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16.わたくしたちの旅路


 想像を遥かに超える出来事に出くわすと、何も言えなくなるということを初めて知りました。だって、勇者はガラントを追って転移の門をくぐり、人間界から魔界に来てしまったのです。

 それが一体どうなったら、自分がどうやってここに来たのか分からない、などということになるのでしょうか。もしかして、彼はまだ混乱しているのでしょうか。


「わたくしがここに来た時、あなたはここに倒れていました。あなたは、人間ですね?」


 そっとなだめるように話しかけてみると、意外にも彼はにっこりと笑いました。


「ああ、やっと君の声が聞けた。思っていた通りのきれいな声だね」


 この異常事態に何を言っているのでしょう。いえ、勇者が魔王にこんなことを言っていることの方がもっと異常ですが。


「俺は君の言う通り人間だよ。名前はクリストファー。クリスでいい。ここが魔界だということは分かるのだけど、どうして魔界にいるのか、何をしようとしていたのかがさっぱり思い出せないんだ」


 勇者、いえクリスは記憶が部分的に抜けているようでした。先ほど気を失っていたのと関係があるのでしょうか。しかし彼の記憶が抜けている理由が何であれ、わたくしのなすべきことは変わりません。


「あの、わたくしにはあなたがどうしてここにいるのかは分かりません。ですが、あなたを人間界に戻す方法でしたら分かります」

「そうなのか、君さえ良ければその方法を教えてくれないか」

「この先に、人間界に繋がる門があるのです。ただ……ここからだと少し距離があります。よろしければ、そこまで案内しましょうか?」


 わたくしがおずおずとそう申し出ると、クリスは嬉しそうに笑いました。


「それはありがたい。右も左も分からないところに一人きりで、これからどうしようかと思っていたところだったから。ねえ魔族の君、君の名前を教えてくれないか」

「リリィ、です」


 これも打ち合わせ通りです。彼にはわたくしが魔王だとばれていないとはいえ、念には念を入れて偽名を使っておくことにしたのです。元の名前に近いものにしましたから、偽名で呼ばれてもそう違和感は覚えないでしょう。


「いい名前だね。それではリリィ、門までよろしく頼む」


 こうしてわたくしはクリスと共に、転移の門まで旅をすることになりました。勇者の記憶が抜けていた時は少し焦りましたが、幸い今のところは打ち合わせ通りです。




「ところでリリィ、その門まではどれくらいかかるんだ?」

「歩きですと三、四日くらいでしょうか」


 勇者を帰すために封鎖を解くことにしたのは、バフォメット族に封鎖をお願いした門でした。ここからは一番近い門です。

 勇者を魔王城に近づけるのは危険ですので、魔王城のそばの門は使えません。そして現在地から遠い門も駄目です。わたくしが勇者と長旅をするのも良くありません。そんなこんなで、必然的にこの門に決まってしまいました。


「結構かかるんだな……そこまでの道のりに、狩りをできそうな場所はないか?」

「ずっと森の中を通っていくので、どこでも狩りはできると思います」


 勇者が魔族と遭遇してしまうのを避けるために、わたくしたちはあらかじめ通る道を決めておき、その途中にいる全ての魔族を避難させました。これでわたくしたちが道中出会うのは意思疎通のできない獣のみ。勇者が食料調達のために狩りに出ても安心です。


 一緒に歩きながら勇者はあれこれと気安く話しかけてきます。わたくしが魔王であることは伏せていますが、それでも魔族であることに変わりはありませんのに。勇者がこんなに気軽に魔族に話しかけていいのでしょうか。


 ……もしかして、彼は自分が勇者であることも忘れているのでしょうか。


 ふとそんな考えがよぎりましたので、わたくしはそれとなく彼の過去を探ることにしました。


「あの、クリス。一つ聞いてもいいでしょうか」

「ああ、どうぞ。君から尋ねてくれるなんて嬉しいな」


 やはり気安いですね、この方。


「あなたは自分がどうして先ほどの場所にいたのか分からない、と言っていましたが、ならばそれまであなたはどこにいたのですか?」

「そうだね、俺はオズエンドの町で暮らしていて、そして旅に出たということは覚えているよ。ただどうして旅に出たのかは覚えていないし、旅の間何をしていたのか、どこに向かっていたのかも思い出せないね」

「それは……ずいぶんと多くの記憶が欠けているのかもしれませんね。不安になりませんか?」

「大丈夫さ、必要な記憶ならいずれ戻ってくるだろうし、魔界で倒れていたおかげで君に出会えた。不安になどならないよ」


 思っていた以上に彼の記憶はごっそりと抜けていたようです。どうやら彼は、勇者としての記憶のほぼ全てを失っているようでした。

 しかしそれでいて全く不安に感じていないのは、少しばかり楽観的に過ぎるのではないかとも思います。けれどわたくしには、この彼の明るさも好ましいもののように感じられました。


