52.邪神メティシアが、王都にいる!?
翌朝、朝日が差し込む帝国騎士団戦闘部の練兵場。
セシリアは少しだけ足取りを軽くして、騎士たちが集まる場所へと向かった。
昨日の決闘の熱気は落ち着いていたが、彼女を見る周囲の視線は明らかに変わっていた。
侮蔑や嘲笑は完全に消え、驚嘆と少しの畏敬が含まれている。
「あ、あの……ギルバート様」
セシリアは、広場の隅で防具の手入れをしていたギルバートに声をかけた。
彼は肩を落とし、完全に覇気を失っていた。
昨日の敗北が中級騎士としての彼からあらゆる自信を奪い去ったようだ。
セシリアの声を聞くと、ギルバートはビクッと肩を揺らし、気まずそうに顔を逸らした。
「……なんだよ」
「その、昨日の約束ですが」
セシリアが控えめに言うと、ギルバートは深くため息をついた。
「分かってるよ。俺が負けたんだ。一ヶ月間、お前の雑役仕事は俺が全部やってやる」
酒と女に溺れ堕落していた彼だが、大勢の騎士の前で負けた以上、逃げることだけはできなかった。
それは騎士としての最後のプライドだった。
「あ、ありがとうございます」
「別に礼を言われる筋合いはねえよ。俺の自業自得だ。……ほら、荷運びがあるなら場所を教えろ。俺が行く」
ギルバートは重い腰を上げ、雑用区画へと歩いていった。
その後ろ姿を見送り、セシリアはほっと胸をなでおろす。
これで日中の過酷な肉体労働からは解放される。
さらに、クライヴとクロエの尽力もあり、セシリアは騎士団から正式な許可を得ていた。
雑役の仕事が免除されている間、騎士見習いたちの基礎訓練に特別に参加することが認められたのだ。
下級ランクの村娘が騎士の訓練に混ざるなど異例中の異例だったが、昨日の彼女の戦術を見れば反対する者はいなかった。
「よし、セシリア。お前も列に入れ」
指導教官の野太い声が響く。
セシリアは木剣を手に取り、同年代の騎士見習いたちの列に加わった。
騎士見習いの訓練は、純粋な魔力制御と身体強化の基礎を叩き込む過酷なものだった。
重い鎧を着た状態での長距離走、木剣の連続素振り、そして魔法を使った防御の反復。
下級の魔力しか持たない者にとっては、昼前には立ち上がれなくなるほどのメニューだ。
「はぁ……はぁ……」
「くそっ、足が動かねえ……」
周りの見習いたちが次々と膝をつき、呼吸を荒げて倒れ込んでいく。
だが、セシリアだけは違った。
「大地の恵みよ、私の体に活力を」
一定のリズムで身体強化魔法を展開し続けながら、彼女は平然とした顔で走り続け、木剣を振るっていた。
息一つ乱れていない。
夜な夜な星乃によって行われた、強制的な肉体破壊と再生の無限ループ。
それに比べれば、この程度の訓練は散歩をしている程度にしか感じられなかった。
「おい、見ろよあの子……」
「全然疲れてないぞ。下級ランクだろ?」
指導教官や周囲で見学していた騎士たちが、信じられないという顔でセシリアを指差す。
「さすがにハルト様から推薦状をもらえただけはある。あの体力とスタミナ、規格外の力を持っているな」
「けど、疑問だ。なぜあのテストでランバート公爵に落とされたんだ?」
「これだけの基礎能力と、昨日のギルバートを倒した戦術があるなら、極級は無理でも中級としては即合格だったはずだぞ」
騎士たちの間から、不思議そうなヒソヒソ声が漏れる。
彼らは知らない。
二ヶ月前のセシリアは本当に下級ランクの力しかない村娘であり、この異常なステータスは地獄の特訓によって後天的に作られたものであるということを。
午後の訓練が終わり、支給されたパンとスープで遅めの昼食をとりながら、セシリアは石段に座ってのんびりと足を揺らしていた。
疲労感は心地よく、吹き抜ける風が汗を冷ましていく。
『邪神様』
セシリアは心の中で、明るい声で呼びかけた。
『今の生活、とても幸せなんです!』
(はあ?何が幸せよ。毎日泥にまみれて木剣を振るっているだけじゃない)
星乃が呆れたように返す。
『だって、雑役のお仕事はギルバート様がやってくださいますし、私はずっとやりたかった剣や魔法の訓練に集中できます。それに、お給料も高いですし、王都の騎士団の中だからとても安全です』
セシリアの顔に満面の笑みが浮かぶ。
『邪神様のおかげで、こんなに幸せに過ごせる生活ができました!』
村では強欲な村人たちに裏切られ、暗緑の森では魔獣に怯え、西側街道では魔人に殺されかけた。
それに比べれば、ここは天国だ。
『私、いつか絶対に、この折れない心を邪神様に見せて、昇格試験に合格して……ガチで騎士になってみせます!』
セシリアの純粋で前向きな決意。
だが、星乃の返答は冷酷だった。
(いつか、じゃなくて……もうそろそろだよ?)
その声のトーンに、セシリアはピタリと動きを止めた。
『はい?』
(いつか騎士になるなんてのんきなことを言っている場合じゃないって言っているの)
星乃の気配が、意識の奥底で鋭く尖る。
(私の言ったこと、忘れたの?)
『覚えています!』
セシリアは慌てて答える。
『王都に行けたら、危険な冒険者にならずに、一生王都で安全に働けば良いってことでしょう!』
それは、星乃がセシリアの安全を優先して提案したはずの道だった。
(……あんた、本当に記憶力が鳥レベルね)
星乃は深い深いため息をついた。
(それは魔人を撃退する前の話。西側街道で、魔人と対峙して戦った時に、私が言った言葉は?)
『え?』
セシリアはスープの器を持ったまま、固まった。
西側街道の平原。
空を覆い尽くすほどの黒い魔力。
勇者ハルトが一撃で重傷を負わされ、全員が死を覚悟したあの絶望的な状況。
星乃が体を乗っ取り、鉄の槍で魔人の魔法を弾き返した後。
魔人の戦意を完全にへし折るために、星乃が口にしたハッタリの数々。
『あ……』
セシリアの脳裏に、星乃の傲慢な声が蘇る。
『あっ……!?』
セシリアの顔から、一気に血の気が引いた。
持っていたスープの器が手から滑り落ち、石段に当たって音を立てる。
『邪神、メティシアが……!』
震える声が心の中に響く。
『王都に……王都に、いる!?』




