55.アイテリア王国の亡命王女、メルティア・ヴァルセリオン!
教会の裏手にある小さな茶室は、質素だが綺麗に片付けられていた。
木製の丸テーブルを挟んで、セシリアとソレイヤが向かい合って座る。
ノアがお茶を淹れて立ち去ると、部屋には完全な静寂が訪れた。
「さあ、セシリアさん。お茶をどうぞ。粗茶ですが、温まりますよ」
ソレイヤが慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、湯気の立つカップを勧める。
しかし、セシリアの体は石のように固まっていた。
目の前にいるのは、空を黒く染め上げた極級の魔人を従える、邪神メティシア本人なのだ。
『ひっ……』
セシリアは両手を膝の上で固く握りしめ、震える唇を必死に引き結んだ。
極度の恐怖で声が出ない。
挨拶すらまともにできない。
(ちょっと、セシリア。あんたじゃ話が進まないわ。貸しなさい)
セシリアの意識の奥底で、星乃が呆れた声を上げた。
次の瞬間、体の制御がセシリアから星乃へと切り替わる。
部屋の空気が一変した。
先ほどまで小さく縮こまっていた少女は、突然、椅子に深くふんぞり返って座り直した。
脚を組み、腕を肘掛けに乗せ、見下すような傲慢な視線をソレイヤへ向ける。
「久しぶりね、メティシア」
星乃の口から出たのは、低く、しかしはっきりとした響きを持つ強気な声だった。
ソレイヤはカップにお茶を注ぐ手を止めず、不思議そうに小首を傾げた。
「セシリアさん?何のお話でしょうか。私はソレイヤというしがない修道女です。メティシアとは、どなたのことですか?」
完璧な演技だ。
表情にも魔力の揺らぎにも、一切の隙がない。
星乃は鼻で笑い、組んだ脚を揺らした。
「そう。記憶喪失の修道女ソレイヤね。それとも……アイテリア王国の亡命王女、メルティア・ヴァルセリオンと呼んだ方が良さそうかしら?」
『ええ!?亡命王女!?』
意識の奥底で、セシリアが驚きの声を上げる。
だが、その驚きはすぐに、目の前の圧倒的な殺意によってかき消されることになった。
ソレイヤの顔色が暗く沈み、室内の空気が急激に重圧を増す。
同時に、星乃の『攻撃感知』の権能が、狂ったような警告音を脳内で鳴らした。
(やばい!見えない攻撃がやって来る!)
星乃の直感が、極限の危機を告げる。
ソレイヤは指一本動かしていない。
魔力の詠唱も、魔法陣の展開もない。
だが、確実な死の気配が迫っていた。
星乃は即座に『ジャスト回避』を発動させ、椅子から弾かれたように横へ跳躍した。
直後。
星乃が座っていた椅子の周囲の空間が眩いほどに白く輝き、何もない空中から、神々しい純白の光槍が無数に突き出してきた。
木製の椅子は光に触れた瞬間、音を立てる間もなく消滅し、光槍はさらに伸びて茶室の壁を貫く。
もし回避がコンマ一秒でも遅れていれば、全身を光の槍に貫かれていた。
その光槍から放たれる圧倒的な聖なる力は、極級の勇者ハルトの全力攻撃ですら遥かに及ばない次元のものだった。
『きゃあああ!!!死ぬ寸前でした!』
セシリアが心の中で悲鳴を上げる。
星乃は回避の勢いを利用して空中で身を翻し、そのままテーブルの上へ軽やかに着地して座り込んだ。
そして、わざと傲慢な眼差しを作り、眼下のソレイヤを冷たく見下ろした。
「挨拶代わりにしては、随分と物騒な魔法ね」
星乃は鼻を鳴らす。
一方のソレイヤは、信じられないものを見るように目を見開いていた。
自らが放った空間干渉の必殺の一撃。
魔法の予兆を完全に消し去ったその攻撃を、目の前の小娘は完全に感知し、一瞬で動きが捉えられなくなるほどの規格外のスピードで回避したのだ。
ソレイヤは椅子の音を立てて立ち上がり、一瞬で数歩後退して距離を取った。
その青い瞳には、警戒と明らかな困惑が入り混じっている。
ソレイヤの声音から、先ほどまでの柔らかさは完全に消え去り、冷たく澄んだ王者の響きへと変わっていた。
「セシリア……いいえ、ヴァルキュリャですね。あなたは何者ですか!その名、聞いたこともありません。私の正体を知り、私を追って王都へ来たのですか。目的は何です!」
ソレイヤの低い声が茶室に響く。
部屋の空気そのものが重くのしかかり、息をするのも苦しいほどの圧力が渦巻いていた。
星乃は小さく肩をすくめ、テーブルから降りて他の椅子に優雅に座り直した。
そして、テーブルの上に置かれていたカップを手に取り、丁寧にお茶を少しずつ飲む。
「焦らなくてもいいわよ。殺し合いに来たわけじゃないんだから」
(この反応だと、ゲームの主人公であるスカイボンにはまだ接触していないようね)
星乃は頭の中で、ゲームのシナリオを冷静に思い返す。
メルティア・ヴァルセリオン。
アイテリア王国の元第三王女で、同時に邪神メティシアとしての存在。
『スカイボン』のメインストーリー、王国ラインでは重要人物だ。
国王の死後、王子と王女がそれぞれ支持者を集め、王位継承戦争が勃発した。
王都では王子派が、地方では王女派が優勢となった。
平和を求めた王女は軍事的な決断に優れておらず、味方の貴族たちが次々と離反していく。
決戦で敗北し、王女の軍は壊滅。
彼女本人も捕らえられる寸前、ヴァルセリオン家に伝わる禁術を使用し、邪神メティシアの力を得て隣国へと逃れたのだ。
本来なら、主人公スカイボンが彼女と接触し、物語の大きな分岐点を迎えるはずだった。
(つまり、私は今、ゲームのスカイボンの代わりに、このメインシナリオのルート分岐を選べる立場にいるってこと。世界の運命すら動かせる選択……かなり重い役割を背負ってしまったわね)




