17.失われた記憶のかけら
勇者との旅の最初の夜、わたくしは彼が眠ったのを見届けてから、そっと森の開けたところへ向かいました。みなに連絡を取るためです。万が一彼がわたくしの不在に気づいた時に、月光浴をしていたのだと言い訳ができるようにこの場所を選びました。
柔らかな草の上にそっと腰を下ろし、耳飾りに手を触れます。少し間をおいて、カティの声がしました。
『リュリ様、ご無事ですね?』
「ええ、聞いていたでしょうが順調です」
実は、最初にクリスに会いに行ったときからずっと、この耳飾りは作動させたままにしてありました。ですからこれを通じてわたくしとクリスの会話はカティに聞こえていたのです。おそらく、ほかのみなにも情報は共有されているのでしょう。
『順調というには色々あったように思えますが。それと、私たちは今貴女の近くの森に潜んでいます。魔法での会話が可能な距離ですので、そちらに切り替えましょう。勇者に聞かれてはいけませんので』
そう言うと、耳飾りから聞こえていたカティの声が途切れ、代わりに頭の中に声が響いてきました。
『それにしても、勇者の記憶が抜けているのは好都合でした』
『うわーんリュリ様、ご無事ですかあ』
『あの勇者、お前にべたべたしすぎなんだよ』
『ある意味予想通りとも言えますがな』
パーシェ、兄様、レッガが次々に声をかけてきます。わたくしも声を出さずに頭の中で言葉をつづりました。
『わたくしは大丈夫です、心配してくれてありがとう。カティ、ガラントはちゃんと休めていますか』
『はい。予定通りに休息場所につきました。今は傷の手当てを済ませ眠っています』
『それは良かった。それではわたくしはこのまま勇者を門まで連れていきますね』
そう伝えて会話を終わらせようとしたところ、パーシェが食いついてきました。
『ところでリュリ様、勇者とずいぶん仲良く話してましたねえ』
『警戒されないように話を合わせていたようだけですよ』
『それにしてはあ、魔界蛍を見に寄り道したりしてましたよねえ』
『あ、あれも警戒を解くためで』
『そもそもあいつ、全く警戒してなかっただろ。こんだけ警戒してねえんなら、お前が勇者抱えて門まで飛んじまえばいいんじゃねえか。その方が時間短縮できるし、そんだけ派手にやってもきっと気にしないだろ、あいつ』
兄様が割り込みます。少しご機嫌斜めのように聞こえるのは気のせいでしょうか。
『いえ、それはやめておきましょう。うかつなことをして勇者の記憶が戻っては大変です。しかし、勇者の記憶がなく、かつリュリ様が正体を隠しておられるとはいえ、順調に進みすぎて少し怖いくらいですね』
『それだけリュリ様の魅力がすごかったっていうことですよお』
『パーシェ、もしかしてあなた面白がっていませんか?』
『え、ええ!? 気のせいですよ気のせい!』
『……間違いなく面白がってやがるな』
『気持ちは分かりますな。勇者だの何だのを外してしまえば、男女が仲睦まじく旅をしているようにしか見えませんぞ』
『仲睦まじく……』
思わず絶句しました。恋愛小説好きのパーシェはともかく、レッガにまでそう見えていたのでしょうか。それもこれもクリスが気安すぎるせいなのでしょうね。
『さあ、リュリ様もお喋りはこれくらいにして、そろそろ休んでください。貴方たちも下らないことばかり言っていないで、いい加減リュリ様を解放してください』
カティがたしなめると、全員がおとなしく同意しました。わたくしも会話を打ち切ると、クリスの元に戻ることにしました。それなりに長時間離れていたはずですが、彼は変わらずによく眠っていました。
そっと髪に触れてみましたが、何の反応もありません。ここは魔界で、しかも野宿なのにどうしてここまで熟睡していられるのでしょうか。謎の多い方です。
朝、たっぷりと睡眠をとったクリスはまず空を見上げ、しみじみとつぶやきました。
「朝なのにこんなに暗いなんて、やはり魔界は人間界とは違うんだね」
そしてわたくしの方を振り返り、こう言いました。
「人間界の日差しの下で君の姿を見てみたいな。魔界で見る君は蛍の妖精のようだけど、まばゆい陽光の下で見る君はきっと違って見えるんだろう」
クリスは今日も朝から気安いようです。
わたくしたちは今日も門へ向かって歩きました。今日話題になったのは魔界の空のこと。
彼は魔界の月に興味を示していたので、わたくしはそれぞれの月の動きと、それを元に時間を知る方法を彼に教えてあげました。この程度の情報なら、勇者に知られても問題ないでしょうし。本当はあの月で方角も知ることができるのですが、これは一応秘密です。
彼は楽しそうに笑いながら、わたくしが教えたことを復唱しています。その姿を見ていると、彼が本当に勇者なのか分からなくなってきました。
確かに彼はかつて遠見の水鏡で見た勇者その人に間違いありません。けれど、こんなに気楽に魔界を歩き、魔族と気安い言葉を交わす人が、人々に望まれたからと言ってむやみに魔王を討伐しようとするでしょうか。
本来の彼であれば、まず魔王が本当に人々に害をなすものかどうかを知りたがるのではないか、そう思えてなりませんでした。
いえ、こんなことを考えても仕方ないですね。彼がどんな人物であろうと、勇者である時点でわたくしとは相容れないことに変わりはないのですから。