「リリィ、俺も君に聞いていいかな。君はどうして俺のそばにいたんだ?」

「わたくしはあの辺りを住みかとしています。いつものように月光浴をしていたら、あなたが倒れているのが見えました。近づいてみると魔族ではなく人間のようでしたので、どうしたものかと戸惑っていたら、あなたが目を覚ましたのです」

「じゃあ君も、俺があそこに来たところを見ていないんだね」

「はい」


 彼が記憶を失っていると判明した今、うかつな答えをして記憶が戻るといけないので、心苦しいですが嘘をつかせてもらいます。いえ、そもそもわたくしが彼に話している内容は、そのほとんどが嘘でしかないのですが。

 ごめんなさい、クリス。でもこれも魔界の平和のためなのです。


 それからわたくしたちは、意外にも他愛のない話で盛り上がりました。と言っても魔界育ちのわたくしと人間界育ちの彼との間には共通の話題が全くないのですが、気づけばそれぞれが故郷のものについてお互いに教えあうという、平穏極まりない会話になっていたのです。その中でうっかり彼が記憶を取り戻しはしないかと、わたくしは薄氷を踏む思いでいましたが。


「君も果物が好きなのか。だったら、オズエンドにはぜひ一度来て欲しいな。あそこは一年中よく晴れていて、太陽の恵みでとても甘い果実が生るんだ」

「太陽の恵み、ですか。きっと素晴らしいのでしょうね。わたくしは太陽をほとんど知りませんが、とても温かかったことを覚えています」

「あれ、君は人間界に来たことがあるのか?」

「一度だけ、ほんの少しのぞいてみたことがあるのです」

「そうか、それは残念だな。一度遊びに来ればいいよ、俺が案内するから」

「ええ、機会がありましたら」


 彼の案内で人間界に遊びに行く。楽しそうだとは思うのですが、残念ながらそんな機会が来ることはないでしょう。クリスが無事に門をくぐったら、そこでまた門を封鎖することになっています。あとは彼の寿命が尽きるまで、誰も魔界に入れないよう魔族全員で見張るのですから。


 なぜだかそのことがとても寂しく思えてしまったので、わたくしも彼に提案をすることにしました。人間界へのお招きにはあずかれませんが、彼が魔界にいる今であれば、魔界にある素晴らしいものをお見せできるでしょう。そして幸いなことに、それはわたくしたちの進路上にあります。


「クリス、素敵なお話のお返しをさせてください。この先に、魔界蛍が群れる小川があるのです。よろしければ、その……一緒に見に行きませんか?」

「へえ、それは興味深いね。案内をお願いしてもいいかな」

「はい、こちらです」


 目的地はすぐそばにありました。今進んでいる道から、ほんの少しだけ森の中にそれたところを流れている小川。そこに、ほんのりと淡く黄緑に光る蛍たちが群れをなしてふわふわと飛び交っています。

 人間界の蛍は夜にならないと飛ばないと聞いたことがありますが、魔界の森は昼であっても十分に暗いので、こうして時間に関係なく魔界蛍を見ることができます。

 おそらく初めて見るだろう魔界蛍の群れに、クリスは目を輝かせていました。


「これはすごいな。人間界にも蛍はいるけれど、俺が知っているのはもっと小さいし、ここまでたくさん群れてはいない」


 そう言って笑う彼の手に、魔界蛍が一匹止まりました。彼はその手を目の前に持ってきて、しげしげと眺めています。

 本当に不思議な光景です。魔王を倒しに来たはずの勇者が、その魔王と一緒に魔界で蛍を眺めているなんて。


 彼はしばらく手の上の魔界蛍を見ていましたが、ふと何かに気づいたのか、わたくしに近づき蛍が乗った手を差し出しました。そしてそのままわたくしの髪を一房すくいあげます。


「ああ、やっぱりだ。君の若草色の髪と金の瞳、この蛍とよく似ているよ。君はもしかして蛍の妖精なのかな?」


 そんなことを言われたのは初めてです。わたくしは羽を隠したままですし、種族が見抜かれることはないと思っていたのですが、彼はほぼ真実を言い当てていました。わたくしたちフェアリー族は、妖精族と呼ばれることもありますから。


 わたくしがどう答えていいのか分からずに言いよどんでいると、彼は笑ってわたくしの手を引き、小川のそばまで連れてきました。そして少し離れたところからわたくしを見、さらに満足そうに笑いました。


「ほら、こうして蛍に囲まれていると、君は妖精にしか見えないよ」

「そう……ですか。自分では分かりません」

「そうなのか。それはきっと、野の花は自分の美しさを知らないということなんだろうね」


 あの、この勇者はどうしてこんな言葉がするする出てくるのでしょうか。反応に困ります。


 これから数日の旅は、どうやらわたくしにとって戸惑いに満ちたものになりそうでした。



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