10.辺境の空の色
翌朝早く、わたくしたちはつつがなく最果ての集落を出ると、昨日の草原でルーと落ち合いました。まだかなり早い時間で辺りは薄暗いのですが、既に多くの魔族が活動を始めています。ルーが草原に降りてきたのも、多くの者が目にしているでしょう。
草原に立って上を見ると、翼の風圧でわたくしたちを吹き飛ばさないように慎重に降りてきているルーがはるか頭上に小さく見えます。その彼に、カティが呼びかけました。遠すぎて声が届かないので、魔法での会話です。
『おはよう、ルー。今ちょっと急いでいるから、すぐに降りてきてくれないかな。僕たちのことは気にしなくていいから』
『おはよう、カティ。ぼくがいそいでおりると、みんなふきとんじゃいますよ?』
『大丈夫、魔法で守るから。とにかく急ぎなんだよ』
『はーい』
わたくしとカティが全員を風の魔法で包み、ルーの翼が巻き起こすであろう突風に備えます。その途端、ルーが驚くほどの速度で急降下してきました。
轟音と共に暴風が吹き荒れ、周りの草は全てなぎ倒され、その一部は風に引きちぎられ宙を舞っています。少し離れたところの木ですら折れそうなくらい大きくしなっていました。魔法で守られていても肝が冷えるような光景です。魔法の守りがなければ全員無事では済まなかったでしょう。それほどの威力でした。
しかし、着地を済ませたルーはいつも通りの涼しい顔をしています。わたくしたちは急いでルーに乗り込むと、また彼をせかして急ぎその場を離れました。
『ねえ、どうしてそんなにいそいでいたのですか』
わたくしたちを乗せて空高く舞い上がると、ルーがそう聞いてきました。
「わたくしたちが昨日泊まった集落で、あなたのことが噂になっていたのです。あなたは大きくて目立ちますから」
『ぼくがおおきいんじゃなくてみんながちいさいんです。おとうさんとおかあさんはぼくよりずっとおおきいんですよ』
今とんでもないことを聞いた気がします。ルーもとても大きいのに、それよりずっと大きいというご両親はどれほどの大きさなのでしょう。
わたくしが途方もない想像に呆然としていると、カティがわたくしの代わりに説明を続けました。
「そうなんだ、すごいね。それで君を見に魔族が集まったらいけないから、その前にあそこを離れたかったんだ」
『まぞくがあつまったらいけないのですか? どうして?』
「今僕たちがこうして旅をしていることは、できるだけ内緒にしておきたいんだよ」
『ないしょですか?』
「そう、内緒。魔王様がこんなところにいるって聞いたらみんなびっくりしてしまうからね」
『うん、わかりました。びっくりしないようにないしょですね』
ルーは納得してくれたようです。それにしてもカティは子供の扱いが上手いですね。
話し終えるとルーはさらに高く舞い上がり、目の前にそびえる大山脈を越えていきました。ふもとの集落や草原とは大きく異なり、大山脈はただの不毛な岩山で、中ほどより上は氷と雪に閉ざされていました。
ルーの上にいるわたくしたちにも容赦なく吹雪が襲ってきますが、ちゃんと風の魔法で膜を張っているので問題ありません。兄様は、吹雪の中にいるのに寒さを感じないのが落ち着かないと言っていますが。
そして集落で聞いた話では、この大山脈を越えるにはその中に穿たれた洞窟を通るしかなく、飛べる種族であってもこの大山脈を飛んでいくのは困難とのことでした。確かに、わたくしもここを飛んで越えるのは骨が折れそうです。そう考えると、わたくしたちを乗せて軽々と大山脈を越えるルーはすごい子なのでしょう。
そうして易々と大山脈を越えたわたくしたちの目に飛び込んできたのは、見渡す限りどこまでも続く一面の草原でした。色とりどりの花が咲き乱れているのがこの高さからでも分かります。それはありとあらゆる色をまき散らしたような見事な花畑でした。
そんな美しい色の洪水をうっとりと眺めていると、カティがわたくしたちを集めました。
「見ての通りこの辺りは花畑ですし、ひとまずは安全でしょう。ですが突然地形が変化したり、予想外の種族が現れる可能性もありますから、気を緩めないでくださいね」
彼の言うことはもっともです。どれだけ美しくてもここは辺境、わたくしたちが暮らす魔王城での常識は通じないかもしれないのです。
