71.たったひとつの願い
荒井くんの母親と父親の話を聞き終えた私は、体の力が抜ける。
思わず近くにあった木目調の塀に手をつく。背よりも高い塀はどっしり構え、中の家を守る。
家というのは安全地帯だ。帰る場所であり、無条件で心を許せる所でなければならない。
だが、それがない人はどうする。
母もなく、父もない、帰りたいと思えない場所になってしまったら、どうすればいい。
荒井くんは、一体どこに帰ればいい。
塀に寄りかかり、ぼんやり考えていると声が聞こえた。
「山吹。…………どうかしたの。」
「あ、らいくん……。」
振り向いた先には荒井くんがやけに落ち着いた様子で立っていた。
もしかすると気が付かなかっただけでずっと後ろにいたのかもしれない。
だとすると、先の会話を聞かれていた可能性がある。
「……………何にもないよ。ただ立ちくらみしただけ。」
「そう。」
これ以上、何も聞かないでくれと願う。
しかし、そんなことは叶うはずもなく。
荒井くんは私を見下ろして、小さく口を開いた。僅かに震えているように見えたのは錯覚だろうか。確かめるすべはない。
「……さっきの人達の話、聞いてたでしょ。」
「………………………………うん。ごめんなさい。」
「………別に山吹が謝ることじゃないでしょ。こんなとこで話してた父さんと母さんが悪い。」
だとしても、盗み聞きはよくないだろう。
そんな言葉が口を出ることは無く、ただ前を歩く荒井くんを追いかける。
「僕はさ。父さんと母さんを恨んだりとか、してないよ。むしろ幸せになってほしいと思ってる。」
「………そっか。」
そう思えるのは、彼が寛容だからか。それとも諦めてしまっているからか。
どこか寂しそうにも見えた後ろ姿。今は、顔を見る勇気なんて到底湧いてこない。
「だから、神様に会いたかったんだけど。……岬ヶ崎の一件以来、会えなくて。まぁ、人生甘くないよね。」
荒井くんはあくまでも、両親の幸せのために神と会おうとしている。
自身のためではない。いや、2人の幸福が己のためと言われればそれまでだが、少なくとも私にはそうは思えなかった。
「…………なら、私と一緒に神社に行かない?」
「?なんで。」
「ほ、ほら。私、運が良いからさ。……だから、私がついて行ったら神様に会えるかも。」
私は出来た人間ではない。
正直なところ、荒井くんの両親の幸福に興味があるわけではなかった。
しかし。荒井くんがそれを望んでいるというのなら、少しでも手伝いがしたかった。
彼が、大切だから。
「………………………どう、かな。」
「山吹が良いなら、お願いしようかな。今日の放課後にでも。」
「う、うん!早速試そう!」
無理にでも声を張る。
やはり、荒井くんの表情は確認できない。




