3.メニューが開かない……?
「早く逃げなさい!私の防壁は長く持たないわ!」
リリアは切羽詰まった声で叫びながら、両手を前に突き出した。
彼女の掌から淡い光の層が広がり、冒険者たちと魔法陣の間を遮るように防壁が展開される。
ギルド内の空気が一変した。
「今回のバージョン更新、本当にすごいな。NPCの行動がすごく自然になってる」
私は感心しながらリリアの切羽詰まった顔を見つめる。
以前のバージョンなら、ボス戦前でもNPCは棒立ちで同じ台詞を繰り返すだけだった。
ふと視線を上に向けた。
「そう言えば、さっきから配信のコメントが表示されてない。おかしいな……バグってるの?」
架空のモニターがあるはずの空間には、文字一つ浮かんでこない。
システムの不具合かもしれないが、配信が続いているかどうかわからない以上、プロとして最高のプレイを見せなければならない。
「みんな、コメント見えなくてごめんね!でも、ここからが本番だから!」
私がカメラに向かって手を振った瞬間。
地響きとともに、魔法陣の光が赤黒く変色した。
空間が歪み、巨大な影が姿を現す。
四つん這いで体長三メートルを超える、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼の魔獣だ。
「ヒィィッ!」
「逃げろ!入り口へ走れ!」
防壁越しに魔獣の姿を見た冒険者たちが、武器を放り出して我先にと出口へ向かって走り出す。
パニックに陥る彼らの反応も、実にリアルだ。
私は腰に差していた初期装備の短い剣を抜き放ち、架空のカメラに向かってウインクをした。
(本来なら、この初期ステータスじゃダメージを与えにくいんだけどね)
私は口角を上げる。
プロのプレイヤーである私には、この魔獣の弱点が手に取るようにわかる。
巨大狼が低く唸り声を上げ、巨体に似合わぬ速度で飛びかかってきた。
鋭い爪が私を引き裂こうと迫る。
ステータスが低すぎて、普通に回避しようとしても絶対に追いつかれない。
だから、避けない。
私は攻撃が当たる直前のコンマ数秒のタイミングで剣先を合わせた。
ギィンッ!という金属音が響く。
ジャストパリィ。
敵の攻撃を完璧なタイミングで受け流すことで、自身は無傷のまま、相手の体勢を強制的に崩すシステムだ。
巨大狼は自身の突進の勢いを利用され、バランスを崩して床に転がる。
「なっ……なんだあの動きは!?」
「あんな小娘が、ボロボロの短剣で中級の魔獣の攻撃を正面から弾いたぞ!?」
バリアの中に避難していた冒険者たちが、信じられないものを見る目を向けて叫ぶ。
驚きの声が上がる中、私は素早く間合いを詰める。
魔獣はすぐに体勢を立て直し、怒りに任せて巨大な顎を開き、私を噛み殺そうと迫ってきた。
これも予測通りだ。
今度は短剣を構えず、体を限界まで沈め、ギリギリのタイミングで横に飛んだ。
ジャスト回避。
敵の攻撃を紙一重で躱すことで、一瞬だけ鋭い踏み込みと追加攻撃が可能になる。
私は魔獣の顎の下を滑り抜けながら、開いた口の奥へと刃を突き立てた。
「そこ!」
狙いは、硬い毛皮に覆われていない柔らかい肉の塊だ。
「ギャアウンッ!」
刃が口内の肉を深く切り裂き、鮮血が噴き出す。
魔獣は苦痛に身悶えし、私を振り払おうと暴れ狂う。
「ほらほら、どうしたの?動きが単調だよ!」
私は魔獣の薙ぎ払いを再びジャストパリィで弾き、体勢が崩れた隙にジャスト回避で懐へ入り込み、再び口内へ刃を突き刺す。
この繰り返しだ。
徹底的に弱点のみを穿ち続ける。
狼が苦痛の咆哮を上げ、暴れ回る。
私はそれを再びジャスト回避で躱し、反撃を叩き込む。
右へ、左へ。
巨獣の猛攻をすべて紙一重で躱し、あるいは弾き、弱点だけを的確に突いていく。
(おかしいな……この魔獣、いつもよりかなり頑丈だ。バランス調整されたか?)
ギルド内の冒険者たちは、もう言葉を失い、食い入るように私の戦いを見つめている。
約五分間の激闘が続いた。
狼の動きが鈍り、息が上がっている。
体力の限界だ。
私は最後のジャスト回避で狼の頭上に飛び乗り、短剣を両手で構え、その赤い眼球へ深く突き立てた。
刃が深く突き刺さり、狼は断末魔の叫びを上げて地面に崩れ落ちた。
ピクピクと痙攣した後、完全に動かなくなる。
「は……はぁ……っ」
私は膝に手をつき、激しく息をついた。
息が信じられないほど苦しい。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、視界がぐるぐると回る。
ヤバい。
やはりおかしい。
この魔獣、頑丈すぎる!それに、私の動きも中盤から少しずつ遅くなっていた。
息が詰まり、めまいが酷い。
本当に激しい運動をした直後の感覚だ。
ゲームの中での疲労は、現実の体にここまでフィードバックされないはずだ。
やはり、現実の私の熱が限界を超えているんだ。
このまま続けたら、本当に倒れてしまう。
限界だ。
これ以上配信を続けるのは危険だ。
私は架空のカメラの位置に向かって手を振り、苦しい息のまま口を開いた。
「みんな……ごめん。今日はちょっと体調不良で、配信を中断するね。また明日……!」
そう告げて、私はシステムメニューを開くため、右手で空中に特定のジェスチャーを描いた。
いつもなら、これで目の前にログアウトのボタンが表示されるはずだ。
しかし、何も起こらない。
「あれ……?」
私は首を傾げ、もう一度同じジェスチャーを繰り返す。
何度やっても、メニュー画面は表示されない。
システム音が鳴ることもなく、ただの虚空を撫でているだけだ。
(メニューが開かない……?)
焦りが胸の奥から湧き上がってくる。
両手を使って色々なジェスチャーを試し、音声コマンドで「ログアウト」「システムメニュー」と何度も唱える。
無反応だ。
ゲームの操作が一切効かなくなっている。
「え……?どういうこと……?」
...
...
...
その時だった。
「こ、この邪教徒がっ!」
背後から鋭い声が響いた。
リリアだ。
彼女はバリアを解き、両手で杖を強く握りしめている。
謎の女が虚空に向かって手を動かし、ブツブツと呟いている姿を、彼女は何か恐ろしい呪いの詠唱だと勘違いしたのだ。
杖の先端から、小さな風の塊が撃ち出される。
(な、何してるの私!こんな弱い魔法ではあの謎の女に当たるわけがない…!殺される!)
リリアの予想外のことが起きた
「うあああっ!?」
ダメージ自体はたいしたことはないはずだ。
初期ステータスであっても、この程度の風なら耐えられる。
しかし、極度の疲労に苛まれていた今の体には、その僅かな衝撃が致命的な一押しとなった。
謎の女はそのまま床に倒れ込み、あっさりと意識を手放した。
「は……はい?」
リリアは杖を構えたまま、ポカンと口を開けて固まっていた。
魔力も底を尽きかけて放った、威嚇程度の弱い風の魔法。
それで、中級の魔獣を素手同然で嬲り殺した正体不明の化け物が、いとも簡単に気絶してしまったのだ。
ギルド内は、魔獣出現時とは別の意味で、完全な静寂に包まれていた。
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