29.裏切られ、罵倒され、それでもなお命を賭して守る!
紫色の煙が視界を遮る中、星乃は足元の土を蹴り上げ、森のさらに奥深くへと身を翻した。
木々の間を縫うように走り、完全に気配を絶てる大きな茂みの裏に滑り込む。
ドクン、と心臓が強く跳ねた。
口の端から僅かに漏れる息が熱い。
下級ランクのセシリアの肉体は、ごく微量の毒を吸い込んだだけでも確実に機能を低下させ始めていた。
(厄介ね……。セシリア、今だけ操作を返すわ。早く回復薬を飲みなさい)
星乃は意識の糸を緩め、一時的に肉体の制御権をセシリアへ戻した。
交代した瞬間、セシリアは地面に膝をつき、激しい咳き込みに見舞われた。
「げほっ、ごほっ……!」
視界がぐらりと揺れ、手足の先から力が抜けていく。
セシリアは震える手で腰の収納の指輪に触れ、ルミナ都市のギルドで支給された回復薬の小瓶を取り出した。
コルクの栓を歯で引き抜き、青い液体を一気に喉の奥へ流し込む。
清涼な魔力が食道を通り、全身へ巡っていく。
熱を持っていた呼吸が次第に落ち着き、手足の痺れが少しずつ引いていった。
『邪神様……。毒は、なんとか抜けました。でも、体が少し重いです』
セシリアは木に背中を預け、荒い息を整えながら報告した。
(ええ、わかっているわ。完全回復とはいかない)
星乃の冷静な声が脳内に響く。
(ゲームなら、ここで敵を森の奥に誘い込んで分散させ、各個撃破の奇襲で一人ずつ殺していくのが定石よ)
星乃は木々の隙間から、森の外の様子を窺う。
怒号が飛び交い、山賊たちが武器を構えて森へ踏み込もうとしているのが見えた。
(よし。そのまま森へ入ってきなさい)
星乃が弩弓を握り直したその時だった。
「待て!森へ深追いするな!」
山賊の頭の太い声が響き渡った。
「相手は飛び道具と隠密に長けている。この暗い森へ入れば、一人ずつ狩られるだけだ。入り口を固めろ!森の縁を包囲し、外から火矢を射込んで燻り出せ!」
その指示に従い、森へ入ろうとしていた手下たちが一斉に足を止め、一定の距離を保ちながら森を半円状に囲み始めた。
(……チッ。向こうは経験者か。舐めてしまったわね)
星乃は小さく舌打ちをした。
相手はただの荒くれ者の集まりではない。
統率が取れ、地形の利と不利を正確に理解している。
(今の感じだと、外は完全に警戒されているわ。私が操作しないと、このまま取り囲まれて火攻めでやられるわよ)
星乃は状況の不利を悟った。
相手は数十人。
さらに弓兵が揃っており、頭は魔力を扱う下級剣士。
対するこちらは、疲労と毒のダメージが残るセシリアの肉体。
そして、星乃が完全に肉体を操作できる限界時間は、すでに残りわずかとなっていた。
(セシリア。ここは引くわよ)
星乃は冷徹に告げた。
(包囲が完成する前に、森の反対側へ抜ければ逃げられる。これ以上は危険すぎるわ)
『……引くって、村を見捨てるということですか?』
セシリアの弱々しい声が返ってくる。
(そうよ。あいつら、すぐに村への襲撃を始めるわ。あんたを追うよりも、目先の金品を奪う方が優先だからね)
星乃は事実を淡々と突きつける。
(あんたの命と、あんたを裏切った村人たちの命。どっちが大事か、考えるまでもないでしょ。逃げなさい)
セシリアは木に寄りかかったまま、地面を強く睨みつけた。
足が震えている。
恐怖で心が押し潰されそうだ。
村の入り口には、まだトマスやマーサたちが怯えながら立っている。
彼らが自分に浴びせた罵声と、歪んだ欲望の顔がフラッシュバックする。
『……それでも』
セシリアは両手で地面を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
『それでも、私を助けてくれたのは、あの人たちなんです』
セシリアの魂の奥から、強い意志が波のように押し寄せてくる。
(命をかけてまで、あのクズどもを救いたいって言うの?)
星乃は信じられないというように問い返した。
『はい。私が生きてこられたのは、あの村があったからです。だから……これが最後の、恩返しとして』
セシリアは弩弓を力強く握りしめた。
『邪神様!どうか、私に力を!村の皆を、助けたいんです!』
星乃は、セシリアの頑なな決意に言葉を失った。
裏切られ、罵倒され、それでもなお命を賭して守ろうとするその在り方。
ゲームのNPCであれば、ただの「お人好しな設定」と笑い飛ばすところだが……
(……本当に、呆れたわ。救いようのない馬鹿ね)
星乃は深い溜息をついた。
(でも……嫌いじゃないわ)
今のセシリアは、本当に眩しく見えている。




