俺の知らない俺
「ふぁ~」
夜ご飯を食べて後は寝るだけだ。今日はラジオ放送なんてないから安心して眠っていい。ベッドに寝転んだって誰が文句を言うだろう、早寝早起きは規則正しい生活の第一歩なのだから。
―――今日は何もない、素晴らしい一日だった?
確かにそれはそうなのだが、今日は一魅と少しも話せなかったのだけが気がかりだ。俺が名前を呼びながらそこらを暫く歩けば彼女はいつでも現れてくれるが、今日みたいに用事がないとまるで最初から存在しないかのように姿を見かけない。いいや、弓水一魅は実在する。こんなのは昔から、いつもの事ではないか。
ただあの時は、一魅が何処かへ行ってしまうのが怖くて、そして誰も俺の相手をしてくれなかったから傍に居ただけだ。
「…………」
虚空に向かって手を突き出し、強く握りしめる。決意表明なんて改めてするまでもないが、一魅のカラダは俺が見つける。これから先に何が起ころうと、何をされても。この気持ちにケリをつけられるとしたらきっとその後で、それまでは聖人君子のままでいい……なんて、もうとっくに破綻している。これまでどれだけ一魅に甘えてきたと思っているのだ。
誰かに甘えるのが聖人君子なんて笑わせる。善だの悪だのは見方次第で変わるが、少なくとも聖人と呼ばれるからにはもっと自立しているべきだと俺は思う。誰からも施しを受けず、誰の支えも必要としないからこそ聖人などと神聖視されるのではないか。俺は、全くその基準に達していない。
「……はぁ」
今まで部活動で忙しかったせいだろうか、やる事が無くなるとまるで落ち着けない。動かなければ死ぬ病気にかかったつもりはないのだが、どうしても何かをしたい。こんなに眠気を感じているのに。
「…………え」
ふと視界の端に妙な動きを捉えその方向に視線を寄せると、鏡があった。鏡面を見つめているから当然、鏡の中に自分が映っている。
―――鏡にびっくりしたのか? 俺は?
だとしたら、笑える。自宅に居るのにどうして俺はここまで臆病になっているのだろう。透明人間に監視されているならまだしも、最初に解決して以降同様の事件は見られない(単に認識出来なくなった可能性がないとも言わないが、一魅が気づきそうなものだ)。ほら、鏡の中の俺も嗤っている。俺は実に愚かだと。
「え?」
俺はもう笑っていない。しかし鏡の中の俺は……笑っている。
「ちょ、は……ええ?」
鏡の中の景色はまるでそこにもう一つ別世界があるかのように自由だ。たまらず手を伸ばしたが、指先すらすり抜ける気配がない。一方で鏡の中では神坂守命がひとりでに動き、ベッドの下を漁っている。
「お、おい! なにしてるんだ?」
鏡の向こうに声など聞こえない。鏡を揺さぶろうと軽く指で叩こうと結果は同じだ。目に見えた実害もないから暫く様子を見ていたが、いつまで経っても神坂守命はベッドの下に手を伸ばしたまま動かない……もしかして、俺に真似をしろと……言っている?
