15.予想外の事態
わたくしたちは一瞬何が起こったのか分からず、呆然と立ち尽くしていました。
地面にうつぶせで倒れているのは若い男性で、顔は見えませんがその髪には見覚えがあります。魔界の月明かりに反射して夕焼けの色に輝く不思議な深い栗色の髪。そして彼がガラントのすぐ後に門に飛び込んできたことからも、彼の正体は明らかでした。
「……なっ、勇者……!」
一番早く立ち直ったらしいカティが彼に魔法をかけようとしました。拘束の魔法か眠りの魔法、そんなところでしょう。けれど魔法は勇者に当たると弾けて消えてしまいました。カティの顔色が変わります。
「全員、レッガのところまで下がってください!」
声をひそめてそう指示すると、カティはわたくしの腕をとってレッガが潜んでいる森まで走りました。後ろから兄様とパーシェ、それとガラントが追いかけてくる気配がします。
そうして森の中に駆け込むと、一部始終を見ていたらしいレッガが心配そうな顔で出迎えてきました。
「おお、魔王様。大変なことになっているようですな」
「時間がありません、大至急対策を練らなければ」
「あいつ縛っとかなくて良かったんですかー?」
「その時間すら惜しいんだよ」
「勇者一人ならばそれがしだけでも抑え込めますゆえに、きゃつの拘束は後回しになりましょうな」
「みな、静かにしてください。勇者が目を覚ましてはいけません」
わたくしが注意すると、全員がしまった、と言う顔をして顔を見合わせました。
「今はどうやって勇者を人間界に戻すか、それを考えましょう」
「はーい、そこの門の封鎖を解いて勇者を放り出せばいいと思いまーす」
「それはなりませぬ。その門の向こうには、それがしを追ってきた勇者の仲間がおりますゆえ」
「だったらどっか別の門を開けてそこから放り出すか?」
「そこまでの移動の間に勇者が目覚めてしまうでしょうね。先ほど魔法で拘束しようとしたのですが、弾かれてしまいました。勇者には魔族の魔法は効きづらいと聞いてはいましたが、これほどとは」
「わたくしが万全の状態であれば魔法で眠らせられたかもしれませんが……先ほどの門の封鎖で魔力を大量に消費してしまっていますし、今は無理のようですね」
「じゃあもう一度ガラントさんにおとりをやってもらいましょうよ」
パーシェが提案します。しかし今のガラントは丸一日飛び続けで、しかも逃げている途中に勇者たちから攻撃を受けたらしく、彼の体にはあちこちに傷ができています。勇者が目覚めてすぐにおとりの役に戻るのは厳しいでしょう。
わたくしがそう指摘しますと、今度はレッガが口を開きました。
「となると勇者を縄か何かで縛っておきますかの。ちょうどわしが持ち運んでいた荷物の中に縄がありますが」
「やっぱりそうなりますよねー」
「だな」
みなの意見がまとまりかけた頃、ふとわたくしはあることに気づきました。
「あの、一つ思うことがあるのですが……わたくしとしては、勇者をあまり手荒に扱いたくないのです。単身で魔界に乗り込んだ勇者が縛られて放り出されたとあっては、間違いなく人間の魔族に対する感情が悪くなってしまうでしょう。わたくしは、これ以上魔族と人間の関係をこじれさせたくないのです」
わたくしの意見に、みなはすっと黙りこみます。否定ではなく同意の沈黙なのは嬉しかったのですが、案の定カティが意見を述べました。
「ではリュリ様、勇者を手荒に扱わない案をお聞かせ願えますか」
彼の黄色と緑が混ざった猫の瞳は黒く見開かれ、わたくしの言葉を待っています。わたくしは魔王として、この問いに答えなければなりません。
「勇者には、自分の意志で人間界に戻ってもらいます。幸い、勇者は一人きりで、しかも彼は自分が魔界のどこにいるか分かっていないはずです。上手く説得すれば、いったん引き返した方が良いと考えさせることもできるでしょう」
「説得? 誰がするんですかあ?」
「そもそもこの辺にいるのは俺たちだけだろうが。勇者が目覚める前に説得役を連れてこれるのか?」
パーシェと兄様が質問をぶつけてきます。カティ一人に詰め寄られていると緊張しますので、二人が気軽に口を挟んでくれて助かりました。何せ、次の言葉を聞いたらカティは間違いなく目を剥くでしょうから。
