスたちが剣の柄に手をかけているのが、視界の端に見えました。
「あの、この方はわたくしの兄様ですので、警戒しなくても大丈夫です」
わたくしは兄様の両腕に上半身をがっちりと抑え込まれていたので、かろうじて動かせる肘から先をひらひらと振ってクリスたちを止めました。
「おい、ここは俺たちの感動の再会の場面だろ、俺を放っておいてほかの連中と話してんじゃねえよ。お前が人間界に行っちまってから、ずっと心配してたんだぞ」
「あ、ごめんなさい兄様。あと少し苦しいです、腕をゆるめてください」
「駄目だ。久しぶりに再会したんだし、そう易々と放してたまるか」
「久しぶりって、ほんの数日では」
「時間の問題じゃねえよ、気分の問題だよ」
そうやって話し込むわたくしたちを一歩引いて眺めながら、クリスたちが小声で話しているのが聞こえてきます。
「ああ、彼が話に聞いていた兄さんか。ずいぶん大きな方なんだな」
「彼はリュリ殿とは違う種族のように見えるのだが、魔族とはそういうものなのだろうか」
「それよりも年頃の妹にべたべたする兄ってどうなのよ、しかも人前で」
兄様はその声を聞きつけたのか、わたくしをしっかりと抱きしめたままクリスたちに向き直りました。
「おう、お前には見覚えがあるぞ、記憶がないからってリュリに鼻の下伸ばしてた勇者様だな」
「魔族から見ても鼻の下伸ばしてるように見えたのね、貴方」
「そんなにでれでれしていたつもりはないのだけど」
「してやがったよ、勇者のくせにな」
「してるわね。自覚ないの?」
「しているな。まあいつものことかもしれないが」
最初こそ兄様の姿に驚いていたものの、クリスたちはあっさりと兄様にも慣れてしまったように見えました。パーシェの時といい、彼らは案外魔族に対する順応が早いようです。
ところで兄様はいつまでわたくしを抱きしめているつもりでしょうか。このままでは身動きがとれません。
「兄様、そろそろ離してください。いつまでもここでこうしている訳にはいきません」
「おお、そうだな。嬉しくってな、つい」
兄様はやっとわたくしを解放すると、胸を張ってクリスたちに自己紹介を始めました。
「俺はベル、リュリの兄で護衛だ。リュリに手え出すやつには容赦しないからそのつもりでな」
「クリスだ。勇者を名乗っていたけれど今は逃亡者かな」
「私はエスメラルダ。クリスの仲間で、訳も分からず逃げる羽目になってる」
「イヴァン。同じくクリスの仲間だ」
クリスたちも順に自己紹介していきます。ちょうどその時、門からパーシェが上半身をのぞかせました。
「そろそろベル様落ち着きました? あ、リュリ様、さっきベル様にぱぱっと状況を説明したんですけど、そしたらベル様、すごい勢いで門に突進して行っちゃって。これはしばらく邪魔しない方が安全かなってこっちで様子見てました。ところで、いい加減みんなこっちに来ませんか? 追っ手が来ちゃったら大変ですよう」
彼女の言葉で、その場の全員が現状を思い出しました。今のわたくしたちは王国兵から逃げている途中で、一刻も早く魔界に行こうとしていたことを。
話は魔界に戻ってからにしようと、わたくしたちはそそくさと門をくぐりました。
門の向こうは、懐かしい魔界の空が広がっていました。夜空に煌々と輝く二つの月、そして今まさに登ろうとしている三つ目の一番明るい月。
魔界を離れていたのはほんの数日のことなのに、とても懐かしく感じます。クリスもどこかほっとしたような表情をしていました。一方のエスメラルダとイヴァンは、どこか落ち着かなさげに辺りを見回しています。
「こんな形で、また魔界に来ることになるなんてね」
エスメラルダが小声で吐き捨てました。どこか自虐的な響きがこもっています。彼女にも思うところはあるでしょうが、今は手伝ってもらうことがあります。
「エスメラルダ、あなたは魔法を使えますよね? 転移の門の封鎖を手伝っていただけませんか」
「転移の門の封鎖? ああ、前に貴方がいっていたあれね。やり方が分からないから教えてちょうだい」
王国兵があのままの速度で進めば、転移の門のところまで数日でたどり着くでしょう。それに、エミールが再度わたくしたちを追ってくるかもしれません。彼らに門を発見された時に備えて、ここを速やかに封鎖しておくべきでしょう。
そう思ってエスメラルダに封鎖の手順を説明しようと思ったのですが、その時イヴァンが進み出ました。
「魔法が使えればいいのか? ならば私も力になれるかもしれない」
彼はがっしりとした体格と背負った大きな両手剣という外見ながら、魔法もそこそこ使えるのだそうです。
「私が使えるのは肉体強化や回復の魔法だけだが、それでも役に立つだろうか」
「ある程度高い魔力があって魔法が使えるのであれば、おそらく大丈夫です」
わたくしがそう説明すると、得意げな顔をしたエスメラルダが太鼓判を押してきました。
「ああ、イヴァンは謙遜してるだけだから。彼、こう見えて剣術より魔法の方が才能あるんじゃないかってくらい魔法得意だし。実際、回復魔法は私より上手いんだから嫌になっちゃう」
「うわーイヴァンさんすごいですねえ。私やベル様は剣術は得意なんですけど、魔法はちょっと苦手で」
「俺も魔法は全然なんだ。魔力はあるらしいんだけど、魔法が上手く使えなくて」
「クリス、あなたも魔力は高いんだし、一つくらい魔法を使えてもよさそうなのにね。いつもながら不思議でしょうがないわ」
そういってエスメラルダは肩をすくめ、クリスは困った顔で笑い返したのでした。
門の封鎖もこれで何回目でしょうか。わたくしにとってはもう慣れたものですが、初体験のエスメラルダとイヴァンは、門に少し触っては感心したように手を止めています。固定の魔法を発動しながら触れることで門の虹色が薄れ、銀色に変わっていく様が面白いようです。
兄様に引きずられていったクリスはパーシェと共に野宿の準備を始めていましたが、遠くから時々こちらをうかがっているようでした。彼もまた、門の封鎖が珍しいのでしょう。
少しでも早く門を封鎖してしまいたかったので、わたくしはいつもより多くの魔力を使って手早く作業していきました。魔力の月鎖をまだ着けていますので、消耗はそこまで気になりません。
転移の門の封鎖が終わったときはもう昼でした。魔界と人間界とでは時間にずれがあるらしく、わたくしたちがこちらに出てきたときは朝方だったのですから、これでもかなり早く封鎖できた方です。
エスメラルダとイヴァンは魔力を使い切って倒れこむように眠ってしまいました。人間界をずっと移動してきたわたくしとパーシェ、それにクリスもそろそろ疲れています。一人元気な兄様に見張りを任せて、わたくしたちは休むことにしました。
眠りにつく前、もう一度耳飾りを通じてカティに呼び掛けてみました。けれど今回も沈黙のみが返ってきます。
「兄様、カティに何かあったのでしょうか。ここ二日ほど、彼に連絡がとれないのです」
「俺はお前が人間界に渡ってすぐに、あいつとは別行動してたからなあ。今あいつがどうしてるかは知らないな。ただ、いったん魔王城に戻るとは言ってたし、もうすぐ会えるだろ。そん時本人に聞けばいいさ」
兄様はそう言って軽く笑い飛ばしていましたが、わたくしの心の中によぎる不安は中々消えてくれませんでした。