誰かがそういう助言をしてくれた訳じゃない、ただ目の前にあるのは鏡で、向こうの俺はさっぱり真似をしてくれないから……俺の方が真似をすればいいのか、なんて。理屈が通っていないのは分かるが、鏡としてあるべき姿に戻そうとしていると言えばとりあえず聞こえはいい。ベッドの下を同じように探ると、フリのつもりだったそこには見覚えのない鏡が置いてあった。
「……ど、銅鏡?」
こんな代物を見かけたのは小学校の頃の遠足で行った博物館以来だ。しかもこの銅鏡はサイズが随分コンパクトで、ポケットは難しいが鞄に入れて十分持ち歩けてしまう。当然、両親がこれを買ってくれた覚えもなければねだった記憶もない。
鏡の方を見遣ると、映る景色が変わっていた。神坂守命が机の引き出しを漁っている。殆ど直感で出した仮説にすぎなかったが……当たっているようだ。鏡に合わせて俺も机の引き出しに手を伸ばし、中を弄った。
「…………?」
今度は黒ずんだペンダントを見つけた。小さなランタンを吊るしたペンダントは上の蓋部分が開けられるようになっており、中には白い粉が入っている。探偵ではないので舐めようとも思わない、仮に砂でも腹を壊しそうだ。
次に鏡は枕の下を覗いており―――ここでようやく、俺は鏡に映る神坂守命の意図を理解した。動機はともかく、俺に同じ場所を探してほしいのだ。そこに何かがあるからと。
それを証明するように枕の下にはマッチ。
続いて本棚の適当な一冊(山で虫取りする時に読んだ図鑑か何かだっけ)には黒バラの押し花が入った栞。
全て取得してから鏡を見ると、神坂守命は鏡の向こうから俺を見ていた。
「……お、お前。何がしたいんだ?」
鏡は飽くまで答えない。どう問い詰めたものか悩んでいると、自室の扉がノックされる。
「守命。女中さんが来たぞ」
「は? …………ああ、今行く!」
女中と呼ばれて該当する人物は一人しか居ない。
視線を鏡に戻すと、、向こうの神坂守命は一足早く姿を消していた。
「こんばんはぁ、神坂様。夜分遅くに失礼いたしますねぇ」
「ですよね……」
「はい?」
「あ、いや。女中とか言われたらパッと浮かぶのは舞子さんだけだなって」
「普段はこのような姿では出かけないのですが急を要するとの事でしてぇ。ごめんなさいねぇ」
割烹着姿を見て即座に女中と表現出来る父親も中々どうして……その概念が身近になさすぎて俺ならパッと出てこない。和製メイド服という捉え方をしたのだろうか。
「何の用です? 貴方がここに来たって事は……伽堂からですよね」
「お嬢様からの質問を一つ仰せつかっておりまして、準備の方はよろしいですかぁ?」
「し、質問? そんなのSNSで……ああいや、交換はしてないな。だとしても舞子さんを顎で使うのはやりすぎですけどね」
「お嬢様の我儘にはもう慣れておりますから、ご心配なくぅ。よろしいですか?」
「まあ……いいですよ。質問…………ねえ」
鏡の一件よりも困惑しているが、そこまでして急に知りたい事があるなら可能な限り答えるつもりだ。舞子さんは服の袖で口元を隠す用に微笑むと、「では」と一言添えてから質問を告げた。
「お嬢様の花婿に立候補する気はございませんか?」
「………………ん? はい?」
「おや、聞こえませんでしたか? ではもう一度。おじょうさ―――」
「聞こえてますよ! え、ええ? な、何を突然……どういう風の吹き回しで?」
「理由まではお聞きしませんでしたが、安全の為とは仰っておりましたよぉ。それにしたって神坂様、質問に質問で返すのは感心しませんねぇ」
「これは質問し返すでしょ!? こんなもんすぐに”はい”か”いいえ”で答えられる筈がなくてー!」
心当たりがないとは言わない。敷茂昭がどのような手段を用いて自分の後輩を手籠めにしているのかを調べる為に伽堂は自らを餌とする事に決めた。俺達はそれを止めるどころか結局容認してしまったが、実際のところ催眠術のような手法を伽堂が防げるとは思えない。
それらが全て妄想にすぎず、例えば敷茂昭の手法が金に物を言わせる心の買収ならここまでの話は全て杞憂に終わる。だがもし、非科学的、そして今は十分あり得る方法で校内の女子を手籠めにしているなら―――榊麻の一件で対症療法的に引き籠らざるを得なくなったくらいだ、次こそはと保険を用意しておきたい気持ちは理解出来る。
問題は、花影に続いて今度は偽の花婿をやらないといけない事だ。
「舞子さん。一応ですね、俺って花影の彼氏でして。彼氏の一方で花婿だったら凄い不誠実っていうか、そのせいで花影を守れなくなっても困るっていうか」
「まあ酷い! お嬢様はどうなってもよろしいのですね!」
「………………分かりましたよ! 敷茂昭さえどうにか出来たらいいですもんね!? ああもう、それが急を要する質問な訳ないだろうが!」
助けてくれ、一魅。
そんな心の声も空しく、舞子さんは帰ってしまった。
俺は、何をしているんだ。




