≒89.山中にて③
神と別れ、潮儿山の更に奥へと進む。
周囲は既に暗い。
空が低く感じ、木々がすぐ真横にぴったりとくっついているような錯覚に襲われる。
狭苦しい箱に閉じ込められた。そんな気さえ起こる。
「…………。」
雪の積もる真冬だというのに、額には汗がにじむ。
静かにつばを飲み込み、ただ前へと進んだ。
今更戻るなんてことはできない。このまま行けば、きっと妖の狭間の異変を解決できるはずなのだから。
拳を握りしめ、足を動かす。
不意に風が吹いた。
妖の狭間では珍しいことだ。
拍子に空を見上げる。頭上には揺られる枯れ枝が互いにぶつかり合い、音を出していた。
パチパチ、パチパチ。
パチパチ、パチパチ。
時折、か細い枝が折れたのか、パキッと鳴る。
パチパチ、パチパチ、パキッ。
パチパチ、パチパチ、パキッ。
不愉快な喧騒に包まれ、咄嗟に懐からお守りを出す。それは、潮儿山へ来る前に大里先生に貰ったものだ。
心を鎮めるため、柔らかい布地で包まれたお守りを目一杯握った。
その時、下品な笑い声が耳に入る。
「!?だ、だれ…!?」
答えはない。
ただゲラゲラと、唾を飛ばすような、ひたすら此方を小馬鹿にするような笑い声が響く。
「だれなの!…で、出てきてよ!」
声を張るが、相手の姿はない。
首を回して不可視の相手を探す。
「あ、」
視線の先、山道の脇に今の今まで気付けなかったが、ひとつの物体があった。
形は地蔵である。グレーの石で出来た地蔵。ただ、普通の物ではないのは明白だった。
何より特筆すべきなのは、地蔵の顔だ。
人工的な胴体とは対照に、まん丸い顔の下部には人のような赤くざらついた舌がついていた。
地蔵はその舌を前に突き出し、笑い続ける。
「あ、貴方が…神、なんですか…?」
聞いた話だと、山を登った先に神がいる。
つまりは、今、ここで出会った不気味な地蔵こそが神なのだろうか。
ゲラゲラと笑いながら、依然として地蔵は答えない。
「何がそんなにおかしいんですか。どうして、そんなに笑っているんですか。」
自分でも止められないほど、強い口調で詰め寄る。
すると、地蔵はようやく言葉らしい言葉を話す。
「オマエがおかしいから、おらは笑ってるんだ。おかしいのが可笑しいからおらは笑ってるんだ。」
乱暴な口調で、少しなまった男のような声が発せられた。
「私がおかしい…?どういう意味ですか。」
「おかしいはおかしい。オマエみたいなばかもんが、いちばんおかしくて、いちばん可笑しい。」
意味の分からない、言葉とも言えない言葉を口にしながら、なお地蔵は笑う。
苛立ちを覚えながら、地蔵の真ん前に立つ。
手にしていたお守りの感触が私に冷静さを取り戻させる。
そうだ。ここに来たのは妖の狭間の異変を解決するためだ。
地蔵が神かどうか定かではないが、聞いてみるだけで価値はあるかもしれない。
「貴方に聞きたいことがあるんです。……ここ最近、妖の狭間が変になった原因を、知っていますか。私はそれを、」
聞きたくて、と続ける前に不快な地蔵の笑い声がいっそう強まる。
赤い舌が上下左右にぐるぐると回る。
「おかしい!おかしい!おかしい理由を、おらは知ってる!」
「!じゃ、じゃあ教えて下さい!」
「教えなくても、オマエは知ってる!」
「え?」
予想外の答えに思考が止まる。
妖の狭間が不調をきたした原因を、私が知っているとそう言われた。
だが、そんなもの私が知るわけがない。
「し、知りませんよ。私は。」
「知ってる!知ってる!」
もし、本当にそうだとするならば、私は原因を知っていながら放置していたということになる。
それはつまり、大里先生や千里くん、純麗ちゃんに迷惑をかけていたということにもなる。
その事実を認めることはできない。
「だから、知りませんってば…!」
「知ってる!知ってる!おかしいオマエがおかしくした!おかしいオマエのせいでおかしくなった!可笑しい!可笑しい!」
「私のせい?意味が分かりません…!だって、私はただの座敷わらしの血を引く人間です!それが、どうして妖の狭間に影響するんです!?」
「座敷わらし!おかしい!おかしい!オマエはおかしい!可笑しい!」
「うるさい!!」
地蔵を突き飛ばす。
ゴトッと鈍い音と共に石造りの固い体は地面へ転がった。
不愉快な言葉と笑い声は止んだ。
背を向け、歩き出す。
私が妖の狭間の原因だなんて、そんなはずはない。
人様に迷惑をかけて、そうしてのうのうとしていただなんて、そんなわけない。
空に昇った月の下。雲ひとつない夜空に責め立てられるような心地をしながら、山を下ることにした。




