26.魔王と勇者
わたくしは真っ白になった頭を必死に動かして、今しがた彼が呼びかけた言葉を思い出しました。そう、彼は先ほど確かに、リュリ、とわたくしを呼びました。そして考え事をしていたわたくしは無意識のうちにそれに反応してしまったのです。
「君はか弱い魔族にしか見えないのに、とても強い魔力を持っている。エスメラルダが思わず目の色を変えてしまうような貴重な魔法の道具もね。しかもそれを俺にずっと隠していた。それだけなら、何か事情があるんだろうな、としか思わなかったんだけど」
クリスは真っすぐにわたくしの目を見ると、後ろで小さくなっているパーシェにちらりと目をやりました。ほんの少しだけ、苦笑しているようにも見えます。
「さっき君は、命令書の名前を聞いてはっきりと動揺していたね。君の後ろのパーシェも。特にパーシェは、明らかにうろたえながら君の様子をうかがい始めていた。だからもしかして、と思ってかまをかけてみたんだよ」
そう説明するクリスは、変わらず穏やかに微笑んでいます。わたくしが魔王であることも、彼にとっては驚くことではなかったのでしょうか。
「ちょ、ちょっと待ってクリス、それじゃあこの子が魔王なの!?」
「確かに、そう考えると納得はいくが……あの黒い魔王は弱すぎた」
一方、驚きを隠せないエスメラルダとイヴァンはそれぞれに感想をこぼしています。クリスはそれには構わずに、今までと変わらない優しい笑みを浮かべたまま尋ねてきました。
「リュリ、よければ君の事情を話してはもらえないかな。君の表情を見る限り、あの命令書は君にとっても謎が多いものだったんだろう。お互いが知っていることを合わせれば、少しは真相に近づけるかもしれない」
わたくしはこの言葉を聞いてもまだ迷っていました。魔族の内情を勇者に話してもいいのだろうかと。だから、わたくしは彼に答える代わりに、こう問いました。
「クリス、あなたは人間に追われるようになった今でも、人間のために魔王を倒そうと思いますか」
その問いに、彼はまた優しく微笑むとはっきりとした声で答えました。その眼差しはどこまでもまっすぐで自信にあふれ、今まで見たどの彼よりも勇者らしいものでした。
「いいや。俺は魔王が人間に仇なすものだと、恩ある人から言われて勇者として立った。けれど俺が知る君は、決して人間に仇なすものではない。君が魔王であるというのなら、俺は魔王にこの刃を向けることはない」
彼がわたくしに向けるまなざしは、短い旅の間に幾度も見たものと何も変わらないものでした。彼がそう決めたのなら、わたくしも覚悟を決めましょう。
「ありがとう。ならばわたくしたちも、勇者を忌避する理由はありませんね」
そう笑って答えると、クリスは先ほどの凛とした空気はどこへやら、一転して傷ついたような顔をしました。
「え、俺は避けられていたのか」
「当たり前ですよお」
わたくしの背中からそろそろと姿を現したパーシェが口を挟みます。
「勇者って、なぜか突然魔界にやってきて、意味不明なことを言いながら魔王様に喧嘩を売りに来る人なんですよ? 厄介者扱いされるのは当然じゃないですかあ」
「クリス、貴方なんだか害虫扱いされてない?」
「あー害虫、そんな感じですねえ。突然わくし、邪魔だし」
「魔族にかかれば勇者も害虫呼ばわりか」
エスメラルダとイヴァンも会話に参加し、先ほどまでの和やかな雰囲気が戻ってきます。わたくしはその雰囲気にほっと胸をなでおろしつつ、クリスと情報交換し始めることにしました。
「つまり、君は俺を魔界に入れないように飛び回っていたんだな。けれど偶然俺が魔界に取り残されたので、できるだけ穏便に俺を人間界に戻そうとしてくれた、そういうことだったのか」
一通りの説明が済むと、クリスはそう言って頭をがしがしとかきました。困ったように顔をしかめています。
「君には知らないところでずいぶん迷惑をかけていたんだね、ありがとう、それとごめん」
そう言って律義に頭を下げてきました。本当に彼は、わたくしが魔王だと知った後も態度を変えません。
「魔王に頭を下げて謝罪する勇者って、すごい絵面よね」
「だよねえ。魔族のみんながこれ見たらびっくりするよお」
エスメラルダとパーシェはあっさりと意気投合してしまったようです。あけっぴろげなものの言い方をする者同士、気が合うのでしょうか。
「しかし、私たちが聞かされてきた魔王や魔界の話と、リュリ殿が語る魔界の話とは大きく食い違っている」
冷静にイヴァンが指摘します。クリスがそれに同意しました。
「うん。最近魔王が人間界の侵略を始めたって話が王国ではまことしやかに流れているのに、彼女の話では魔王はおろか、魔族たちも人間界に干渉すらしていない」
「それだけなら、誰か他の魔族が魔王の名前をかたって悪さしてるっていう可能性も考えられるけど……あの命令書に書いてあったのはこの子の名前だったしね」
「そして当のリュリ殿は人間に害をなすつもりはないらしい。謎は深まるばかりだな」