それからもわたくしたちは話し続けました。と言っても主にクリスが話しかけ、わたくしがそれに答えるという形でしたが。
「リリィ、君は一人で暮らしているのか?」
「いいえ、友人たちと一緒です」
共に魔王城に住むカティやパーシェたちは厳密には臣下ですが、わたくしからすれば友人のようなものです。
「そうか、家族はどうしてるんだ?」
「……兄が一人。親はいません」
これは難しい質問です。兄様は別種族ですが本当の兄のように思っています。ですが厳密には兄様はわたくしの臣下ですし。
一方で、わたくしは両親のことをほとんど覚えていません。今も、前も。
前のわたくしはずっと王宮に閉じ込められて侍女たちに育てられました。両親に会ったことなど数えるほどでしかありません。その記憶ももう大分薄れてきました。
そして今のわたくしは魔王になることが決まってから、親と引き離されて魔王城で育ちました。そもそも、今のわたくしが子供のころは、前のわたくしの記憶が邪魔をして、魔族に親しみを感じることなどろくにできませんでしたし、たとえ親のもとで育ったとしても同じことだったでしょう。
わたくしがそのように考え込んでいると、クリスはそれを誤解したらしく、済まなそうな顔になって謝ってきました。
「ああ、ごめん、悪いことを聞いてしまったね」
「いえ、大丈夫です」
そう答えながら、わたくしはきっと彼は温かな家庭で幸せに育ったのだろうとぼんやりと考えていました。ですから、続けて彼が言った言葉にはとても驚かされました。
「実は俺も、家族は一人しかいないんだ。俺は孤児だったから」
「孤児、ですか? きっと苦労されたのでしょうね」
「うーん、でも孤児にしてはましな方だったよ。俺は小さい時に両親を亡くして、まだ赤ん坊の妹と一緒にオズエンドの孤児院に預けられたんだ。そこで妹を育てながら暮らしてた」
クリスは昔を懐かしむような目をしました。その表情を見る限り、彼にとってその過去は悲しいものではあったかもしれませんが、辛いものではなかったのでしょう。
「けれど妹は体が弱くて、しょっちゅう寝込んでいたんだ。それで妹は、王都の療養所に……?」
懐かしそうに話していたクリスの様子が急に変わりました。何かを思い出せそうで思い出せない、そんな顔をしています。眉間にしわを寄せ、額に手を当てながら考え込んでいます。
いけない、この記憶はきっと勇者としての記憶につながるもの。この先をはっきりさせてはいけません。
そう直感したわたくしは手を伸ばし、額に当てられていた彼の手にそっと重ねました。どうにか彼の気をそらさなくては。
「クリス、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
彼は額に当てていたのとは反対の手でわたくしの手をとり、両手で握りしめました。少し悲しげな目に残る混乱の色は、もうほとんど薄れていました。
「この辺りの記憶も、少し欠けてしまっていたみたいだ。大切な記憶のはずなのに……」
彼は魔界に来てから初めて、不安そうな顔を見せていました。わたくしはどうにか彼を元気づけたくて、彼の手にさらに自分の手を重ねました。
彼の手はカティの柔らかな手とも、兄様のがっしりした大きな手とも異なり、細かな傷が幾つも残った温かくて優しい手でした。
「必要な記憶ならいずれ戻ってくる、そう言ったのはあなたでしょう」
わたくしを見つめるクリスの目が不安げに揺れています。その様子は、まるで親とはぐれた幼子のようでした。
「わたくしもあなたの記憶はいずれ戻ると信じています。今は、人間界に無事に戻ることを考えましょう」
目を見つめ返して静かに話しかけると、クリスの目に少しずついつもの明るさが戻ってきました。
「そう……だね。今悩んでも仕方のないことだ。君の言う通り、まずは人間界に戻ろう。戻ってから王都を訪ねてみるかな」
「ええ、それがいいと思います」
「ありがとう、リリィ。君に出会えて本当に良かった」
こうして魔王と勇者であるわたくしたちは、互いに手を取り合ったまましばし見つめあっていたのでした。
その日の夜、前日のようにみなに連絡を取ったわたくしは、いきなり叱られてしまいました。
『リュリ様、昼間に勇者の記憶が戻りかけていましたよね。話題はもっと当たり障りのないものにしてください』
『あいつを励ましてどうするんだよ。勇者なんざへこんでるくらいで丁度いいんだ』
『私は応援してますよー』
『パーシェ、何の応援してんだよ、お前は』
『まあまあ、最終的に勇者は人間界に戻る決意を固くしたようですから、そう魔王様を責められずとも良いのではありませんかな』
『ごめんなさい、みなに心配をかけましたね』
『ええ、これからは自重なさってください。けれど、リュリ様の苦労もあと少しです。このままいけば明日か明後日には転移の門につくでしょう。目的地の門の封鎖は既に解いてあります』
あと少し。その言葉に、少し寂しさを覚えてしまいました。このまま彼が記憶を取り戻さなければ、彼が勇者に戻らなければ。そうすればずっと友人として彼と一緒にいられるのではないかと、そんなことを考えてしまいました。
けれどそれは彼にとって良いことではありません。欠けてしまった大切な記憶に、不安を隠せずにいた彼の顔がよみがえります。彼はあんな顔をしていい人ではありません。わたくしたちはこのまま別れるのが正しいのでしょう。やっぱり、寂しいですが。




