36.神は、貴方を許すでしょう~
緑色の体液を撒き散らしながら、三メートルを超える毒牙蜘蛛が崩れ落ちた。
ズスーンッ、という重い地響きがペトラ村の広場を揺らす。
その後には、風の音すら消え去ったかのような、完璧な静寂が訪れた。
悲鳴も、荒い呼吸音も聞こえない。
広場にいるすべての人間が、息をすることすら忘れて固まっていた。
村を蹂躙し、山賊の手下たちを次々と食い殺した巨大な化け物。
下級剣士である山賊の頭が魔力を注ぎ込んだ一撃すら通じなかった圧倒的な暴威。
それが、魔法の気配を持たない小柄な少女の持つ、たった一本の短剣によって瞬時に沈黙させられたのだ。
星乃は毒液を避けるために一歩下がり、短剣についた緑色の体液を振って払い落とす。
「ふう。やっぱりただの雑魚ね。耐久力だけは少し高かったけれど、関節の隙間を狙えば一撃で終わるわ」
星乃は全く乱れのない声で独り言をこぼす。
その声が、静寂の広場にやけに響いた。
「ひぃっ……!」
最初に声を出したのは、右足を矢で射抜かれて倒れていた山賊の頭だった。
頭の脳内で、今の光景が何度も再生される。
超高速の跳躍。
無造作な一撃。
化け物の首を軽々と両断する力。
それは、彼が知る下級や中級の剣士の領域を完全に超えていた。
王都の精鋭や、ごく一部の英雄にしか許されない力。
「ゆ、勇者だ……!」
頭は激痛を忘れ、地面に額を擦りつけるように平伏した。
「勇者様だ!本物の勇者様が、こんな辺境の村にいらっしゃったんだ!」
その叫び声に、恐怖で固まっていた山賊の手下たちや、村人たちの顔にハッとした色が浮かぶ。
「そ、そうか……あのセシリアは、勇者様だったのか!」
「金貨をポンと出せるのも、あの化け物を一撃で倒せるのも、勇者様なら当然だ!」
「俺たち、助かったんだ!」
誰もが、星乃の常軌を逸した力を「勇者」という分かりやすい枠組みに当てはめることで、自分たちの理解を保とうとしていた。
広場は一転して、安堵と興奮のざわめきに包まれる。
(馬鹿な連中。勝手に設定を作って喜んでいるわ)
星乃は冷笑を浮かべ、腰の指輪から再び弩弓を取り出した。
カシャッ、と軽い音を立てて、新しい矢を装填する。
「あ、あの……勇者様!オレは、オレたちは愚かでした!」
山賊の頭が、矢の刺さった足を引きずりながら必死に這い寄ってくる。
「勇者様とは知らず、無礼な真似をしました!どうか、命だけはお助けください!これからは、勇者様の手足となって働き、オレのすべてを捧げます!」
頭は地面に顔をつけ、泥まみれになりながら服従を誓う。
生き残るためなら、プライドも地位もすべて捨てる。
それが、辺境で生き抜いてきた下級剣士の彼なりの生存術だった。
星乃は弩弓を片手で弄びながら、面白そうに頭を見下ろした。
「私に服従するってことは、私の言うことなら何でもするってことだよね?」
星乃の声は、機嫌の良い少女のように明るく、遊び心に満ちていた。
「は、はい!何でもします!靴を舐めろと言われれば舐めますし、誰かを殺せと言われれば直ぐに首を刎ねます!」
頭は顔を上げ、必死に忠誠をアピールする。
星乃は楽しげに小さく笑った。
「なら、私に、貴方の罪を告白して」
「えっ?」
「善良な勇者は、きっと貴方の罪を許すでしょう?だから、今までどんな悪いことをしてきたのか、隠さずに全部話してよ」
頭は一瞬戸惑ったが、すぐにこれは自分を試すための試練なのだと解釈した。
勇者の前で嘘をつけば、即座にあの短剣で首を落とされる。
ならば、すべてを正直に話し、深い反省を示すことで命を拾うしかない。
「わ、わかりました……!勇者様、どうかオレの愚かな罪を聞いてください!」
頭は涙を浮かべ、震える声で語り始めた。
「オレは元々、ルミナ都市の冒険者でした。でも、下級ランクの依頼ばかりで稼ぎが少なくて……。ある日、上級の魔獣の素材を偶然手に入れたんです。大金になると思いました。でも、パーティーの仲間が、ギルドに報告して平等に分けるべきだと言い出して……」
頭の顔が、後悔に歪む。
「オレは金が欲しくて、寝込みを襲って仲間を殺しました。それから指名手配され、都市を追われて……この辺境に逃げてきました」
頭の言葉に、周囲の村人たちが息を呑む。
「それからは、生きるために街道で人を襲いました。商人や旅行者を殺して荷物を奪い、数年かけてこの山賊団を作ったんです……!」
頭は地面に両手をつき、ポロポロと涙を流す。
「何十人も殺しました!金のために、多くの命を奪いました!オレは、最低のクズです!」
大の大人が、鼻をすすりながら泣き叫ぶ。
「でも、今日、勇者様の神々しいお力を見て、目が覚めました!オレは生まれ変わります!これからは、勇者様のためにこの命を使い、過去の罪を償っていくと誓います!」
涙まみれの懺悔。
それは、傍から見れば心を打つほどの必死な告白だった。
星乃は頭の告白を黙って聞いていた。
表情を崩さず、ただじっと頭の頭頂部を見つめている。
『邪神様……』
意識の奥で、セシリアが不安げに声を上げる。
『彼、本当に反省しているみたいです……。村の人たちを襲ったのは許せませんが、これ以上は……』
セシリアの人の良さが、敵であるはずの山賊の頭への同情を引き起こしていた。
星乃はセシリアの言葉を無視し、大げさに両手を広げた。
「本当に、不運な子羊だよね。金に目が眩んで道を踏み外し、それでも最後には光を見出したんだから」
星乃の優しい声に、頭はビクッと顔を上げた。
その瞳には、助かったという希望の光が宿っている。
「か、神は……オレを許してくださるでしょうか……?」
「神も、きっと貴方の真摯な懺悔に感動して、貴方を許すでしょう」
星乃は慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
頭の顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます、勇者様!感謝します!オレは、オレは……!」
自分は生き延びた。
それどころか、圧倒的な力を持つ勇者の配下として、新しい地位を手に入れることができる。
頭の心が、歓喜で震えた。
「ならば」
星乃の声のトーンが、一瞬で氷のように冷たくなった。
「早速、今すぐ神のところに送ってあげるよ」
「はい!……はい?」
頭がその言葉の意味を理解できず、間抜けな声を出した。
『え……?』
セシリアも、星乃の思考についていけず戸惑う。
次の瞬間。
星乃は一切の躊躇いなく、手にした弩弓の先端を、顔を上げている頭の右目に思い切り突き刺した。
「あがっ!?」
頭が眼球を潰される激痛に悲鳴を上げようとした、その口が開くより早く。
カシャッ。
星乃の細い指が、引き金を引いた。
放たれた短い矢は、頭の右目を貫通し、そのまま脳髄を完全に破壊して後頭部から突き抜けた。
頭の巨体がピクリと跳ね、そのまま糸の切れた人形のように地面へ崩れ落ちる。
「ふふっ。神様の前で、たっぷり懺悔の続きをしてきなさい」
星乃は事も無げに言い放ち、血のついた弩弓の先を冷たく見つめた。