「そもそもリュリ様は魔王城から遠出したことすらないんですよお。リュリ様の名前すらちゃんと知らない魔族もたくさんいますし。なのに、なんで人間がそんなもの知ってるんですか」
口々に疑問をぶつけ合います。疑問はたくさんあるというのに一つとして答えが出ません。
「……余計に疑問が増えてしまった気がしますね……」
わたくしが力なくつぶやくと、クリスも心なしか疲れた様子でうなずきました。
「こうやって考えていてもらちが明かなさそうだな。とりあえず一度ゆっくり休んでから、落ち着いて考えないか?」
「賛成―。あ、そういえばリュリ様、このとんでもない荷物についてカティ様に説明しましたかあ?」
パーシェが指摘しました。いけない、すっかり忘れていました。朝からずっとクリスの安否が気になっていましたし、彼と合流してからは正体がばれたり状況説明に忙しかったりしていたので、それどころではありませんでした。
いえ、本当はカティに連絡しなければと心の片隅でずっと考えていたのですが、今の状況を彼が知ったら、雷を落とされるのは間違いありません。その瞬間を少しでも引き伸ばしたくて、忘れたふりをしていたのです。
ですがいい加減、後回しにも限界があります。わたくしは覚悟を決めて耳飾りに触れ、カティに呼びかけました。ですが、彼からの返事はありません。
「あれ、またカティ様返事してくれないんですか?」
「ええ、そうみたいです。彼に何かあったのでしょうか」
「確かに、ちょっと心配になってきますよねえ」
「カティというのは、さっき君の話に出てきた有能な補佐の人だね」
わたくしたちのその会話に、クリスが興味を示したようでした。
「ええ。彼はいつも多くの情報を集めていますし、頭も切れます。彼なら、この疑問だらけの状況をどうにかしてくれそうなのですが」
「君は彼を信頼しているんだね、うらやましいよ」
「長い付き合いですから。彼にはいつも助けられてきましたし」
「だったら俺も長く君のそばにいれば、もっと信頼してもらえるようになるのかな」
にっこり笑ってそう聞くクリス。なんとも返答に困ります。そうしてわたくしが困っていると、イヴァンがたしなめてくれました。
「クリス、お前は少し軽口を慎め」
「本心だし、軽口ではないんだけどな」
「だから余計にたちが悪いのだ」
そうやって騒ぎながら、わたくしたちは夕方まで飛び続けました。
日が傾き始めたころ、わたくしは飛行の魔法を解除して全員で森の中に降り立ちました。王国兵たちとも十分に距離をとれましたし、この辺りで一度休んでおいたほうがいいでしょう。
一日運んでもらったから、とクリスたちが進んで野宿の準備をしてくれたので、わたくしは何もせずただ座っていました。パーシェは周囲の偵察に出ています。
魔力の月鎖のおかげでほとんど魔力は消費していませんが、ずっと集中して飛行の魔法を維持していたので、そういう意味では少々疲れています。
座ったまま目を閉じると、心地よい疲れが打ち寄せてきてそのまま意識が遠のいていきました。
どれだけ眠っていたのか、肩に何かが触れる感触で目を覚ますと、目の前にクリスがいました。わたくしの前に膝をつき、手を差し出した姿勢で。
「あ、起こしてしまったね。うたたねをしているようだったから、冷えてはいけないと思って上着をかけようとしたのだけど」
見ると、わたくしの肩にはクリスの上着がかかっていました。わたくしがそれを彼に返そうとすると、彼は手でそれを押しとどめます。
「そのまま着ていて、夜は冷えるから。俺にはこんなことしかできないけれど」
そういうと彼はわたくしの横に腰を下ろしました。彼はわたくしの方を見ずに、まっすぐ前を向いたままぽつりぽつりと話し始めました。
「俺は、自分は勇者なんだ、魔王を倒すんだってずっと息巻いてた。けれど魔王を倒さなければいけない理由はどうやら偽りで、おまけに俺はその魔王に何度も命を救われた。そして今は大罪人として王国から追われている」
彼は少しうつむきました。あたりはすでに薄暗く、その表情はうかがえません。
「これだけ何もかも変わってしまったのに、不思議なくらい俺は落ち着いているんだ。もっと取り乱してもよさそうなものなのに」
そう言って彼はこちらを向きました。その顔には、寂しげでありながらどこか満足したような笑みが浮かんでいました。
「きっとこれは君のおかげなんだろう。俺が勇者でも大罪人でも、君は変わらずに俺を見ていてくれる。君がただの魔族でも魔王でも、君のまなざしは変わらない」
彼の笑みが優しくなりました。いつもわたくしの目を奪う、彼らしい笑顔です。
「だからこれからも、俺を見ていてほしい。君が見ていてくれれば、どれだけ足元が揺らいでも俺は俺でいられるから」
わたくしはそっとうなずきました。金の鎖と宝石に彩られたわたくしの手をとって、彼はそっとささやきました。
「ありがとう」
これが、魔王と勇者が共に過ごした初めての日の終わりでした。