「勇者の説得はわたくしがします」
「ひゃあ!?」
「は!?」
今度は、二人が同時に叫びました。途端、カティに「声が大きい」とたしなめられています。しかしそのカティも冷静ではいられなかったようで、瞳孔を見開いた真っ黒な瞳でこちらを見てきました。レッガとガラントも驚いてはいたようですが、落ち着いた性格のせいかそれとも年の功か、二人とも何とか叫ばずに済んだようです。
「ガラントが魔王役を引き受けてくれていたおかげで、わたくしが魔王であると勇者には知られていません。そして、ここにいる者の中で、一番勇者に警戒されない容姿をしているのはわたくしです。最悪でも、ガラントが体を休める間の時間稼ぎができればそれでよいのですし」
「確かにそうですな。勇者はそれがしが魔王であると、みじんも疑っていなかった様子でした」
「確かにお前、変化の魔法で羽を隠しちまえばまるきり人間の女にしか見えねえからなあ」
「フェアリー族って魔族の中でもぶっちぎりで人間と恋に落ちやすい種族ですしねえ。たいがいは人間側が一目惚れでべた惚れしちゃうんですよう」
「パーシェどの、それは恋愛小説の話ではないですかな。しかしながら、わしも実際にフェアリー族が人間に嫁いだ例をいくつか知っておりますし、あなたがたの容姿は人間にはとても魅力的に映るのでしょう。そうであれば、勇者も疑いづらいでしょうな」
「……確かに、ここにいる者の中ではリュリ様が適任でしょう。ただし貴女の身に危険が及ぶと判断した時点で、勇者を拘束するか、あるいはガラントを再度おとりとして投入します。いいですね?」
渋々ながらもカティも同意してくれましたが、同時にしっかりと釘を刺されてしまいました。
その後いくつか打ち合わせを済ませ、わたくしは一人で勇者の元に向かうことになりました。
今のわたくしは変化の魔法で羽を隠し、さらにカティと揃いの魔法の耳飾りをつけています。これは彼が予備で持っていたもので、いつでもカティと話すことができる優れものです。カティが近くにいれば魔法を使うことで勇者に気づかれないように話すことができますが、あまりにも距離が離れると魔法での会話は困難になってしまいます。ですから、この魔法の道具があったのは幸いでした。
そのカティとレッガは先ほどの森から様子をうかがい、ガラントは勇者に見つからないよう遠回りして休息を取りに行きました。パーシェと兄様は物陰に潜み、いつでも応戦できるように身構えています。
転移の門があった場所に戻ると、勇者は未だにうつぶせのまま、微動だにせず倒れています。大丈夫なのでしょうか。そもそも彼は何故気を失っているのでしょうか。わたくしが門を封鎖した時の魔力の直撃を受けてしまったのでしょうか。
そう思いながら静かに彼の様子をうかがうと、胸がかすかに上下しているのが見えます。どうやら生きてはいるようです。
そっと手を伸ばして彼に触れると、彼は身じろぎをしました。そのまま少し待つと、彼の腕が動きました。
彼はううん、と声を上げて体をひねると、こちらを向きました。閉じていた目がゆっくりと開き、わたくしを見つめました。
いつか見た、青空のような目でした。わたくしの心をざわめかせる、高く澄み渡った空の青。
わたくしと彼は、しばらくそのままじっと見つめあっていました。彼が何を考えているのか分かりませんが、わたくしはこのままずっとこの青を見つめていたいと思っていました。
やがて彼は、独り言のようにつぶやきました。初めて聞く彼の声は、勇者という勇ましい称号には不釣り合いなほど優しく、そして豊かな響きを備えていました。
「……ここは……」
わたくしが答えずに黙っていると、彼は不意に空を仰ぎました。
「月が三つ……そうか、ここは魔界か」
そこで彼は改めてわたくしを見ました。まだ少し目の焦点が合っていないようにも見えます。
「だったら君は、魔族なのか」
ここでわたくしは無言のままうなずきました。目覚めたばかりで混乱しているだろうし、彼が落ち着くまでは下手に刺激しない方がいい、そう判断したのです。
ですが、次に彼が発した言葉はわたくしの予想もしないものでした。
「魔族の君、君は俺が何故ここにいるのか知らないか? 俺はどうやってここに来たのか、全く分からないんだ」




