92.おくるもの
夕暮れ時。大里 人志は目頭に手をあて、ひと息ついていた。
というのも、妖怪がもたらした影響を人間に気付かせないよう奔走していたのだ。
気が付けば日は傾いていた。
だが、彼のすべきことは終わりではない。
アイロンのかかった白いシャツのまま、彼は神社を訪ねる。
そこには彼と血のつながった神がいる。
少女の姿をした神は、白い狼を布団のように下敷きにして空を見上げていた。
「……………ヒトシか。」
大里に気がついたのか、身体を起こす。
「私に話がある、と聞きましたが…。」
そう言いながらも、内では予感がしていた。今日、呼び出されたのは神の後継ぎについてなのではないかと。
「あぁ。そうじゃ。………お主も予感しておると思うが…妾はもうじき妖怪になる。その時がくれば、妾を殺せ。」
予感は的中した。
いつか来るであろう時が、遂に日常の延長線上へと現れたのだ。
大里は眉ひとつ動かすことなく、しかし強く確かに頷く。
「分かりました。貴方の後継として、尽力しましょう。」
「…………あぁ。頼んだぞ。それと、妾から最期に贈り物がある。」
「贈り物…ですか…?」
そこで初めて大里の表情に変化が生じた。まさか、贈り物という考えには至らなかったのだ。
神の手を注視するが、件の贈り物らしき物体はない。
「ふっ。贈り物というたが、モノではない。」
「そうなんですね。てっきり、お守りの類かと…。」
「なんじゃ。欲しかったのか?」
いたずらっぽく、弾む神の声。
「いえ。強いて言うならば…スクラップブックが欲しいですね。写真を貼りたいので。」
「…………お主は本当に写真が好きじゃのう…。」
「はい。風景や生徒の写真。道行く人々の写真。それらを見返す瞬間が、何より幸せです。」
「そうか。……ん?道行く人々…?お主、許可は取っておるのか…?現世の人間は権利に厳しいのじゃろう?」
「問題ありませんよ。そこは理解してます。…これでも教師ですからね。」
「うむ。なら良い。」
この瞬間のみ。2人はまるでただの親戚のような会話をしていた。
神とその後継ぎでなく。ありふれて、何処の家庭でも見られるような光景だ。
ふっと頬を緩ませた神は手のひらを合わせ、話を戻す。
「と、話を戻そう。妾からの贈り物じゃが…それは妖の狭間の封印じゃ。」
「!」
変哲もない会話から、神の顔は生真面目なものに変貌した。
「妖怪になる直前に、神力を振り絞り封印を行う。そうすれば、かようなトラブルには見合わんじゃろう。」
彼女の封印が成功すれば、妖怪が現実世界へ来ることもなくなる。そして、人間が妖の狭間へ行ってしまうことも。
静かに話を聞いていた大里は唇に折り曲げた人差し指を当てながら考えを巡らせていた。
「なるほど。そして、私も封印された妖の狭間にて神の役割を果たす…と。」
「いや。お主があとを継ぐ必要はない。」
「え?」
つい、驚き小さな口を開ける。
見開いた眼は、目前の神を捉えていた。
「そも、妖の狭間が閉じるのであれば統括する神も不要じゃ。……じゃからお主は人として生きればいい。」
「………………良いのです?」
「悪いことがあるか。」
「そう、ですか。」
大里はいつか、神になるのだと自身へ言い聞かせていた。
神の血を引く人間として生まれ、来たる日を前に心積もりをしていた。だが、いざその時が近づいた時。神になる必要はないと告げられた。
驚きと呆気なさ、拍子抜けた気持ち、そして、胸がすくような感覚が染みる。
「…………ありがとうございます。」
「礼はいらん。あぁ、そうじゃ。妾を倒したあと、妖の狭間から出る時はお主の力を使わんといかんな。何せ、妾が封印を施すのじゃから。」
「えぇ。分かりました。」
自然に風が吹くことのない空間。
喧騒さえ耳に届かない境内で、大里は砂利を踏みしめながら神に近づいた。
そして右手を差し出す。
それは誓いでもあり、感謝でもあった。
神は幾度か瞬きをした後、差し出された手を握りしめる。
幼気なはずの彼女の顔は、今や慈愛に満ち、我が子を送り出すような母に近しいものであった。