わたくしたちは気を引き締め、美しい花畑の奥を目指しました。
とは言っても、気を引き締めたところで何もすることがないのには変わりありません。手もちぶさたになってしまったわたくしは、ルーの首のところにいるカティのところにお邪魔してみることにしました。本当に邪魔になるようでしたら引き下がる予定です。
「カティ、今大丈夫ですか」
「リュリ様、どうされました」
「あの、今勇者がどうしているかについて、教えてはもらえませんか?」
実はカティに何を話すか考えずに来てしまいましたので、とっさに思い付いた内容を口にしました。勇者の動きについてはカティが斥候を出して探っていますし、魔王がその動向を把握したいと言い出すのは普通のことだと思います。たぶん。
「ああ、それでしたらこちらに」
仕事中だったカティは手を止めると、光の魔法を使ってまた地図を出しました。前に見た魔界の地図とは異なっています。わたくしの知らない……いえ、前のわたくしが知っている地図ですね。
「こちらは人間界の地図です。この白く光る点がまだ開いている転移の門、緑色の点が封鎖済みの門です。そしてこちらの赤い点が勇者の最新の位置を表しています」
見たところ、勇者はまだどの門からも離れているようでした。しかも彼らに最も近い門は既に封鎖できています。
「良かった、これなら間に合いそうですね」
ほっと安堵のため息をつくと、カティも微笑を浮かべました。
「はい、私たちの努力は無駄にならずに済みそうです。リュリ様自ら動いてくださったおかげで、速やかに門を封鎖できています。どうやら貴女にご足労いただいたのは正解だったようです。私個人の心情としては、貴女にはどこか安全な場所で待っていて欲しかったですが」
「カティ、そうやってあなたはわたくしを守ろうとしてくれるけど、わたくしもあなたの力になりたいと思っているのですよ」
「そんな、恐れ多いです」
「いいえ、卑下しないでください。いつも思っていたのです、あなたはわたくしには過ぎた臣下だと。あなたが補佐してくれなかったら、わたくしは日常の政務ですら支障をきたしてしまっていたと思います」
わたくしが言葉を重ねると、カティは珍しく照れているのか、慌てた様子で首を振って否定しようとしています。否定の仕方が妙に必死なのは気のせいでしょうか。なんだか悲しそうにも見えます。彼はこの旅に出てから、こんな悲しげな表情を時折見せるようになった気がします。どうしたのでしょうか。
わたくしは自分の両手でカティの手を包むようにしてそっと握りました。彼の手は形こそ人型ですが、その骨格は猫を思わせるしなやかさを備えており、肌には短い青灰色の毛がビロードのように生えていてとても滑らかです。
「普段はこういったことを言う機会が中々ありませんので、今言わせてください。いつもわたくしを助けてくれてありがとう、カティ。これからもよろしくお願いしますね。そしてわたくしもあなたの力になれるよう努力します。わたくしにできることがあったら、いつでも言ってくださいね」
ありったけの感謝を込めて、彼の手をもう一度握りなおしました。上手く伝わっているといいのですが。
カティはさらに珍しいことに瞳を潤ませているように見えます。瞳孔も黒々としています。少し泣きそうな顔をしていた彼はそのままうつむくと、わたくしと目を合わせずに答えました。
「私こそ、ありがとうございます……本当に、僕なんかのために……」
どうして彼はそんな風に自分を卑下するのでしょう。彼はわたくしにとってとても大切な人の一人ですのに。
わたくしたちはそのまましばらくそうしていました。手から伝わるカティの温もりがとても心地よく感じられました。
やがて、顔をあげたカティはついと横を向くと、照れ臭そうにぼそぼそとつぶやきました。
「それで、その、そろそろ手を放していただけないでしょうか。……私はまだ仕事がありますので」
名残惜しく思いながら、わたくしはカティの手を放しました。そして彼の邪魔にならないよう、ルーの背中にいるみなのところへ戻ったのです。
戻った途端に兄様が思いっきり肩を組んでくるわ興味津々のパーシェが迫ってくるわと大変でしたが。みな暇なのですね。




