35.邪神様の世界観、こわすぎるううう!!
岩の陰から静かに歩み出た少女の姿に、ペトラ村の広場は一瞬の静寂に包まれた。
「あれは……セシリア!」
腰を抜かしていたトマスが、信じられないものを見る目で声を上げた。
マーサや他の村人たちも、恐怖で引きつった顔を少女へ向ける。
「助けに来てくれたのか!金は全部返す、だから俺たちを助けてくれ!」
「逃げろ!近づくな!」
「馬鹿野郎!あいつが化け物を連れてきたんだ!俺たちを殺して、金の独り占めを狙ってるんだ!」
「逃げなさい、セシリア!早く!」
命の危機に直面した村人たちの口からは、必死の命乞いと、醜い罵倒、そして見当違いの責任転嫁が入り乱れて飛び出した。
(どうやら、これで本当にあんたを愛している人が誰だか、はっきりわかったわね)
星乃の冷たく嘲るような声が響く。
『邪神様!そんなこと言っている場合じゃないです!あのでかい蜘蛛ですよ!!!優先順位間違ってます!!』
セシリアは心の中で絶叫し、視界を覆い尽くすほどの巨大な魔獣から逃げ出したい衝動を必死に抑え込んでいた。
足元から伝わる振動と、鼻を突く毒の臭い。
村人たちの声など、今のセシリアには雑音でしかない。
目の前の三メートルを超える毒牙蜘蛛こそが、絶対的な死の象徴だった。
星乃はセシリアの悲鳴を完全に無視し、手に持っていた弩弓を腰の収納の指輪へ無造作にしまった。
代わりに、短い鉄の短剣を引き抜く。
巨大な毒牙蜘蛛を見上げ、肩をすくめた。
「やれやれ。ゲームの序盤に出てくるちょろいボスが、この世界では山賊団をまるごと潰すほどの戦力になるとはね……。お互い戦わせて、最後に負けたほうのトドメを刺すだけだと思っていたのにな」
星乃は一人ごちる。
その口調は、午後の日差しの下でお茶でも飲んでいるかのように、圧倒的に呑気なものだった。
右足のふくらはぎを矢で射抜かれ、地面に倒れ伏している山賊の頭は、その信じられない光景に目をひん剥いた。
「テメエ!!!どういうつもりだあああああ!?」
激痛と恐怖で声が裏返る。
「死にたいなら一人で死ねよおおお!なんでオレたちまで巻き込むんだ!」
頭の怒号が響くが、星乃は一瞥もくれない。
星乃の存在に気づいた毒牙蜘蛛が、複数の赤い眼球を一斉に向けた。
カチカチカチッ、と巨大な牙が鳴る。
先ほど自分の目を射抜いた小さな獲物を確実に殺すため、蜘蛛は太い前脚を高く振り上げた。
空を裂く音と共に、丸太ほどの太さがある脚が星乃の頭上から真っ直ぐに突き下ろされる。
『きゃあああっ!』
セシリアの魂が縮み上がる。
直撃すれば、少女の体など一瞬で潰れる。
しかし。
星乃はジャスト回避を発動させることすらしなかった。
地面を軽く蹴り、体を右へ滑らせる。
ドンッ!
蜘蛛の脚が足元の土を深く穿つが、星乃の体には掠りもしない。
「攻撃の動きが明らかすぎるわ」
星乃はため息をつきながら、再び跳躍した。
横から迫る二本目の脚を、姿勢を低くして潜り抜ける。
三本目の脚が薙ぎ払うように横から迫ると、今度は軽く後ろへステップを踏んで躱す。
すべてが最小限の動きだった。
力任せの突進に対し、星乃は一切の力を使わず、ステップと体捌きだけで完全に攻撃を無力化している。
ステップ、屈み込み、後方への跳躍。
すべての動きに無駄がなく、流れるような連撃の回避をこなしていく。
「攻撃の予備動作が大きすぎるし、攻撃範囲も狭い。こんな単純なパターンを持つやつに殺される人間は、あまりにも無能すぎるわ」
星乃は巨大な魔獣の攻撃を躱しながら、呆れたように喋り続ける。
『邪神様の世界観、こわすぎるううう!!』
セシリアは意識の奥で泣き叫び続けていた。
自分の体が、一歩間違えれば即死する攻撃の雨の中を、軽々と踊るように舞っているのだ。
「テ、テメエは……!?」
山賊の頭は、口を半開きにしたまま固まっていた。
自分が下級剣士の魔力をすべて注ぎ込み、命がけで防いでも跳ね返された巨大魔獣の連続攻撃。
それを、魔法の気配すら感じさせない小柄な少女が、息一つ乱さずにすべて回避している。
足元の土を蹴るだけの純粋な体術で、三メートルを超える化け物を完全に手玉に取っていた。
「ば、化け物だ……!」
少し離れた場所で逃げ遅れていた手下の男が、腰を抜かしたまま後ずさる。
「あんなの、人間の動きじゃねえ!」
別の手下も、武器を投げ捨てたまま地面を這いつくばる。
「頭の渾身の一撃でも倒せなかった魔獣を、ただの短剣一本で相手にする気かよ……!」
彼らの目に映る星乃は、毒牙蜘蛛よりも遥かに恐ろしい存在として刻み込まれていた。
星乃は七度目の回避を終え、短剣を握る手にぐっと力を込めた。
「さて。ごめんなさいけど、周りがうるさいから、さっさと死んでもらうわね」
星乃はセシリアの魔力を引き出し、鉄の短剣へ下級の身体強化魔法を強引に付与した。
刃が淡い光を帯びる。
毒牙蜘蛛が、最大の怒りを込めて両方の前脚を同時に振り下ろしてきた。
星乃はその軌道を見極め、真っ直ぐに前へ踏み込む。
「ジャスト回避」
タイミングが完全に重なる。
蜘蛛の二本の脚が星乃の体を挟み込むように地面を叩き割った瞬間、権能による追加行動が発動した。
星乃の体は、常人の目には残像すら残さない超高速で上方へ跳躍した。
一気に数メートルの高さを跳び上がり、蜘蛛の巨大な頭部の真上、無防備に晒された細い首の関節部分へと到達する。
空中で体を捻り、両手で短剣を逆手に構えた。
「落ちなさい」
全体重を乗せ、首の硬い外殻の隙間、肉が露出している部分へ短剣を真っ直ぐに突き立てる。
ザクリッ。
魔法で強化された鉄の刃が、硬い外殻の隙間を容易く貫通し、柔らかい内部の肉へ食い込む。
さらに星乃は、柄を両手で押し込みながら、自身の両足を短剣の鍔に乗せ、下へ向かって全体重をかけて強烈に蹴り込んだ。
「ぐあああああああああああああ!」
毒牙蜘蛛から、鼓膜を破るような激しい断末魔の叫びが上がった。
細い首の関節が完全に破壊され、緑色の体液が噴水のように空高く噴き出す。
巨体が大きく痙攣し、八本の脚がでたらめな方向へ空を切る。
星乃は蜘蛛の背を蹴って後方へ跳躍し、安全な距離で着地した。
ズスーンッ!
激しい地響きと共に、三メートルの巨体が広場の土の上に崩れ落ちた。
脚はぴくぴくと痙攣を繰り返しているが、もはや立ち上がる力は残っていない。
僅か一撃。
絶望的な暴力を振るっていた巨大な魔獣は、一本の短剣によって完全に沈黙した。




